あるベーシストの昔日、或いは青臭い日々
yui-yui
00:おひさしぶりでございます
二〇一八年八月二〇日
時間にして午後八時。
商店街にある地下への階段を降りるとすぐに現れた、洒落た
「あら、珍しいですね」
そう、店内のほど良く冷えた空気と共に涼しげな声も弾む。そもそも酒を呑みに来た訳であって、隠れるつもりなんかこれっぽっちもないどころかさっさと冷たい一杯を頂きたいので、素直にドアを開ける。
「よっ。悪いね、ご無沙汰で」
そう返しつつ店の中に入ると、店主である
「えぇ。珍客、と言っても差し支えないほどに」
きりり、と上がった切れ長の目、すらりと整った鼻筋、清潔にまとめられた黒髪のポニーテールが印象的な美人さんで、確か年齢は三〇代も中ごろになるはず。たった一人でこの店を切り盛りしている、いわゆるオーナー兼バーテンダー。気立て良し、器量良し、見目麗しく慎ましやか。三拍子どころか何拍子揃ってんだ、というかくも麗しき御婦人だ。
「悪い悪い」
エアコンが効いている上に打ちっぱなしのコンクリートの柄の壁紙と、寒色の間接照明で彩られた美しくも涼やかな店内に歩を進め、辺りを見回す。さして広くはないが、こぢんまりと綺麗にまとめられた店内には、脚の長い丸テーブルと、それに見合った椅子が四セットほど。そのテーブル席についた客がまばらに四、五人。
特に立地条件が悪い訳ではないけれど、良い訳でもないこの店を畳まずに済んでいるのは一重に六花の人柄と、生真面目さに依るものだ。彼女の柔和で誠実な人柄、そして商売道具でもある厳選された酒の数々とその知識は、正にプロフェッショナルと呼ぶに足るもので、客のリクエストにぴたりと合う酒を出してくれたり、顔色や状態を見て酒を出してくれたりもする。その上で出過ぎた真似などをしないのが六花のポリシーであるらしく、そのポリシーのお陰でこの店に来ればとにかく心地良く酔って帰れる。
「そう思うなら呑んで行ってくださいませ」
にっこりと美しい営業スマイルを向け、六花は言う。白いブラウスにベスト姿がいつも通り素晴らしく良く似合う。バーカウンターに客はいなかったので端の席を陣取る。誰かと連れ立って来ることもあるが、おれは大体ここに来る時は一人だ。六花と話をするのが好きなことももちろんあるけれど、一人でゆっくりと酒を楽しみたい時にはこの店が格別で、雰囲気はまるでお気に入りの隠れ家。
「もちろんそのつもり。中途半端だしね」
スマートフォンをマナーモードに切り替えてテーブルの上に置く。丁寧な手書き文字とイラストで描かれた手作りのメニューを手に取ると、どれにしようかと首を捻る。
「どこかで引っ掛けてきたんですか?」
「やぁ駅前でさ、若い衆に誘われて、ほんの少しね」
若い衆と言っても会社の部下だけではなく音楽仲間の集まりだ。
おれはプロのロックバンド
「ということはビールですか?」
「そ。一杯だけね」
若い衆の酒の集まりといえばまずはビールだ。ま、どんな酒の席であれ、その席に着けば一杯目はビールにすることが多いし、酒を好む人間の粗方は似たようなものだろう。
「誘われたのに?」
「タテマエじゃないかな。金出して欲しいだけ、とまで言っちゃうのはちょいとイジワルだけどさ」
つまり、プロのミュージシャンであり、音楽芸能事務所の副社長でもあり、その音楽仲間の中に数人、会社の部下と仕事仲間まで混じっているとなると当然割り勘ではいられない上に、おれを良く知らない子たちからしてみれば「何あのオッサンいつまでいるの?」という可能性だって充分に有り得そうな話じゃないですか。
この年と立場になってみれば割り勘なんぞに拘ることは全くないけれど、自分が若かった頃の至らなさを思い返せば思い当たる節はわんさと出てくるもんで、老兵はただなんとやらという訳なのだよ、六花君。
みんな学生バンド者、社会人バンド者とはいえ同じ音楽仲間である以上、プロとして、年上として、それも酒の席なんかで偉そうになんてできる訳もない上に、したくもない。だけれど、フランクに接している割りには立派に礼節を弁える連中も多かったりして、おれが望まなくとも持ち上がってしまうことだってある。つまり対等な立場で呑めない酒の席ってやつは気が張って疲れるんだ。もちろん若い連中みんながそうじゃない。家族同然の付き合いをしている連中はまた別だけれど、こうして人数が膨れ上がった呑み会ともなれば当然年上だからこそ気を遣わなければならないことも多い。故に多少金を落としてさっさと退散すればおれの面目は躍如な上に、連中だって旨い酒が呑めるという画期的、かつ建設的なプランに基づいた行動って訳さ。
「なるほど……。じゃ、落ち着いた感じでバランタインでもどうですか?」
「いいねぇ、貰おうかな。何か適当にナッツ系の当ても宜しく」
この店ではウイスキーを呑むことが多い。昔からウイスキーをロックで呑むのが好きだ。水割りよりも、ハイボールよりも、ストレートよりも、ゆっくりと時間をかけて、少しずつ味わいを変えて行くロックが一番の好みだ。
「かしこまりです。今日はお一人だったんですか?」
中学時代からの親友でもあり、-P.S.Y-のリーダーでもあり、我が社の社長でもある
「うん。ま、雰囲気に依ってはとも思ったけどちょっと冷めちゃってね」
あの場にいた比較的年の近い後輩の一人にでも声をかけて、とも思ったんだけれど、それこそ下手をするとパワーハラスメントになりかねない。それでも、どんな思惑があったとしたって、もうそろそろ五十路の準備もしなければならないこんなおっちゃんに「もう帰っちゃうんですか?」と言ってくれた若い衆には泣けてくるほどの感謝の気持ちでいっぱいです。
「奥様は?」
今日は乗り気はしなかったものの、呑み会に出かけると言っておいたのでもちろん知っているし、当然晩飯も食わずに家を出たもんだからそれが仇を成して、おれはここに来るまでにコンビニエンスストアのサンドウィッチを齧ってくることとなった。
「それな。呑みに誘われて早い時間に一人で帰ったんじゃカッコもつかないってもんでさ」
え、もう帰ってきたの?何があったの?とは言われないだろうし、多分金だけ置いてきたこともお見通しだろう。おれなんてとっくのとうに見透かされてるんだから。
「まったく、男の人っていうのは面倒ですね。はい、どうぞ。十七年です」
そう笑いながら聞いてくれて、六花は
「ありがと、いただくよ。……はぁ、落ち着くね。十二年より甘くないけど三〇年ほど渋過ぎない感じ。流石は六花さん」
ちびりと一口やると鼻に抜ける独特な香りの中に木樽の香りを感じる。ボトルで千円や二千円程度の安価なウイスキーでは中々こうはいかない。
「どういたしまして」
にっこりと、今度は自然な笑顔になると、薄皮付きのローストピーナッツを出してくれた。これがまた旨いんだ。
「でもま、ああいう若い連中の無軌道って言うの?見てるとちょっと懐かしい感じはするよね」
今時分は未成年には厳しいのかもしれないけれど(本当はイケナイ)、十代後半から二十代前半くらいまではまぁ無茶な酒の呑み方をして、特に酒に強い訳でもないおれは、呑んでは吐いての繰り返しだった。
「若かりし頃、ですか?老け込むには早すぎますよ」
言いながら灰皿を出してくれる。去年から紙巻きタバコは辞めて今はいわゆる加熱式の煙草だ。これに慣れてしまった今は普通の紙巻煙草を吸うと、臭うし臭いし口の中も気持ち悪いしで、吸えなくなってしまった。加熱式煙草のスイッチを入れると、ナッツを二粒口に放り込む。
「もうすぐ五〇だからねぇ、おれも」
うん、旨い。ナッツの香ばしさが口の中に残っているうちにまた一口、ちびりとバランタインをやる。
「いいじゃないですか、まだまだ脂の乗っている方がたくさんいらっしゃいますよ」
確かにこの年にもなって本気でロックバンドをやっている人間は、意外なほど多い。それこそ大昔のバンドブームを作り上げた人間がいまだに第一線にいるような状態だ。ロックの世界はなかなか難しい。若い世代もいるにはいるが、ジャンルそのものが下火になっているせいもあり、今一つ元気がない。というよりは、ロックから多岐に枝分かれしたサブジャンルが、もはやジャンルという枠に捕らわれなくなったせいか、ロックっぽいイロイロはあるけれど、骨太なロックをやっている連中は少なくなった、という感じかな。
「バイタリティあるよね。おれもないとは言わないけどさ」
かくいうおれも、
「
今日の呑み会に参加するのもその一環だったはずなのだが、そもそもが元気な連中だ。やはりそこは『あとは若い人同士で』というのが大人の振る舞いというものってね。
「そりゃどうも」
一口に若い衆と言っても、おれが昔いたバンドや、今やっているバンドを知らない人間もいる。おれを誘った人間は、もちろんおれを昔から知っていて、そのネームバリューだけでも必要だと言ってくれる人間だけれど、それを知らない者、特にこのご時世でロックバンドなんかをやろうという若造達にとっては「プロ?はぁ?ダレダそれ?」という逆効果にもなりかねない。音楽ってものは好き嫌いが分かれるものだ。その昔、たいそう売れたバンドにいたからと幅を利かせる大御所がとっても多い世界だけれど、あんなにみっともないものはない。とはいえ副社長という立場上、大恩ある諸先輩方にはボッキリと折れ曲る首と腰がある訳だけれどもね。
「アラフィフには到底見えないですけどね」
「そりゃありがたいお言葉ですがね六花さん、ああいう若いキラキラを見ているとね、半世紀生きてきた人間としては昔を懐かしんじゃうなぁなんてね。はー、うまー!」
こと、とグラスをテーブルに置いてぶるりと震えて吸えるようになった加熱式の煙草を一口。はぁ、落ち着く。
「じゃ、少しだけ、聞かせてもらいましょうか」
そう言って六花は棚からボトルを取り出し、自分が使用しているグラスに酒を注いだ。あれは
「悪いね、気ぃ遣ってもらっちゃって」
聞いてあげましょうではなく、聞かせてもらいましょう、と言う辺りに六花の気遣いを感じる。半分皮肉かもしれないけれども。
「何しろ久しぶりの珍客ですから」
ほらね。
「悪かったって……」
しょうがない。面白くもなんともないし、あまり趣味でもないけれど、少し聞いて貰いますかね。五十路に差し掛かろうかっていう老害のキモい自分語りなんかを。
00:おひさしぶりでございます 終り
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