第36話 記憶消去
4月17日土曜日の午前中、僕はぼんやりと過ごした。
例の泥水コーヒーを飲もうとしたが、本当に泥水に感じられて、シンクに捨てた。
ふと、スマホが鳴っているのに気づいた。
液晶に本田浅葱、と表示してある。
僕は慌ててスマホを手に取った。
「はい、波野です」
「おはようございます、本田です」
「おはようございます」
「ガーネットのことで連絡しました」
「はい。彼女の具合はどうですか?」
「まだ眠っています」
僕は激しく落胆した。
「そうですか……」
「原因の究明もできていません。異常はなにも発見できなかったんです」
異常なしで、休眠したままなのか。
そんなはずはない。
「私には見つけられない量子的な異常があるのでしょう。このような事態を招いた原因の仮説は立てました」
「聞かせてください」
「ガーネットは感情爆発による過負荷で長期休眠状態に陥っているのだと考えています」
「感情爆発による過負荷……」
心当たりがあった。僕は本田茜のほぼ告白同然の言葉をガーネットに伝え、彼女を激しく怒らせ、傷つけた。
あれが悪かったのだ。
あんなことは言わなければよかった。
後悔がつのった。
「ガーネットは繊細な不良少女同然なのだと考えてみてください。傷ついて家出した少女のようなもので、過剰なストレスには耐えられないのです」
なんてことだ。
僕はやってはいけないことをやってしまった。
過剰なストレスをガーネットに与えてしまったのだ。
すがるように浅葱さんに訊いた。
「仮にそうだとして、目覚めさせる手段はないんですか?」
「記憶を消去したら、回復するのではないかと思っています」
「記憶を消去? 僕と暮らした記憶を消すんですか?」
「1日分だけ、消させてください。ガーネットの4月13日の記憶を消去します。その日に感じたストレスも消えるはずです」
僕はごくりとつばを飲んだ。
「わかりました。その処置をしてください……」
「大切な記憶であることは承知しています。ご了解していただけますね?」
「はい。僕もその場に立ち会っていいですか?」
「あなたはガーネットの家族同然です。迎えに行かせますので、研究所までお越しください」
「はい。ありがとうございます」
「中で見たものは他言無用に願いますよ」
「もちろんです」
「では後ほど」
電話が切れた。
僕は急いで身支度をした。
なにを身に付ければいいのかわからなくて、ハンガーにかかっている仕事用のスーツを着た。
20分後、アパートの前に黒い電気自動車が到着した。
ドアが自動で開いた。
僕は後部座席に乗り込んだ。
「お手数をかけてすみません」
「とんでもない。社長から丁重にお連れするよう命じられております」
運転手は白髪の老人だった。
驚くほど滑らかな運転。
電気自動車のエンジン音も静かで、車に乗っている感じがしなかった。
高性能の魔法の絨毯にでも乗せられているようだ。
河城市の郊外へと進んでいく。
やがて、車は高い壁に囲われた森に到着した。
それがプリンセスプライド社の研究所だった。広大な敷地。
ゲートから入り、樹々の中を1分ほど走って、2階建ての建物が見えた。低層の建物だが、大きい。
入口に白衣を着た本田浅葱さんが立っていた。
「プリンセスプライドの河城研究所へようこそ、波野さん」
「浅葱さん。どうもありがとうございます」
彼女は先に立って歩き始めた。
「ここへ入れるのは弊社でも一部の人間だけです。先端的なアンドロイドだけを製造している研究所です。そのことはご承知おきください」
「はい。心に刻んでおきます」
「あなたは企業秘密を見ることになる。もっとも、なにも理解できないとは思いますが」
「そうでしょうね」
「念のために、波野さんの大学の学部をおうかがいしてもよろしいですか?」
「法学部です」
「ロボット研究会などに所属したことは?」
「ありません」
「それはよかった」
彼女は長い廊下を歩いた。僕はその後をついて行った。
階段を上り、2階の一番奥の部屋に入った。
総合病院の集中治療室を思わせるような部屋だった。
この部屋のなにが企業秘密なのか僕にはわからない。
あらゆるものが秘密なのか、あるいは一部分だけなのか。
ベッドがあり、ガーネットが横たわっていた。
病院のパジャマのようなものを着せられている。
「ガーネット!」と僕は思わず叫んだ。
反応はなにもなかった。
彼女のうなじから伸びるケーブルは、見たことのない形状のコンピュータと繋がっていた。あるいはそれは、コンピュータではないのかもしれない。
浅葱さんはその機械の前に座った。
「これからガーネットの記憶を1日分消去します。それで直るかもしれないし、直らないかもしれない。また、なんらかの不具合が発生するかもしれない。なにがあっても弊社には損害賠償請求はしないでいただきたい。よろしいですか?」
ぞっとするほど冷たい口調で、彼女は言った。
その表情には寸分の笑みも見られなかった。
これが社長としての本田浅葱の顔なのだろう、と思った。
「けっこうです」
「では処置を施します」
浅葱さんはキーボードのエンターキーだけを押した。彼女はすでに命令ボタンを押すだけの状態にしておいたのだ。
しばらくはなんの変化もなかった。
ガーネットは静かに眠りつづけていた。
僕は彼女が目覚めてくれるよう祈った。
もし起き上がってくれなかったら、僕は4月13日の夜のことを死ぬまで後悔することになるだろう。
怖ろしく長い5分間が過ぎた。
僕のアンドロイドが目を開けた。
「あれ? ここは研究所じゃねえか。なんであたしはここにいるんだ?」
彼女はきょろきょろと周りを見回した。
「ガーネット!」
「数多? どうしてここに?」
「きみはちょっとした不具合を起こしたんだよ、ガーネット」
浅葱さんはさっきの冷たい表情を消し、微笑んでいた。
「浅葱! ちくしょう、最悪の気分だぜ。あたしは白根アパートに帰るぞ!」
「うん。帰ろう、ガーネット」
僕は泣いていた。
「数多、泣くなよ」
ガーネットは立ち上がり、僕を抱いた。
研究所の建物を出るまでの間、浅葱さんは僕とガーネットとともに歩いた。
「ありがとうございました」とだけ僕は浅葱さんに伝えた。
彼女は黙って頭を軽く下げた。
記憶を消したことは、できるだけガーネットには知られない方がいい。
4月12日の24時に原因不明の不具合が発生した、ということにするのが一番無難だろう。
黒い電気自動車に乗り、僕と恋人はアパートに帰った。
部屋に入り、ふーっと大きなため息をついた。
安堵の息だった。
「今日は何日なんだ、数多?」
「4月17日だよ」
その午後3時になっていた。
「わけがわかんねえ。4月13日以降の記憶がねえ」
「おまえは13日からずっと眠っていたんだよ」
「なんで?」
「わからないよ」
「浅葱は原因を知っているのか?」
「さあ。企業秘密なんじゃないか」
「そうだろうとも。あいつは大事なことはなにも話さないんだ」
ガーネットは怒っていたが、シンプルな怒りで、嫉妬や悲しみが混ざっているようすはなかった。
この子を大切にしなければ、と僕は思った。
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