第3章 第33話

「……何やってんの?あんた……」

「おう!いいとこ来た」

 何をやっているかは見れば分かるが、一応、確認のために聞いたユモに、満面の笑顔で振り向いて、雪風は言う。

「そこら辺適当に座って。もうちょっとで出来るから」

 蓋を開けたソーセージの缶詰が、器用にこしらえた小さな焚き火の上で沸騰している。その脇には、小枝を削った簡単なスキュア-に刺したソーセージが二本、遠火で炙られている。

「煮るのと焼くのとどっちが正解かわかんなかったから、両方やってみたんだけど」

 焚き火の前にしゃがみ込んでいる雪風は、これまた器用に携帯ナイフで、小脇に挟んだ軍用ライ麦パンコミスブロートを回してスライスしつつ、そう言い足す。

「……あきれた。ケシュカルの跡探さないでごはんの用意してたの?」

 雪風を見下ろして、腰に手を当てたユモはそう言って雪風を軽く責める。

「目処は付けたわよ?すぐ見つけたし、追うのに苦労しなさそうだったから、だったら今のうちに腹ごしらえした方が合理的でしょ?……お、焼けたかな?」

「一理あるように思いますな」

 ユモを見ずにソーセージの具合を確かめつつ言い返した雪風に、ニーマントが同意する。

「でしょ?ユモ、あんた、煮たのと焼いたのとどっち?」

「煮た方のソーセージヴルスト、ちょうだい。あと、ラードかなんかあったわよね?」

「あいよ」

 時刻的には既に昼を回っている。片手に焼いた方、反対側に煮た方のソーセージヴルストを――これまた枝を削ったチョップスティックで器用に挟んで――笑顔で言う雪風に、ユモは相好を崩して答え、すかさず雪風も相槌を打ってライ麦パンコミストロートに――軍用スプレッドの――ラードを塗り始める。

「あたしは焼いた方もらうわ……はい、ユモ。オーガストさん、どっちにします?」

 手際よくラードを塗ったパンブロートに切ったソーセージヴルストを載せた――だけの――ものをユモに渡してから、当たり前のように、雪風はオーガストに聞いた。

「え?いや、私は……」

「食べられなくはないんですよね?」

 自分は、今のこの体は、食事を必要としてない、そう続けようとしたオーガストの言葉は、しかし、丁寧ではあるが有無を言わせない圧をもった雪風の一言に出鼻をくじかれる。

「だったら、一口でも囓ってもらえません?あたし達だけ食べて、誰かがそれ見てるだけって、わかっててもあたし、すっごい申し訳なくて気になるんです」

「あんた、大食いだから余計よね……いただきますMahl Zeit.

 雪風の請求の言葉尻に、ユモは軽口を載せてからパンにかぶりつく。

「そうよ、自慢じゃないけどあたしはいっぱい食べたいから、だったらごはんはみんなで一緒にいっぱい食べて欲しいのよ」

 悪びれず、自分の分のパンにソーセージを載せながら雪風がユモに言い返す。いつもの、憎まれ口の言い合い。初めのうちはニーマントも本気で心配したが、その裏に悪意も何もなく、単に気の強い少女同志の言葉のキャッチボールに過ぎないことを理解してからは、全く口出ししなくなっている。

「……わかりました。では、焼いた方をいただけますか?」

 根負けしたオーガストは、ため息交じりにそう答える。ユキ嬢の言うのももっともだ、食事に参加しない誰かが傍に居たのでは、『楽しい昼食ランチ』というわけには行かないだろう、ましてや、年頃の少女達では、と心の中で呟いて。

「はい、じゃあ、これ、どうぞ」

 雪風は、出来たてのソーセージ載せパンをオーガストに差し出す。

「いいのですか?」

 それは、オーガストは、雪風が自分用に作っているのだと思い込んでいたものだった。

「どうぞどうぞ、出来は保証しませんけど」

 笑顔で言って、雪風は三枚目のパンのスライスにかかる。

「……では」

 なんとなく気後れを感じつつ、オーガストはそのパンに齧り付く。

 固形物を口にするのはどれくらいぶりだろうか。何年も水くらいしか含んでこなかった口の中に入ってきたパンとラードと焼いたソーセージは、初めのうちは、異物そのものでしかなかった。咀嚼する事さえ、意識して思い出して初めて顎が動いたくらいだった。

 オーガストの中のどこかで、何かが変わったのは、その次の一口からだった。

 どっしりした生地の、酸味の強いライ麦パンの、しかしその歯ごたえも味も感じず一口目を飲み下し、ソーセージラードの載った二口目を噛みしめた時、オーガストは、オーガストの味蕾みらいは、爆発的に思い出した。


「……おいしくなかった、ですか?」

 自分の分のパンを作りつつ、オーガストの様子に気付いた雪風が、おずおずと声をかける。

「こっちは変じゃないけど、焼きすぎたんじゃないの?」

 茹でソーセージを載せたパンをもぐもぐしながら、ユモが茶々を入れる。

「そんなはずないんだけどなぁ……」

 試しに小さく囓った自分の分のパンを飲み込んでから、やや俯いたオーガストの顔を覗き込むように小首を傾げて、雪風は呟き、気付く。

 オーガストが、涙を浮かべていることに。

「……いえ、違うのです」

 二口目のパンを飲み込んでから、オーガストは顔を上げた。

「おいしいです、たいへん、おいしい……私は……」

 一度言葉に詰まり、悲しいようにも、嬉しいようにも見える笑顔で、オーガストは言い直した。

「私は、こんな食事をもう一度摂れるとは思っていませんでした。この体になって、もう二度と、普通の、人並みの生活を、食事を出来るとは……」

 オーガストは、『白熊の着ぐるみ』の手首の切れ目から抜き出している自分の掌を見下ろしながら、続ける。

「……『彼』に、言った事があるのです。もう私は、午後の公園のベンチで、日向ぼっこしながらホットドッグをかじるような安寧は、二度と味わえないでしょうと。しかし、今、私は、それに近い事をしている……」

 オーガストは、その手に持った、ソーセージを載せただけのライ麦パンを見下ろす。

「温かい食事など、出来ないものと思っていました。実際、あれ以来、数える程しか固形物は口にしていないし、このチベットに落ち着いて以来は雪以外何も口に入れた覚えがありません……」

 がぶりと、口いっぱいにパンをほおばり、噛みしめ噛み砕き、飲み込んで、オーガストは今度こそ嬉しそうに、笑う。

「この歳になってやっとわかりました。誰かと一緒の食事が、どれほど美味しいものなのか」


「だからって。いい大人が、泣くほどのこと?」

 やれやれと肩をすくめつつツッコミを入れるユモの、しかしその口調は微笑含みの優しいものだ。

「……あたし、ちょっとわかる」

 雪風が、言葉を返さなかったオーガストに変わって、言う。

「うちのパパね、たまに、独りで野宿しに行くの。もちろん、家族でキャンプとかも行くけどさ、たまにね、独りで、寂しさを味わうために行くんだって。そうすると、家族で食事する幸せが、有り難さがよくわかるんだって」

 言って、雪風はパンの最後の一かけを口に放り込む。

「似たようなこと、パパファティも言ってたっけ……戦争中にね、パパファティ、あんまり戦争中の話しないんだけど、上官に、『可能な限り、部下には暖かいメシを食わせろ』って教え込まれたって。どんなに苦しくても、暖かい食事さえ出来ればなんとか耐えられる、人間性を保てる、そう教えられたって」

 珍しくしんみりと、ユモも呟くように言った。

「……人間性、ですか」

 残り少なくなったパンを見下ろして、オーガストが呟くように言う。

「確かに、そうかも知れません」

「大変に興味深いお話しです」

 ユモの胸元から、声がする。

「私は、そのあたりがどうも理解出来ません。そもそも、私には味覚、それから嗅覚と触覚もありませんから、食事に関するあれこれを理解するのはそれこそ無理難題なのですが」

「まあ、あんたは石っころだもんね」

 ニーマントに、ユモはきつめの言葉で相槌を打つ。

「おぼろげながら、味覚の何たるかは知っている気はするのです。思うに、私は、この石に封じられる前にはあなた方のような『肉の体』を持っていた時期があったのではないかと。それこそ『彼』が私を『彼』の分身と呼んだように。まあ、それはともかく、味覚というのがそれほどまでに人間の心理に影響するというのは、実に興味深い」

「人間、ですか……」

 ニーマントの語りに、オーガストは寂しげに笑って、答える。

「確かに、お二人と過ごしたあの時、私が人間であった最後の数日は、とても楽しかった。豆と肉だけのスープであっても、笑いながら食べる食事は、とても美味しかった……そうだ、それからの十年、私は、誰とも食事を共にしてこなかった」

 オーガストは、顔を上げる。その顔には、十年前には見られなかったような、深い苦悩の陰があった。

「私は、人間ではなくなったから」


「……ソーセージ、あと二本か」

 雪風は、蓋を開けた缶詰の中の茹でソーセージの残りを確認して、言う。

「ユモ、もう少し食べる?」

「え、あ、うん」

 ユモは、感じ取る。その程度には、ユモは雪風と共に時間を過ごし、また互いに通じ合っているから。

 雪風は、話の接ぎ穂をさがしているのだ、と。

「ちょっとだけ、もう少しだけ欲しいかな。オーガスト、あなた、半分こしない?」

「……御相伴にあずかりましょう」

 言って、オーガストは手の中に残ったパンを一口でほおばる。

「じゃあ、もう一本はあたし、もらっちゃいますね……はい」

 器用に回しながらスライスしたライ麦パンをさらに半分に切ってラードを塗り、半分に切ったソーセージを載せながら雪風は言って、ユモとオーガストに渡す。

 渡しながら、やや低い声で、雪風はユモに聞く。

「……ねえユモ、『人間』の定義って、何?」

「そうね……」

 その質問が来るだろう事を確信していたユモは、ちょっとだけ考えるふりをしてから、用意していた答えを口にする。

「……生物学的、文化人類学的な定義はともかく、あくまであたしの主観で言うなら『自ら人であろうと努力し、周りもそれを認める者』かしらね」

 そう言ったユモの目は、雪風ではなくオーガストを見ている。

「あたしも、そう思う。あたしを含めて、あたしの身の回りに居る『獣人けものびと』のみんな、遺伝子レベルで普通の人と差が無いんだって」

 雪風は、自分用のソーセージ載せパンを作りながら、言う。

「でね、うちのパパはバイオ系の研究者だから、仮説を立てたんだって。『すべからく人は皆、その素質・・・・を持っている。それが発現するか否かは、そうあれと強く願うか否か、その違いだけだ』だって」

「それって、あんたが特殊なんじゃなくて……」

「そう、口笛が吹ける人と吹けない人、指パッチン出来る人と出来ない人、その程度の違いじゃないかって。今、そのエビデンス探してるって言ってたわ」

「なるほどね……」

 その考えはなかった。ユモは、素直に感心する。感心して、気付く。やはり、好き好んで人狼ひとおおかみめとるような男は、考える事が違う、と。

 そして、続けて思う。それで言ったら、好き好んで『月の魔女』を娶ったうちのパパファティも似たようなものか、とも。

「だからね」

 雪風は、手に持ったパンを、荒々しく齧り取る。

 人狼ひとおおかみの姿で、その鋭く、猛々しい犬歯で、がぶりと豪快にかぶりついて。

「オーガストさん、今のあたしは、ヒトですか?獣ですか?」


 ああ、そうか。そうなのか。

 オーガストは、思う。この少女達は、彼女たちの一族は、私が思い悩んでいた問題など、とうの昔に通り過ぎて来たのだ、と。

 ヒトのことわりから自分は踏み出したと思っていたが、しかし、まだ軸足はヒトの理の中なのだ、と。

 その事に思い悩む、それを気にしているうちは、自分はまだまだ『人間』なのだ、と。

「ああ、ユキさん、あなたは……あなたは、ヒトでまちがいない。それも、とびきりのお嬢さんだ」

「でしょ?」

「まあ、わっかりやすいわよねぇ」

 ユモが、苦笑する。

「あの流れだもん、そりゃそう言うしかないわよね」

「任せなさいよ、ディベートのテクニックはパパの仕込みよ」

「……そうだ。そして、私もまた、ヒトなのですね?」

 震える声で、オーガストが言う。

「そうよ。自信持ちなさい、この魔女見習い、ユモ・タンカ・ツマンスカヤが太鼓判押してあげるわ。その事に思い悩むあんたは、まぎれもなく『人間ヒト』よ」

 ローティーンの少女に太鼓判を押されて、優にその三倍は人生を経験しているはずのオーガスト・モーリー米陸軍軍医中佐――この十年で昇進している――は、屈託のない笑顔を見せると、勢いよくパンにかぶりついた。

「……では、私は?」

 ユモの胸元から、声がする。

「私は、私も、その定義では『人間ヒト』なのでしょうか?」

 輝かないアンシャイニング・多面体トラペゾヘドロンに棲まう意識体、エマノン・ニーマントの声は、いつになく頼りない。

「……あんたが過去どんな存在だったかは知らないけど」

 ユモは、服の下からペンダントを引き出し、目線に上げる。

「今のあんたは、『人間ヒト』のそれだと思うわよ?」

「ああ……」

 それは、ユモも雪風も初めて聞く、ニーマントの安堵の声だった。

「それは、嬉しいですね……」

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