第2章 第16話
「ユモさん、雪風さん、深夜に申し訳ありませんが、起きて下さい」
『耳の中』でそう囁くニーマントの声に、一瞬だけ間を置いて雪風は飛び起き、しかしユモは寝返りを打つ。
「……たく……何があったの?」
割といつもの事なので――昼間歩いた疲れもある、という仏心もあって――ユモを無視した雪風は、深夜の客間の暗闇の中、小声でニーマントに聞く。
「ケシュカル少年が、部屋から出ました……ああ、屋敷の外に出るようです」
「マジか……ユモ!起きて!」
全容こそ把握出来ないが、何やら思わしくない事態だと悟った雪風は、今度は容赦なくユモを起こしにかかる。
「誰か一緒に居るの?」
ユモを起こしながら、雪風はニーマントに聞く。
「お一人のようです……いや、門の外に、何か……人?にしては……四人ほど」
「ヤバい匂いしかしないわね……ほらユモ!起きてったら!」
「……聞こえてるわよ……もう……」
ぶつぶつと悪態をつきながら、それでも事態が急を要する事は
「……ヤバそう?」
「わかんない、ニーマントさん?」
寝ぼけてるのを頑張って覚醒しようと努力中のユモに聞かれた雪風は、大急ぎで寝る前に脱いだセーラー服を身につけつつ、掛け値無しの現状把握結果を答えてからニーマントに追加情報を要求する。
「ケシュカル少年は一人で部屋を出ました……ああ、門の外の者達と接触しました、立ち止まって……一緒に歩き出しました」
「……とにかく、行ってみる。こんな夜中に一人で出るなんて聞いてない」
雪風は、咄嗟に判断して動き始める。
「慎重にね、あたし達が聞いてないだけかも知れないし、人目だってあるから」
そこそこ覚醒して来たのだろうユモが、雪風に忠告する。
「あたしは、ケシュカルの部屋見てから追うわ」
「了解」
言うが早いか、雪風は窓から飛び出す。雪風の黒髪と黒いセーラー服は、すぐに闇に溶け込んで見えなくなる。
「……ニーマント、案内して、ケシュカルの部屋」
「承知しました」
必要が無かったからだろう、ユモも雪風も、ケシュカルがこの屋敷のどの部屋に居るかは教わっていない。とはいえ、ニーマントはケシュカル――だけでなくドルマもナルブもモーセスも――の居る位置は、
ユモは、暖たまっていた寝具から起き上がると、寝る前に左右に振り分けてまとめた長い金髪はそのままに、冷えきってしまっている軍用コートに袖を通した。
「居た!」
小さく呟いて、雪風は足を速める。
ご丁寧に、ケシュカルはナルブの屋敷の正面門を明けて外に出て、今まさにその門を誰かが閉めようとしているところだった。
――間に合わ、ない!――
門は、中国のそれに近い、屋敷の周囲を囲む塀から一段高い屋根を持つ立派な
――抜いて斬るか!……否!――
「けやあっ!」
咄嗟の判断で、雪風は跳躍して門の内側の灯籠に飛び乗り、駆けた勢いそのままにさらに跳躍して、門ではなく横の塀の上を跳び越える、塀の上に手をついて体を横にしながら。
この程度の門、『れえばていん』を抜いて斬れば、簡単に通れる。半獣の姿になれば、門の上を軽々飛び越す事だって出来る。しかし、どこに人目があるか分からない状況では、可能な限り、『人間に出来そうな範囲』で事を済ませるべき。
そう判断した雪風は、体操選手か忍者ならこれくらい出来るだろうと踏んで塀を跳び越え、空中でトンボを切って門の外の通りに着地する。
「……って、あれ?」
そして、気付く。真正面でこそないけれど、ケシュカルと、ニーマントが居ると言っていた人影、成人男子が四人、そのすぐ脇にこれだけ派手に着地して、しかし、彼らが全く気に留めていない事に。
「ちょっとぉ」
雪風的には、空中でスカートをおさえて綺麗に廻りつつ100点満点の着地を決めたつもりだった。拍手しろとは言わないが、それなりにリアクションがある事を期待した、の、だが。
「無視はひどくない?つか、ケシュカル君、ちょっと!」
自分でも不思議なほど、雪風は、無視されたことに腹が立った。歩き去ろうとするケシュカルの手を慌てて引いて、立ち止まらせようとする。
だしぬけに、その、ケシュカルに伸ばした雪風の右手に向けて、傍の漢が鉈を振り上げた。
気配も、抜く挙動も無しの、意表を突いた下からの一振り。恐らくは最初から持っていて、雪風からは死角になって見えていなかったのだろうそれを、咄嗟に手を引いた雪風はしかし躱しきれず、ざっくりと右の二の腕を切り裂かれる。
「あ
骨まで達する一撃。長袖冬服のセーラー服の袖が裂け、血がどっと吹き出る。反射的に左手で傷を押さえて、雪風は二歩退く。
「……この……てめぇら……」
雪風は、頭に血が上るのを自覚する。完全に油断していたとはいえ、いや、油断していたからこそ、斬りつけた相手に対して、それ以上に油断した己に対して、怒りが湧き上がる。
夜目の利く雪風は、見て、気付いた。ケシュカル以外に、そこに居るのは4人。いずれも、チベット人の成人男性。雪風に斬りつけた男はもちろん、全員が
――こいつら、やる気だ――
全身が、総毛立つ感覚。怒りを口火に点火した闘争心が、雪風の全身を震わせる。暴力の予感に、無意識に口角が上がり、発達した犬歯が覗く。
怒り故か、雪風の視界が、
「……やったろうじゃない。あたしの血を見た代償、払ってもらうわよ……」
「落ち着きなさい!
腰を落として跳び出そうとした矢先。だしぬけに、その雪風の耳の中で、ユモの声がした。
「うわ?」
「言ったでしょ!慎重にしろって!忘れてるんじゃないわよ!」
ケシュカルにあてがわれた寝室で、
「あんたの周りに、あたしも知らない『黒い
囁く声は、小さく、しかし、はっきりした意思を持って、雪風の耳に届く。
「……ありがと、目が覚めた」
雪風の声が、今度はユモの耳の中で響く。
「頼りになる妹分で助かった、わ!」
それきり、雪風の声は聞こえなくなる。ユモは、ため息をついて、
「私の声の届くギリギリでしたが、上手くいきましたね」
「上等よ。助かったわ……こんな事が出来るとはね」
二人の会話を
「ユモさんのお役にたてて光栄の極み。とはいえ手も足も出ないこの私では、この程度しかお役に立てませんが」
「充分よ。ありがとう」
もう、右腕は痛まない。きっと、雪風の傷が回復したのだろう。ぶんぶんと右手を振ってから手のひらをぐーぱーぐーぱーして、ため息をつく。
「まったく。世話の焼ける
「まだ雪風さんが私の声が届く範囲内で幸甚でした。もう、繋がなくても?」
「大丈夫でしょ?相手が大人でも、四五人でどうにかなるユキじゃないわ。下手に声かけて集中切らしても後が怖いし」
言って、ユモは薄暗い部屋の中を見渡す。
「この部屋の中の
言いながら、ユモは右の人差し指と中指を立てて、
「誰か来たら教えて……アテー マルクト……」
愛用の
「……ヨド ヘー ヴァウ ヘー……」
ケシュカルの寝室に残る『黒々とした
「……オロ ウト スピリトゥム ウリエル オルディネ ミッタス……」
ユモの周囲に、光る魔法陣が現れる。それは、ユモのイメージが強い祈りでエーテルに干渉して具現化した、この世のものならざる『天使の
本来のカバラの魔法であれば、天使の召喚には相応の準備と、対応する時間帯や曜日、方角が必要になる。しかし、ユモの操る
「……偉大なる魔法使いマーリーンに連なる我、ユモは、今ここに精霊を使役し、我の思いを成し遂げんと欲す。精霊よ、遅れる事無く現れ出でて、この地に淀みし霧を晴らせ。遅れること無く現れ出でて、これなる霧の正体を現せ。アテー マルクト ヴェ・ゲブラー ヴェ・ゲドゥラー レ・オラーム・アーメン……」
静かに、ユモは呪文を唱え終える。
光の五芒星はその回転する円周を徐々に広げ、自身も大きくなりつつ、次第に薄くなって、しかし回転はどんどん速くなる。やがて五芒星は一筋の薄い光の連なりとなり、そして、透明な音をたてて四方八方に散る。
まるで、散った光に促されたかのように、屋敷のそこここに
「せいっ!」
振り下ろされた鉈を体捌きで躱した雪風は、そのまま相手の袖と襟首を掴むと、釣込み腰の要領で投げ飛ばす。
一応は手加減して投げ飛ばし、しかし間髪入れずにその鳩尾に念を載せた正拳突きを入れる。固い地面にたたき落とされた男は、突きをもらって一瞬全身をびくりとさせてから、その動きを止める。
既に三体。同じように地面に横たわる男達を一瞥してから、雪風は視線をケシュカルに向ける。獲物を持った相手とは言え、どうやらろくに心得のないその男達など、雪風にとってはものの数ではない。どこで誰が見ているか分からない、ユモの一言でその事を思い出した雪風は『れえばていん』を抜かず、徒手空拳で相手を投げ飛ばし、とどめに念をこらして相手の動きを止める。それでも、男達はいくばくかの時間を稼ぐことには成功し、ケシュカルと残る最後の一人の男は、ナルブ邸の門からかなり離れたところ、丘陵の下の街の入り口に達しようとしていた。
「……逃がすもんか!」
雪風は、腰を落とす。足腰に力を込め、ヒトの姿のままで出せるほぼ最大の力で、大地を蹴る。
その雪風を追うように、ユモの放った光の輪が、薄く、しかし確実に、周囲の霧を
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