新たなる迷路 Ⅷ


     Ⅷ


 その日の夜半近く、拓也は自室のパソコンで、夏期講習のオンライン配信にアクセスしていた。

 あくまで欠席者向けの補講的なサービスであり、ライブでも双方向でもないが、各教科の進行状況などは把握できる。

 テキストが手元にあることを前提にしているため、タワービルの地下にスマホと財布以外の持ち物を全て残してきた拓也には不充分な内容だが、自分の予習がさほど遅れをとっていないことさえ確認できればいい。

 ドアがノックされ、母親の里恵さとえが夜食のサンドイッチとミルクを運んできた。

「はい、小休止」

 がんばって、とか、そろそろ寝たら、とか、余分な言葉はかけない。自分の息子が、自分でその日の終りを納得するまで、就寝しない主義であることは熟知している。夜明けまで起きている日もあれば、逆に午後九時に寝てしまうこともある。学業と体練のバランスを、徹底的に自己管理できる息子だった。

「ありがとう、母さん」

 サンドイッチを頬ばって、ちゃんと笑顔を返してくれる息子でもある。

 幼い頃は感情の薄さを周囲から問題視され、今でも家族として見れば物足りない部分はあるのだが、に何よりこだわる性格は、母親として慈しむのに十二分な美徳だった。

「今日くらい早く寝ちまえ」

 ふだんは滅多に息子の部屋に顔を出さない拓人が、珍しく妻の後ろから顔を出し、言わずもがなの声をかけた。

「そうね。そうした方がいいわ」

 里恵も、無駄と知りつつ同調した。

「昼間は大変だったんだもの。母さんも明日、真弓ちゃんのお見舞いに行ってくるわ」

 夫同様、大学の夏期休暇中は自分の研究に専念しており、スケジュール変更は容易である。

 ちなみに拓人も拓也も、里恵に今日の怪異の件は話していない。真弓が倒れて入院したことを伝えただけである。真弓の父親が口にしたも、無論、伝えていない。

「俺も母さんといっしょに、また行ってくる。拓也、お前はゆっくり体を休ませろ。頭だって体の内なんだからな」

 昼間、熱中症で倒れかけた息子を、徹夜させるわけにはいかない。

「うん。もう少しやったら寝る」

 そう言いながらミルクをすする拓也自身、母親がいつものブラックコーヒーを運んでこなかったことに、頭では納得していなくとも、体が納得しているのを自覚できた。

「本当に、そうしろよ」

 念を押してから、拓人は室内を見渡し、

「またずいぶん本が増えたな」

 机と窓以外の壁が、ほとんど本棚なのである。図書館のラベルが貼ってある書籍も数冊並んでいる。几帳面な息子のこと、延滞もせず、貸出期間内に読んでしまうのだろう。

「まあ、まだ俺や母さんの方が勝ってるが、ぼちぼち書庫に移すんだぞ。二階がこの有り様だと、次に大地震が来たら家ごとつぶれちまう」

 両親が揃って研究者の家だけに、建売住宅を買った後、専用の書庫を庭に増設している。家の中の書斎だけだったら、とうに床が抜け落ちているだろう。

「とにかく、今夜はマジで寝ろ」

「うん」

 拓也はパソコンに顔を向けたまま、軽く片手を上げて見せた。


 それから三十分もたたない内に、睡魔が思考力を凌駕した。

 一瞬、椅子に座ったまま眠りこんでいた自分に気づき、拓也は頭を振るった。

 どうやら限界らしい、そう悟った拓也は、パソコンの電源メニューを立ち上げ、休止状態を選ぼうとした。

 その時――。

 システム音と共に、ビデオ通話ソフトが立ち上がった。

 意表を突かれ、瞬時に眠気が消える。

 こんな時間にビデオ電話を繋げてくる知人はいない。ネットを介して海外の住人と交流はあるが、いつもとは時差が違う。

「やあ、拓也君」

 モニターから、浴衣姿の佐伯さえき康成やすなりが頬笑みかけた。あの市役所職員官舎の座敷で、夕食を共にした時のままである。

「君は、本当にいい物を置いていってくれたね。何やらフリーWi―Fiの利用規約にOKしたら、ちゃんとネットに繋がってしまった」

 拓也が置き去りにしてきたノートパソコンを、座卓で使っているらしかった。

「しかし、なぜこのパソコンだけが、外に繋がるのかな。どんなスマホも、坂本君のパソコンも繋がらなかったのに」

「……推測ですが、最新のモバイルルーターを積んでいるからかもしれません」

 拓也は憮然とした顔で言った。

「タワービルは地下三階の大部分がシネコンになってますね。あそこのロビーにある喫茶コーナーで、外に繋いだことがあります。つまり、そちらのすぐ上の階からです」

 突然のコンタクトに対する拓也の驚きは、会話を始めてすぐに消えていた。むしろ、こちらからコンタクトする手段を模索せずに済み、好都合といってもいい。

「そうか。近頃の映画館は、膨大な動画データをデジタルで受け取るんだったね。もちろん専用回線を使うんだろうが、一般用のWi―Fi設備も、他より優秀なのかもしれない。それと、このマシンのパーツとの相性、そんなところかな」

「ええ、あくまで推測ですが」

 拓也は返答しながら、咄嗟とっさにモニター画面の動画キャプチャー機能を立ち上げた。ビデオ通話とは別個のソフトだから、相手には気づかれないはずだ。

「――あと、あのシネコンは、来月から新システムの大スクリーンをオープンするそうです。その工事の影響で、なんらかの環境変化があったのかもしれません」

「ほう。でもフリーWi―Fiだと、ちょっとセキュリティーが心配かな」

「大丈夫でしょう。あそこのアクセスポイントは、ちゃんと暗号化されてますから」

「それはいい。外の世界は、ほんとに日進月歩なんだね」

 康成は、すっかりくつろいだ様子で、湯飲みからお茶をすすり、

「なんにせよ、ありがたいことだ。こうして君と、また気兼ねなく話せる」

 すでに覚醒しきった拓也には、康成の落ち着き払った態度が納得できなかった。麻田真弓の中に犬木茉莉まりはくが潜んでいたことを、康成が知らなかったはずはない。つまり意図的に拓也をあざむいたのである。

 拓也の険しい顔に、康成は苦笑して、

「君の不機嫌な様子を見る限り、もしや茉莉君の件が、バレてしまったのかな?」

「ええ。犬木さんは麻田さんの体を捨てて、外に逃げました。残された麻田さんは、一時的に心肺停止状態に陥りました。僕は、それも犬木さんの魄が、突然体から抜けたショックじゃないかと疑ってます。幸い麻田さんはAEDですぐに蘇生しましたが、今も病院で眠ったままです」

 康成は渋面になって、

「心肺停止――それは想定していなかった。茉莉君の逃亡を含め、完全に私の判断ミスだ。その点は、心からお詫びさせていただく」

 拓也に深々と頭を下げ、そのまま上げようとしない。

 拓也は、まだ釈然としていなかったが、会話を続けるために、その謝罪を形だけ受け入れた。

「――解りました。頭を上げてください」

 康成はようやく顔を上げ、

「しかし犬木君も、魄だけの身で、勝手に逃げられる状態じゃないはずなんだがな」

「その場に、杉戸伸次がいたんです」

「なるほど――使えるはくが、まだたっぷり残っていたわけだ」

「はい。僕の友人が、盛り場で夜遊びしている犬木さんを見かけたそうです。そのまま警察に補導されてしまったとか」

「困ったものだ。あの茉莉君が、そこまでごうの深い娘だとは思わなかった。ほかみんなは、私の思いどおりに動いてくれるのにね。あの子も麻田さんの体を借りて、ちょっとお使いに出てもらうだけのつもりだったんだよ。それが終わったら、麻田さんには、すぐに目覚めてもらうはずだった」

 それが真実だとしても、康成が拓也を欺いたことに変わりはない。

「麻田さんのはくは、まだそちらに残ってるんですか?」

「ああ。茉莉君の抜け殻の中で、今も眠ってもらっている。そちらの麻田さんの体に戻せば、すぐに目を覚ますはずだ」

「僕にはもう、あなたの言葉が信じられません」

「怒るのも当然だが、いつも冷静沈着な君にしては珍しいね」

「怒ってはいません。信じられないだけです」

「しかし、そこは信じてもらえないかな、拓也君」

 康成の口調が、さらに真摯しんしに改まった。

「いつもの君らしく、冷静に考えてくれたまえ。この地下の実態は、君自身、その目で見たはずだ。自分で言うのもなんだが、夏場の生ゴミ集積所どころじゃない。あんな環境に長居しても、君の体には、なんの異常もないだろう。普通なら今頃は、たちの悪い感染症で、のたうちまわっているはずだ。麻田さんの体にだって、シミひとつなかっただろう。君たちを汚さないために、私もけっこう気力を尽くしていたんだよ。そうした物理的な働きかけは、少しでも気を抜くとたがゆるんでしまう。人に幻を見せるのとはわけが違う」

 確かに、それは拓也も疑問に思っていた。真弓が病院に運ばれて精密検査を受けても、その手の汚染の痕跡は、一切見つからなかったからである。

「それに麻田さんの現状は、君にも落ち度がないわけじゃない。いや、君自身がそれをやったとは思わないが、おそらく凄腕すごうでの術師が教育長室にいたはずだ。私がこれまで外に流していた膨大なはくが、全てこちらに押し戻された。あれではあの学校指導課長も、ただの死人に戻っただろう。しかも、あの隠し扉を、また封印されてしまった。封印だけなら溝口寛子ひろこあたりでも可能だろうが、あれだけのはくに対抗する力はない。おそらく君のサイドの術師――いや、君のお父さんの仕事を考えれば、そちらの繋がりかもしれないね。拓人さんなら、国内はもとより海外の呪術師まで知っている」

「…………」

「いずれにせよ、私が外に働きかける手段は、このパソコン以外、今のところ皆無なんだよ。これでは麻田さんのはくを、返したくとも返せないじゃないか」

「…………」

 言葉に詰まっている拓也に、

「そこで、君にお願いがある」

 康成は、あくまで丁重に言った。

「君が我が家にいた時、タワービルの屋上にも出入り口があると話したのは、覚えているかい?」

「……はい」

「これから、その詳しい場所をメールで送る。おそらく厳重に封印してあるだろうが、君の手で開いてほしい。それと、このパソコンの充電済みバッテリーを、できるだけ多く届けてほしい」

「そうすれば、麻田さんのはくを返してもらえるんですね?」

「いや、実はもう少々、お願いがある。これは本来、茉莉君に頼んだお使いなんだが――」

 康成の目が、やや険しさを帯びた。

「あのいじめ事件当時の校長、それと担任教師――この二人を、タワービルに連れてきてほしいんだ」

「それは……」

「あの二人は、他の関係者とは違って、なかなか用心深い。なんのかんのと理由をつけて、外で聴聞ヒアリングを受けようとしている。本能的に自分の危険を察知して、避けられる人間なんだろうね。校長は定年退職後、すぐに他県に引っ越しているし、あの担任教師も、とりあえず市内の他校に異動したようだが、そのうち遠方に逃れるつもりだろう。今は日本中が教員不足だから、どこに行っても再就職に困らない」

 確かに拓也から見ても、その二人は、常に保身に汲々としている似非えせ教育者たちだった。

「なぜ私が麻田さんの姿を必要としたか、理解してくれたかい? 相手が麻田さんなら、あの二人の警戒も薄い。たとえば『進学した高校での悩み事を、中学でお世話になった先生に相談したい』とでも持ちかければ、喜んで会いに来るだろう。男の君には少々不利かもしれないが、真面目一方の元生徒会長なら、麻田さんの次くらいには警戒が薄い。それに君には、並外れた知力がある。なんなら君は二人と顔を合わせずに、彼らだけここに来るよう仕向ければいい。一人ずつでも二人一緒でも、彼らがこのビルに入ってさえくれれば、後は私がしかるべき処置をとる」

 拒否する余地はないと知りつつ、むしろ自分の役回りを覚悟するため、拓也は言った。

「……あなたの家に、引きずりこむんですね」

「君は、そこまで考えなくていい。それに、急ぐ必要もない」

 康成が、拓也を気遣うように言った。

「ただ、屋上のおふだがしとバッテリーの件は、早めにお願いできるとありがたいね」

 そう言い残し、康成はビデオ通話を切った。

 拓也も動画キャプチャーを止める。

 ほどなく、メーラーの着信音が鳴った。

 拓也は即座にメールを開いた。

 やるしかない事は、やるしかない。

 




        第一章 【新たなる迷路】 〈了〉


              第二章 【闇への供物くもつ】に続く


 

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