第2章 第18話

「……誰か来ます」

 ユモの胸元から、ニーマントの声がした。

「ああ、ナルブ氏です」

 ため息をついて、ユモは広げていた百科事典のような本を閉じる。閉じるやいなや、その本は立体パズルのように複雑に分解と再結合を繰り返しながら小さく折りたたまれ、あっという間にユモの胸元の水晶球に同化する。

「ケシュカル君?……いや、え?」

 水晶球を胸元に仕舞い込んで、ユモが深呼吸した直後に、ナルブが部屋に入ってくる。

「居ないわよ。窓から出てったみたい」

 薄暗がりの中で、ユモはナルブに言う。

「え、あ。その声は、ユモ嬢か」

 後を付いてきた下男に持たせていた明かりで部屋の中を照らして、ナルブはそこに居るのがユモである事を確認する。ユモと雪風の寝室もそうだが、万一の火災を警戒して、寝室のランプは宵の口に下男下女が回収してしまっていた。

「どうして、君がここに?」

「寝付けなくて外を見てたら、この部屋から誰かが出ていくのが見えて。背格好からケシュカルかなって思ったんだけど、やっぱり?」

「ええ、この部屋は確かにケシュカル君にあてがったものです……ああ、師範ロード

「何の騒ぎかと思えば……ケシュカル君が出奔したのですか?」

「どうやら、そのようです」

 後から現れたモーセス・グースに、ナルブは簡潔に答える。

「なんと……明日には寺院に行くというのに」

「それが嫌で逃げたしたんじゃなくて?」

 モーセスの呟きに、ユモが冷静に突っ込む。

「……思いたくはありませんが。昼間にお話しした時も、ケシュカル少年は緊張こそすれ嫌がる様子はありませんでしたから」

「でも、夜になって怖くなっちゃったって事は?」

「あるかも知れません。あるいは……」

 モーセスは、窓の外を見る。

「……魔物にそそのかされたか」

「まさか、師範、この屋敷で」

 モーセスの一言を、ナルブは即座に否定にかかる。

「いやいや、そう思われる気持ちはわかりますが、ナルブ閣下。確かに、この屋敷は色々と魔除けを施してありますが、何事も完璧という事はありませんし、魔物が付け入る隙というのはどこにでもあるものです。であるが故に、人は常に精進しなければならないのですが」

「なるほど……」

 モーセスのもっともらしい反論に、ナルブは納得してしまう。

――魔除け、ねぇ……――

 ユモも、この屋敷のあちこちに、それなりの放射閃オドを発する、あるいは源始力マナの込められた置物や貼り紙の類いがある事は気付いていた。専門外である為に、一瞥しただけでは効力その他は正確には値踏み出来ていないが、それらが眉唾物でないことはユモの目にも確かだった。

――外からの侵入は防げても、自分で出ていく分にはどうしょうもないわよね――

 効果の正確な値踏みは出来なくても、『月の魔女』リュールカ・ツマンスカヤの一番弟子にして愛娘、『魔女見習い』ユモ・タンカ・ツマンスカヤにとって、その放射閃オド源始力マナの矛先をあらためるのはたやすいことではあった。

「……とにかく、屋敷のものが後を追っています。師範は、一旦客間に。ユモ嬢も……そういえば、ユキ嬢は?」

「ユキも、ケシュカルを追って行ったわよ」

 あっさりと、ユモは答える。

「ケシュカルが出ていってすぐ。屋敷の人より早く追いつくんじゃないかしら」

「なんと、こんな夜道を。いや、領主である私が保証します、街の治安は非常によいですから、万に一つもユキ嬢に何かあるとは思いませんが」

「大丈夫よ、あの子、めっぽう腕は立つから……客間に行くんでしょ?ちょっと冷えるから、熱いお茶が欲しいわ」

「……その通りですな、用意させましょう」


「すると、門番が、ケシュカル君に気付いた?」

 客間のクッションに腰を下ろした一同は、火にかけ直したバター茶プージャを啜りながら、事の顛末を確認しあっていた。

「いえ、門番ではありません。門番は、その、居眠りしていたようで」

 モーセスの確認に、ナルブはバツが悪そうに答える。

「普段はそんな事ない男なのですが、今夜に限ってどうしたことか……とにかく、最初に気付いたのはドルマです」

「ほう?ドルマが?」

「はい。ケシュカルらしき人影が出ていくのを見て、部屋がもぬけの空であるのを確認して、私を起こしに来たそうです」

「そのドルマは、今どこに?」

「それが……どうも、ドルマもケシュカルを追って行ったようで」

「なんと……それは勇敢なことです」

――つまり、一つ間違ってたら、あたしはドルマさんと鉢合わせてたかもって事ね――

 ユモは、そうならなかった幸運に胸をなで下ろす。そして、

――……ユキが、鉢合わせてなければ良いけど――

 飛び出して行った相方の消息に気を巡らす。雪風はとっくにニーマントの把握出来る範囲を出てしまっている。、使い魔の契約フェアトラーク フォン フェアトラートをしている以上、手順を踏めば互いの意識を『繋ぐ』事も出来るが、『等分の契約』である以上互いの同意が必要だし、悠長に呪文を唱えている余裕もなければ、ナルブやモーセスの前でそれをやる訳にもいかない。

「何もないとは思いますが……おお、ドルマ」

 その時、お替わりのポットを持って、ドルマが客間に現れた。

「遅くなりました、申し訳ありません」

 一礼して、ドルマはナルブとモーセスのカップに茶を注ぐ。

「心配していました……で、ケシュカルは?」

「それが……」

 ナルブに聞かれたドルマは、首を横に振る。

「街に下ったのは間違い無いと思いますが、そこから先はどうにも……早々に諦めて帰ってきていたのですが、着の身着のままで皆様の前に出るわけには参りませんから……」

 なるほど、夜着の上に防寒着を引っかけただけのナルブとモーセスに対し、ドルマはきちんと服を着込んでいる。

「……その腕は?」

 ユモが、自分のカップに茶をそそぐドルマの、左の袖口から見えた二の腕の包帯に目を留めて聞いた。

「これですか?夜道であわてて転んでしまって……大したことはありません、お見苦しいところをお見せしてすみません」

 恥ずかしそうに、ドルマは袖を引いて包帯を隠す。

「それはよくない。大丈夫なのですか?」

 モーセスが、心配そうに聞く。

「はい。私としたことが、こんな怪我をしてしまうなんて……ほんの打ち身です、痣がお見苦しいので包帯をしているだけですから、師範ロード、どうぞご心配なく」

「ならばよいのですが……」

「大丈夫なんだね?」

 まだ心配げなモーセスに替わって、ナルブが確認する。

「はい、ナルブ様。このとおりです」

 ドルマは、左手でポットを持って上げ下げしてみせる。

「……失礼します……なによユモ、人走らせといて何あんたは悠長に茶ぁしばいてるのよ」

 下女に導かれて、雪風が客間に入ってきた。


「ああ、どうもありがとうございます……?」

 ユモの隣に腰掛けた雪風は、ドルマにカップのお茶を渡されて礼を言う。礼を言って、その視線は目ざとく、ドルマの左腕の包帯に留まる。

「ドルマさん、ケシュカルをおっかけて転んでぶつけたんですって」

 ユモが、雪風に耳打ちする。

「ふうん……大丈夫?痛くありません?」

「ええ。大丈夫」

 ドルマは、微笑んで雪風に答える。

普通だったら折れるじゃ済まなかった・・・・・・・・・・・・・・・・・かも知れませんけれど。痛みは殆どありませんよ」

 言って、甘い残り香・・・・・を残してドルマは雪風から身を離す。

「それは良かったです」

 笑顔を返して、雪風はバター茶プージャを啜った。

「で?逃げられたって訳ね?」

 その雪風に、ユモが単刀直入に聞く。

「追いつけなかったわよ、もう、腹立つ。足には自信あったのに……賊は男四人でした、人相とかは、ちょっとわからないです、すみません」

 雪風からユモへの返事の後半は、そこに居る全員にむけてのものだ。

「いえ、ユキ・タキ嬢フラウ ユキ・タキがご無事なだけで充分です。しかし」

 ペーター・メークヴーディヒリーベ少尉は、言い含めるように、雪風に言う。

「軽率な行動は控えてください。正義感に駆られるのは大変結構ですが、あなた自身に何かあったら大変です。あなた自身も、非常に大切な『福音』なのですから」

「……はい、すみません」

 『福音』はともかく、真剣に少尉が心配しているのが伝わったのだろう、雪風は素直に謝る。

――ま、ユキに何かあるようなら、ここに居る誰も無事じゃ済まないでしょうけどね――

 ユモは、心の中だけでそう場の雰囲気に突っ込んで、バター茶プージャを一口含んだ。

「それで、他に何か気付かれた事は?」

 ナルブが、ユモと雪風を見ながら聞く。

ユモ・タンカ嬢フラウ ユモ・タンカが最初にケシュカル君の部屋に入られたと聞いていますが、何か見聞きされましたか?」

 ナルブに続けて、ペーター少尉もユモに尋ねる。

「いえ、特には……ケシュカルらしい人影が窓から出ていくのを見て、部屋の位置の見当を付けて来てみたら、この部屋の扉が少しだけ開いてたの。それで、中の様子を見てみたら、窓が開いてて」

 ユモは、その時の状況を説明する。おおむね本当だが、部屋の位置は見当を付けるまでもなく、ニーマントによって最初から特定出来ていた事はもちろん言わない。

「その時はもう、部屋の中には誰も居なかったわ。窓も開けっぱなし、外を見たけど、もうなにも見えなかったわ」

 ユモは肩をすくめる。

「そうですか……わかりました」

 ナルブは、ため息をついてから、決断する。

「お嬢様方は、もうお休みください。もう夜半も回ってしまってますし、後は、家の者に調べさせます……これは、この土地を納める私の不手際でもありますから」

「寺院としても、協力は惜しみません」

 モーセスが、ナルブに言う。

「きっと、ケシュカル君の元の盗賊仲間がそそのかしに来たのでしょう。嘆かわしい事です。是非とも、その皆さんにも御仏の慈悲を説いて差し上げたいものです」

「そのためには、足取りを掴まなければなりませんが……」

「明日、夜明けと同時に手すきの沙弥しゃみ比丘びくに手伝ってもらって、街の外も捜索しましょう。付近の家々を回れば、何らかの手がかりが掴めるかも知れません……申し訳ありません、明日、お嬢さん方とお話ししたかったのですが、かような事態です、断念せざるを得ません」

「そうですね……あたし達はお手伝いしなくても大丈夫ですか?」

 すまなそうなモーセスに、雪風はとりあえず聞いてみる。

「これは、もはや地方自治の問題になります。異邦人であるあなた方のお手をこれ以上煩わせる事はないでしょう。そうですね?ナルブ閣下?」

「はい、その通りです、師範ロード。ペーター少尉殿、あなたもお休みいただいて結構です、深夜にお騒がせして申し訳ありませんでした」

「いえ、お構いなく。私個人としても、我が小隊としても、協力は惜しまないのですが、過干渉や政治介入の類いは避けよと我々も命じられております、残念ですが……」

「もちろん、それで良いのです、お気になさらず。では、明日、朝食をまたご一緒しましょう。お嬢様方も、お騒がせして申し訳ありませんでした」

「お気になさらないで。あたし達自体が、そもそもの元凶なんだから。おやすみなさい、皆様」

 ユモはそう言って、ワンピースのスカートをつまんで軽く膝を折って挨拶し、くるりと踵を返す。雪風もそれに倣い、ユモの後を追った。

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