第3章 第20話
「……あたしさぁ……」
翌朝。山の端からこぼれる朝日に照らされはじめた街をナルブ邸の客間の窓から見下ろしながら、雪風は呟いた。
「……チベットってさ、乾いたガレ場の山肌と、だだっ広い草原、ってイメージだったのよね」
チベット密教に代表される『宗教の国』、21世紀人である雪風のチベットに対するイメージはだいたいそんなところで、その風景は政治中心であるポタラ宮を擁する首都ラサの寺院と、その周囲に広がる広大な草原と牧畜を主体とする住民、さらには、その周囲の裸の山肌とそこに住む少数民族、そんな感じであった。
しかして、今、雪風が見下ろすのは、
「どっちかってーとさ、このへんって、中国の田舎の風景よね」
「あたしはよく知らないんだけど」
洗面台で顔を洗いながら、ユモが答える。
「チベットって、中国が占領してたんじゃないの?」
1961年現在の知識を持つ欧州人のユモにとっては、ただでさえアジアの山中の事情に疎い上に、『
「中国領チベット自治区、だっけ?正式には」
地理的な位置関係におけるチベットは世界地図帳には載っているが、政治的、歴史的な経緯については学校ではやらないので、雪風の知識はあやふやだ。
近代に限った場合、チベットが独立国であった時期は非常に短い。清国の保護下にあった19世紀末から、辛亥革命による清国の崩壊と中華民国樹立の隙を突いて独立を宣言したのが1913年、しかし中華民国は独立を認めず、1949年に再度、今度は中華人民共和国がチベット統治を宣言し、これに憤ったチベット人民による1956年からのチベット動乱へと繋がり、結果としてダライ・ラマ14世はインドに亡命、暫定亡命政府を樹立すると同時に、中華人民共和国によるチベット併合が既成事実化する。
ユモと雪風の居る今、1936年は、3年前にダライ・ラマ13世が崩御し、3年後にダライ・ラマ14世が選出されるそのちょうど中間に位置し、付け加えるなら日華事変が勃発する前年でもあり、インドを足がかりに中央アジアに版図を広めようとする大英帝国の進出著しい時期でもあり、だからこそナチスドイツが対抗し浸透する好機でもあり、本来穏やかなはずの宗教国家にとって、風雲急を告げる時期であった。
「……めんどくさいことになってるのね」
雪風による20世紀末から21世紀にかけてのチベット問題の、若干あやふやなあらましを説明されたユモは、そう感想を述べる。
「いや、これからなるのか」
「まあ、だとしても、あたし達に出来る事もないし、『歴史に干渉してはならない』は
「あたし達の存在自体が干渉である可能性は?」
「現時点では何とも言いかねますな」
ユモの呟きに反応した雪風の返しに更に返したユモの一言に、今度はニーマントが意見を述べた。
「ここまでの
「そおねぇ。チベットより、ナチスというか欧州の方が深入りすると面倒か……」
「あんた、あたし以上に先のことまで知ってるわけだものね」
嘆息する雪風に、顔を拭き終わったユモが突っ込む。
「ま、言っても信じないような未来なら色々知ってるけどね」
「言うんじゃないわよ?あたしだって、聞くの我慢してるんだから」
ユモ自身も、自分の知る歴史の50年先について、興味津々ではある。が、それを聞いてしまうことの危険性は、重々承知している、つもりでもある。
「わかってるわよ。あたしだって、50年前の世界情勢なんて、聞いたって信じられないもの」
雪風にしても、自分の知る欧州の国境線と国名がいくつか、『
窓枠に腰を預けて肩をすくめた雪風に、腰に手を当てて胸を張ったユモが、言う。
「とにかく。あんたも顔洗って髪とかして身だしなみ整えて。朝ご飯いただきに行きましょ」
ユモと雪風が案内された食堂では、件の少尉、ペーター・メークヴーディヒリーベ
「おはようございます、少尉さん、兵隊さん」
「おはようございます、少尉殿、えっと、兵隊さん」
食堂に入り、その姿が目に入ると同時に挨拶した二人――雪風は兵の肩章を読もうとして、失敗した――に、ペーター少尉は挨拶を返し、二人の兵は会釈する。
「おはようございます、
「ええ。睡眠時間は不足気味ですけど」
「まあ、あのようなことが夜中にあれば」
「少尉さんはお休みになれまして?」
床に置かれた座布団に腰を下ろしながら、ユモが少尉に聞く。
「あの後も、大変だったのではなくて?」
「それですが」
ナプキンで口を拭いて、ペーター少尉が答える。
「あの後、私も早い段階でお払い箱になりまして。この件は現地の治安維持機構の管轄であって、外国勢力の手は不要、との事でした」
ペーター少尉は、そう言い終わると立ち上がる。間髪置かず、二人の兵も立ち上がる。
「改めまして、
ペーター少尉と、それに続いて二人の兵が頭を下げる。
「いえ、いえいえいえ、お気になさらず。ホントたまたまですから」
「そうよ。職務怠慢だわ」
咄嗟に恐縮する雪風を遮って、ユモが大上段から振り下ろす。
「……ユモ、あんたね」
「あたし達が気付いたのはたまたまだってのは本当だけど、どんな状況でも、交代で不寝番くらい立てておくべきだったわよね。たとえそれが、安全だと信用出来る環境であるとしても。ここは、異国なんだから」
諫める雪風の言葉も無視してユモはまくしたて、いったん言葉を止めてから、自嘲気味に付け足す。
「ま、あたし達自身も同じ事なんだけど」
「面目次第もございません」
ユモのきつい言葉にも、しかし気を悪くした風でもなく、ペーター少尉は
「おっしゃる通りです。いかに友好的であるとは言え、ここは我々の母国でもなければ友軍の勢力下でもない。まったくもって、油断でした」
「……少尉殿、そこは怒っていいところですよ?」
雪風が、あきらめ顔で突っ込む。
「ユモの無茶振りをいちいち真に受けてたら身がもちませんて。普通思わないですよ、仮にもナルブさんは地方領主、そこに侵入者なんて……少尉殿、いい人すぎです。ほらユモ、いいからさっさと座ってゴハンにしましょ」
自分達の分の食事らしきものを持って来た下女に会釈しながら、雪風はユモの袖を引いた。
「!」
朝食が一段落し、食後のお茶というタイミングで、ぴくりとユモが体を震わせた。
「どしたの?」
「……ちょっとお花摘んでくる!ごめんなさい少尉さん、ユキ、来て!」
言うなり、ユモは部屋を飛び出す。
「あ!ちょっと!すみません失礼します!」
慌てて、雪風はそれでもペーター少尉に一言言ってからユモの後を追う。
「あら?」
食堂から飛び出した二人を、茶器を持って食堂に入る手前だったドルマが見かけ、怪訝な顔をする。
「……お二人、どうかなさったのですか?」
「お花を摘んでくるそうです」
「お花……?」
食堂に入ったドルマは、ユモとユキの様子をペーター少尉に尋ね、その返事の意味を取り損ねて、食堂の壁際の花瓶に目をやる。
「お花、お気に召さなかったのかしら?」
「ああ、それは隠語です。お手洗いですよ」
「まあ……」
思いのほか驚いた様子で、ドルマは感嘆した。ペーター少尉はその表情を、欧州言語にも長けたドルマであっても、文化的にそういう隠語を使う習慣自体がなかったのだな、と理解した。
「……お口に、いえお腹に合わなかったのかしら……」
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