第15話(3) 執事の信条
ボロボロと涙が溢れて止まらなくなった。
十五歳の時、中庭でフィリアはその人を見たのだ。貴方は誰、と問いかけたら、いなくなってしまったけれど。
上級使用人と護衛騎士だけが立ち入ることを許されたその場所に部外者がいるはずもなくて、誰もがフィリアは白昼夢を見たのだと噂した。
あれがシドだったかどうかなんて本当は分からない。ただのネズミモチだったかもしれない。身勝手に喚いたってシドには理解できないと、分かっているのに。
嗚咽を漏らしたフィリアの背に、シドの手が割れ物を触るようにふわりと触れた。そしてそのままもう一度抱きしめてくれた。その懐が温かくて、悔しいくらい優しくて。
「そうだったのですか……奇遇ですね……お嬢様……私も覚えておりますよ」
「え……?」
驚いたフィリアの背を、シドは子供をあやす様にさすりながら、優しい声で言った。
「貴女はあの時、白い花を持っていた」
「シド……」
刹那、バタバタと地面を叩くけたたましい足音が聞こえて二人は完全に夢から覚めた。サプラスがフィリアとミーナの入れ違いに気付いようだ。
シドは慌てて彼女を放したが、そちらを見遣ったときには時すでに遅く、横の路地から肩をそびやかした男が怒髪天を突く形相でこちらへ駆け寄って来るところだった。
「その手を放せ下郎がぁ!」
「サプラス、違うの! これは」
フィリアが止めるのも聞かず、頭の血を沸騰させた男はシドに掴みかかると、骨太な拳で顎に強烈な一撃を振り込んだ。
シドは避けることもしなかった。
まるで覚悟していたかのように、というよりホッとしたように、力なく自分の体を差し出したようにさえ見えた。
人が殴られるのを初めて見た。
遠慮のない豪腕の一撃はフィリアの目にすら火が出るほどの衝撃で――地面へ腰から崩れ落ち、苦痛に歪んだ顔を片手で押さえたシドの姿が酷く痛々しかった。
「シド……!」
迷わずシドの元へ駆け寄り、膝をついて肩を支える。口元から血が滲んでいるのを見て泣きそうになった。どんなことをしても守ると言ったのに……。
「やめてサプラス、違うの、私がいけなかったのよ!」
「ええい、お黙りください、フィリア様、こいつはさすがの私も許しておけん! どんな事情があろうと、下等な使用人風情が大事な侯爵家のお嬢様をたぶらかして触れるなど誰が見過ごせようか」
未だ立ち上がれないシドの胸倉を掴みあげ、フィリアから引き剥がすようにしてサプラスはもう一発同じ場所に食らわせようと腕を振り上げた。
その顔が怖かった。笑っているのだ、フィリアに向けて。こんなことは朝飯前だと、自分はいつも戦でこうして敵をねじ伏せてきたのだと、愚かな虫けらを一つ潰して御覧にいれましょうと、そんな心の声が聞こえるのだ。
サプラスのわき腹に、フィリアは抱きついてすがった。
「お願いよサプラス! シドは何もしてないわ。ごめんなさい。シド、ごめんなさい。私がいけないのよ、ごめんなさい。ごめんなさい……っ」
取り乱してヴェールが勢いよく剥がれ落ちる。結われていた白銀の髪が荒く散ったのも構わず、ほとんど泣きじゃくって取りすがった。
サプラスは驚愕しておののき、それ以上は何もできなくなり、振り上げた拳を渋々と下ろすとシドを無造作に地面へ放った。再び長身の体が腰から落とされ、鈍い音がした。
「シド殿……このことはオリーズ侯にご報告しておきますぞ。ご覚悟ください」
「サプラス、お願いよ、お父様には言わないで!」
「申し訳ありませんが、それはできかねます。さあ行きましょう」
そう言い捨てると、彼はシドに蔑むような一瞥をくれてからフィリアの手首を強引に掴み、肩を抱き、有無を言わさず踵を返して元の道を戻り始めた。
「シド……」
「フィリア様、目をお覚まし下さい。貴女は騙されているのですよ。あの男は自分で馬車まで歩けますから大丈夫です。逃げるやもしれませんがね。はっはっ」
サプラスは快活に笑った。逃げれば罪が極限まで重くなることを分かっているから拘束もしないのだ。
なんとか振り返ってシドの様子を見ようとしたが、彼女を掴む大きなゴツゴツとした手がそれを許してはくれなかった。
石畳の上を冷たい風が通り過ぎていく。
シドはどうなってしまうのだろう。
なんとか助けなければと、そればかり考えていた。
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