縁り始める糸 4

 蓋代島ふたしろじま西部、根守町ねもりちょうの南西端の岬に位置するこの碧魂あおいたから神社は、まず参道が長い。島中心部の神体山「日魂山ひたからやま」の麓に三本鳥居がある。参道側に三角の頂点が向いており、参拝客は、左手側へ男性、右手側へ女性と別れる様に参道へ入り、そこから真っ直ぐ神社へ歩いて行く。その長さおよそ二〇キロメートル。参道の一部は「ねもりおもいで商店街」でもあり、日夜多くの買い物客で賑わっている。

 長い参道の先、そのまま神社に入れるのかと言ったらそうではない。禁足地「根守の神不知かみしらずの森」手前で南側に大きく曲がり、神社を迂回するようにぐるりと海沿いを辿って通り過ぎ、岬の先端へ続く。その先の砂浜から、先ほど別れた男女が再び大階段前の三本鳥居の中で一緒になり、日魂山を望みながら上がるようになっている。

 境内に入るとすぐ左手に手水舎と社務所がある。少し進んだ左右に、前衛的な何とも言えない形状の灯籠が建っており、その先が拝殿となっている。拝殿の左手側にある小門から常緑樹の森を突っ切るように志葵家宅への道が細く続く。


 小道の途中、木々や草に隠れて見えないが横道がある。その先に元宮があるのだが、参拝客が入れるのは拝殿までで、元宮の存在自体知っている人は少ない。その存在を守るように木々が覆い被さって生えていて、上空からも屋根が枝葉に隠れて見えないようになっている。


 結局何も分からないまま自室に戻っためぐるは、はっちゃんの動画を何度も観返しては、他のメッセージはないのかと、考えを巡らせていた。

 めぐるの自室は、志葵家母屋の裏に建てられており。さらにその裏に先ほどの蔵へ続く橋がある。さっきからずっと、蔵の方角にある部屋の窓から、じっと外を眺めている。木々に遮られて蔵は見えないが、めぐるの中では木々を抜けてその先の蔵を見据えていた。

(私に座標を教えたからって何なの……?)

 なんだか疲れちゃった。一眠りしようと、ベッドに向かおうとした時、何やら聞こえてきた。管楽器の様な音色。聞き覚えがある。小さい頃、この音色が怖かった記憶が蘇る。そしてその音の発生源も。

「おばあちゃん帰ってきたんだ。口笛やめてっていつも言ってるのにもう!」

 祖母の口笛が嫌いな理由。それは、この口笛が聞こえた後は必ず、どこからともなく妙な音が聞こえるからだ。周りの大人に訊いても知らないって言うし、音の出どころがわからない上に結構大きな音だから、いつもビックリして泣いてたな。

 もう一度、止めてもらうためにお願いしようとドアに手をかけ、止まった。耳を澄まし、口笛が聞こえる方向を辿る。口笛はゆっくりと、蔵の方へ移動していた。踵を返して、窓の外を見る。祖母のシズが蔵に向かって歩いているではないか。そして思い出した。はっちゃんの口笛、おばあちゃんの口笛と同じだ。

 ゆっくりと部屋から出、シズの後をつける。口笛はまだ吹き続けている。そろそろ聞こえる頃だ。

 ごとん

 なにか重い物が落ちた様な音。それは、口笛の後にいつも聞こえていた音だった。身構えていたので、もうびっくりしたりはしないが、思いの外トラウマみたいになっているのか、背筋がヒヤリとして身震いした。

 祖母は見えなくなったが、めぐるは木々の陰に身を隠しながらゆっくりと近づいて行き、蔵を目の前にして開いた口が塞がらなくなった。

「開いてる……」

 祖母は見当たらないが、蔵の扉にかかっていた錠前が外れていた。よく見ると、その錠前はドアノブを兼ねた様な作りになっているらしく、九〇度左回転した状態で、右扉にくっついていた。

「おばあちゃん……?」

 恐る恐る、扉に手をかける。体重をかけ、綱引きの様に重い扉を引いていく。長い歴史が、ぎぎいと軋む音に変換されて、めぐるの鼓膜を刺激し、その厳かな重圧に押しつぶされそうになりながら。

「おばあちゃん……?」

 もう一度声をかける。返事が聞こえないどころか、どうにも人の気配がない様に思えた。外界の光が細い筋となって、開いた扉の隙間から、蔵内に生気を送る様に伸びていく。もう少しで人一人入れる位には開く。めぐるは気持ちが逸り、顔だけを突っ込んで中を伺った。

 おばあちゃんがいない!

 確かにこの中に入っていった。というか、ここしか来れない。その筈なのに、祖母の姿はどこにも無い。蔵の中は想像していたよりもずっとがらんとしていて、若干肩透かしを食らった気分だった。

 最後の一息で扉を開け切っためぐるは、じりじりと中に入っていった。



 そういう模様の壁かと思うほど、壁沿いにびっしりと積み上げられた大小様々な木箱。積み切れなかったであろういくつかが、床に整頓されて平積みにされている。

 めぐるは、その中から開けられそうな箱の中身を見てみた。それらはどれも、めぐるの好奇心を刺激するものばかりであった。


 大きな箱にたった一振り横たわる刀。触ると祟られるのではないかと思うほどに鮮やかなセルリアンブルーの石。達筆すぎる文字で何を書いているのかわからない巻物や和綴本の山。何か機構の一部のような木製の歯車や管。小柄な人なら入れそうな大きさの楕円状の器。青色に染まった糸束。何かの液体が入った小瓶。

 碧魂神社や自分の家系が、かなり古い由緒のもとにあることを如実に語るに十分だった。

「おばあちゃん?」

 呼びかけるが、蔵の中で反響するばかりで、返事は返ってこなかった。

 以前、祖母が話していた隠し部屋のことを思い出した。きっと、この蔵のどこかにその入り口があるんだ。

 どこかの床が外れないかと思って、一歩ずつ、確かめる様に床を踏みしめながら歩き回ってみる。それか壁際の箱の裏だろうか。しかしこの量をいちいち退かしたりしないと入れない様な仕組みにするだろうか? 私ならそんな事しない。なら、どうする。隠しやすくて、簡単に出入りできて、現状復帰しやすい仕掛け……。

 もう一度、じっくりと見渡し、どうしてさっきまで気づかなかったのかと言うくらい目立つものを見つけた。

 整頓され、がらんとした中で、一際目を引いた真っ白な表紙のその一冊は、蔵に入って正面奥、方角にして北の壁際の古い焼桐に仕上げられた箪笥の上に立て掛けれていて、うやうやしく榊と御神酒が添えられ、紙垂の下がった注連縄がかけられていた。

 榊は最近替えたのか青々としていて、綺麗に手入れがされているようだ。宮司の娘ではあるものの、そこまで信仰が深くないめぐるにとっては、ちょっと大事に飾られてるくらいの感覚だったが、一応一礼してからその本を手に取った。機能性などはじめから捨てたかのような、二キロはあろうかという分厚く重い装丁だった。白いハードカバーには埃もかぶっておらず、カビ臭さもなく長年放置されていたとは思えない。そのさまが不気味さを助長して、触ってしまったことを一瞬後悔した。表紙を見ると中心に記号のような図柄が描かれており、その下に最早掠れて読めないが、漢字らしい文字で何か書かれていた。この本のタイトルだろうか。

 胃から背骨にかけて冷たいものがじんわりと広がるような感覚に襲われた。祀っているくらいだから、当然古文書か預言の書のような、さながらをのこ草子とか竹内文書とかヴォイニッチ手稿とか、その界隈のものだろう。めぐるは興奮を抑えられないのか、ふひと笑った。



 志葵しおい家は、代々この碧魂神社の宮司を務めてきた神道の家系だ。古代、碧魂神社が建立された時には既にあった家だとは祖母の談。そもそも志葵家がいつどこからやってきたのか、もはや誰にもわからないが、とにかくものすごく古い家系らしいことは知っていた。


 祭神は塩椎大神シオツチノオオカミとかいう海の神様で、同一の神を祀った神社としては、宮城県仙台市にある鹽竈しおがま神社が有名だが、特に何か関わりがあると言うわけではなく、なんでもうちの神社は海底火山や海中の巨石信仰からはじまり、そこに生息する微生物――プランクトンとか藻類とかバクテリアとか――から転じて海全体になり、そして塩椎大神を祭神として祀るようになったのだとか。


 そういえば、もう一柱、お祀りしている神様がいた気がするが、めぐるは思い出せなかった。アメノミナカヌシみたいな名前だった気がするけど、古事記などの古史古伝や神話でも見たことのない名前だった。なんだったっけ。アメノ何とかだったのは確かだと思うけど。

 とにかく、そんな古い由緒の神社の蔵にひっそり保管されているような書物だ。期待しないほうがおかしい。


 一瞬、ともすればそのまま流してしまいそうな位に仄かに、祖母の香りがヒヤリとした隙間風に乗って、ふわりと漂ってきた。

 風を辿る。

 箪笥と壁の隙間。

 先程まで本が置いてあった所の後ろ、天板の一部に指をかけられる程度の隙間が開いていた。

 少し躊躇ったが、めぐるはその隙間に指を伸ばした。めぐるの細い指はするり、とその先の暗闇の中に沈み込んでいき、奥で何か細い金属の棒に触れた。

 動かせないかと二本の指で挟み、力を込める。

「めぐ?」

 不意に背後から声をかけられ、素っ頓狂な声と共にじわりと振り返ると、一番見つかりたく無かった人物がすぐ後ろに立っていた。

「お、かあさん」

 怖くて顔を見る事ができない。

「やば」

 めぐるは思わず呟いてしまった。耳ざとくその声に母の真日路まひろは反応した。

「何がやばいの? あんたこんなところで何してるの。どうやって入ったの? っていうかあんた、今日綾瀬ちゃんとこ行ってたらしいじゃない。雫さんから聞いたよ。何をコソコソ探ろうとしてるの」

 おそるおそる真日路の顔を窺う。鬼の様な形相を予想していたが、思いの外穏やかで、単純に、分からないと言う様な表情をしていた。

「えっと、はっちゃんが、変なこと言ってたって言うから、アヤが。それで、気になって訊きに行ったの。それで、帰ってきたらおばあちゃんが入ってくのが窓から見えて、それで、来て見たら鍵が開いてて」

「お母さん、ここが開いてるの初めて見た。こうなってるんだ。へえー」

 めぐるの言い訳を聞いているのか聞いていないのか、母の顔がどんどん好奇心に溢れていく。それを見て、めぐるはなんだか拍子抜けした。

「お母さんもこういうの好きなの? その、古いものとか」

「言ってなかったっけ? お母さん、神社とかお寺とか、長い時間を感じられる物が好きなの。何百年、何千年の間にどれだけの人が関わってきたんだろうとか、想像するとワクワクしてこない?」

「する!」

「だよね」

 めぐると真日路は、ふふふと笑い合った。母とこんなに楽しく話ができたのはいつくらいぶりだろう。いつも怒られているだけの様な気がして、なんとなく話しかけづらい感じになってしまっていた。どうやら、めぐるの思い込みと杞憂のせいだったみたいで、途端に憑き物が落ちたみたいに全部が明るく見えてきた。

「それで、おばあちゃんは?」

「中に入ったら、いなくなってたの。でも、おばあちゃんの匂いはするんだよ。ほら」

 めぐるがそう言って指した方に、真日路は顔を近づけると、少し首を傾げた。

「おばあちゃんの匂いはちょっと分からないけど、この後ろ、隙間があるの? この裏って神不知だけど、そこに抜けてるって事? でも、風の強さからすると、そこまで大きくないのかな。ん?」

 真日路は先ほどより大きく首を傾げた。

「その割には、木とか土の匂い、しないね」

 この蔵の裏は、禁足地「根守の神不知」という、深い森になっている。入ったら出られないと言われている。実際、人の手が入っていないので鬱蒼としていて、昼間でもとんでもなく暗く、深く入ると本当に戻ってこれないんじゃないかと思わせる。

「……ほんとだ。じゃあ、この隙間はどこに繋がってるの?」

「そう言えば、この蔵の裏がどうなってるのか知らないわ。もしかしたら、もっと奥行きがあるのかもね。面白そうじゃん」

 そう言って、ふひと笑った真日路を見て、やっぱり私達は親子なんだなと、改めてめぐるは思った。

「お母さん、この箪笥の上のとこに、指かけれるとこがあるんだけど。ここの中になんか、動かせそうな棒があるの。それ動かそうとしてる時にお母さんがきて」

「あんたは怖い物知らずで、時々ハラハラするわ。何か分からんものを無闇に触る様な事するから、気が気じゃ無いわ。ちっちゃい頃からそんな感じだったね。火に触ろうとした時は流石に怒ったな」

 真日路はそう言って、懐かしむ様に微笑み、めぐるを見た。そして、めぐるが何かを持っている事に初めて気がついた。

「めぐ、それは?」

 めぐると目が合うと、すぐその視線を下にやり、めぐるの手元で止まった。

「この箪笥の上に置かれてたの。何が書かれてるのかなと思って、え?どうしたの」

 めぐるは母の顔を見て固まった。恐怖と怒りがないまぜになったような、強張った表情の母を見て、とんでもないことをしたのだと、すぐに悟った。


「めぐっ、その本に触るな!」


 言うが早いか、刹那、真日路はめぐるの手から本をはたき落とした。どんっという落下音からこの本の重さがうかがえる。母のその様は鬼気迫るという言葉そのままで、めぐるは正直命の終わりすら視野に入りかけていた。こんな顔をする母は、ずいぶん昔に、神不知に入ろうとした時以来だ。

「なんで、なんでこんなところに」


 真日路は、呆然とするめぐるの襟首を掴むと、乱暴に井戸に引き摺って行き、頭から水を被せ、全身を擦り始めた。真日路は何やらぶつぶつ呟きながら、めぐるを洗った。

「つめたっ! え、お母さん、やめて……痛っ! さむい!」

「あんたは……あんたはほんまにっ! 祟られるって教えんかったか! どういう目に遭うかも話してやったの覚えてるやろが! 忘れたんか!」

 真日路の目には涙が浮かんでいた。

 めぐるは、母から昔口酸っぱく言われていた事を今になって思い出した。

『お祀りしてる物には触っちゃダメよ。あそこにあるのは神様のものだから。バチが当たるよ』


「あの本がどうしても気になって、読もうと思って……」

 右頬に熱い衝撃が走り、思わず手で覆う。ついに涙が出てしまった。

「あの本は、神前に捧げた神聖な供物や。軽々しく持ち出すような真似、絶対したらあかん代物やってわかるやろが! 死んでまうがね! 大体、なんであんなところにあるんや。あれは、元宮で厳粛にお祀りしてた筈や。あの本は、あの本はあかん」

 真日路は本気で怒ると故郷の方言が混ざって変な言葉遣いになる。

「本を読んだだけで? なんで?」

 一心不乱にめぐるの体を洗っている真日路は、息が上がり始めていた。

「わからん、わからんがあんたが産まれるちょっと前に、元宮に盗みが入って、あの本が無くなったことがあった。それからすぐ近所の家で人死にが出た。前から噂になってた手癖の悪い嫁がいると言われてた家やった。まずは生まれたばかりの赤ちゃん、それから旦那、息子、娘と一ヶ月経たずでその嫁と姑以外全員死んだ」


 ごくり、と喉が鳴った。

「でも、この本のせいって何でわかるの……?」

 真日路はその問いには答えず続けた。

「それから一週間くらい後や。元宮で祝詞宣りを上げようと扉を開けたら、真ん中でその嫁があの本抱えて息絶えとった」

 じゃああれはしばらく死体に抱えられていた本ということか。めぐるは思わず両手を履いていたジャージに擦り付け、見えない不浄な何かを拭おうとした。

「触ってしまった事は本当にごめんなさい。そんな怖いものって知らなかった。じゃあせめて何の本か教えてよ」

 真日路は、めぐるの懲りない好奇心に呆れた。

「あんたはほんまに私の娘やわ。自分を見てる様で、余計にそわそわしてまう。あれは『天譴文書』言うてな、大昔の紅巻弦って人が書いた仇討ちの記録の写本や。詳しい内容はお母さんも知らん。平安時代位からうちにあったって言う話があるけど、それも本当かどうか」と、吐き捨てるように言った。


「とにかくあれは触ったらあかんのや。まして読もうなんて。神前に供えあげた物を持ち出すと思わんかったし、そもそもあの蔵にあの本があるって思わんかったから油断したわ。ほんま罰当たりが!」

 そう言って真日路はめぐるの頭頂を叩いた。

「とにかく、あの本はちゃんと戻しておいて、おばあちゃん探さんとな」

 真日路は、めぐるにバスタオルを渡しながら、着替えておいでと言い、ひと足先に蔵へと戻っていった。その背中をぼんやりと見ていためぐるは、自らのくしゃみで我に返り、トボトボと自室に戻った。


 あんなに怒る事ないのになと、先ほど怒られたのが嘘の様に、好奇心は復活していた。さっさと着替えて、蔵に戻ろう。びしょ濡れになった部屋着と下着を、乱暴に脱ぎ捨て、適当な服に着替えて急いで部屋を出、小走りに蔵へと向かうと、めぐるは目を見開いた。


「え、うそ」


 再び、蔵の前で呆然とするしかなかった。

 蔵の錠前は、再び固く閉ざされ、母の姿も、消えていた。

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