第10話(1) 闇の執事



 夢だ――と分かっているのに、全身を焦燥感が襲う。



「あなたは誰――?」



 午後の眩しい日差しの中、とりどりの花がむせ返るように咲き乱れた中庭の、奥のまた奥にある東屋――。


 軒下の薄い帳からまだどこか幼い、しかし随分大人びた目をした白銀の少女が現れる。

 精霊に見初められた天からの預かり物――本当にその形容句そのままの少女が、琥珀色に虹を通したような不可思議な色の眼を向けてくるのだ。


 令嬢と口をきいてはならぬこと。訊かれたら答えねばならぬこと、喉の奥に引っかかって言葉が出ないこと、どれもがせめぎ合い、何一つ答えられない。


 ただただ焦燥感に苛まれ、最後にその手元の白い花を見た。


 逃げるように踵を返せば目の前に大きな海が広がり、空には一等星が輝いて自分を手招いている。しかし白波に一歩踏み出そうとすればそこは一瞬にして強い風の吹きすさぶ崖の上へと変わり、海も星も遠く厚い雲に隠れていく。




 カーテンの隙間から朝焼けの光が差しこんでいた。


 朝鳥のさえずりにシドは薄っすらと目を覚ました。しかし、まだ時間ではないと気付いて一つ嘆息し、シーツに顔を埋める。


 上級使用人の個室はそれなりに広く、ベッドも質の悪い物ではない。

 以前はバゼルが使っていた部屋だそうだから普段は割とよく眠れていたのだが、最近やけに寝起きが悪い。

 きっとこの間フィリアが口にした言葉が原因だ。

 黒髪の騎士が気になっていると言いながら、彼女はなぜあんな風に上気した表情を自分へ向けてきたのだろう。白銀の令嬢は、気の迷いだとしても罪深い。


 従僕のノックで身を起こし、用意された紅茶で一息ついてから執事服に着替えると、すぐに部屋を出て一日が始まった。


 朝食を兼ねた朝礼では、侯爵の侍従であるモアを筆頭に、候爵夫人の侍女リギア、女中長のエリス、フィリア付きのミーナ、そして執事補佐のノイグへ前日に秘書官から下りてきたスケジュールを渡して仕事を確認しあった。


 それを終えると、月末のこの日は食料の備蓄庫へ向かった。

 小麦や干し肉などの備蓄食料は思いのほか少なく、初めの頃は不正でも行われているのかと訝しんだものだが、確認したところ最後の戦が終わってから久しい近年では、候爵は無駄に蓄えることなく食料が領民へ広く渡るように計らっているのだと言う。


 倉庫番と監察官が定期的に数を数え、領地を回る土地の監督官たちが帳簿を確認し、その上で執事が再確認するのだから不正のしようがない。

 それだけでも侯爵の周到さを感じるが、候爵本人も時間さえあれば領地を回って農村や街の様子を確認し、災害の一つでもあればすぐにどこに何を用意させられるかを知っているというのだから、いかに現在のオリーズ候が領主として優れているかが分かる。


 そういえば使用人として田舎屋敷を転々としていた頃に、様々な場所へオリーズ候が現れていたことを思い出す。

 悪名高い数代前のオリーズ候との約定により強制的に忠誠を誓わされている身の上ではあるが、現代のオリーズ候が聡明であることには感謝しかない。



 赤絨毯の敷かれた廊下に白く透き通った昼の日差しが落ちている。


 シドが侯爵の部屋へ向かって歩いていると、侍女や数人の護衛を引き連れたフィリアとすれ違った。

 肩口の開いた黄色の社交用ドレスに白地のコートを羽織り、髪は丁寧に編みこんで結い上げられ、唇には普段より分かりやすく濃い紅が施されている。


 彼女は、月に一度、王都で開かれる舞踏会へ出かけて行く。

 名目は誰かの誕生日だの騎士達の昇格祝いだの様々だが、フィリアの親にしてみれば結婚相手を検討させる為の恰好の見合いだ。


 会場には美しいフィリアを射止める為に大勢の貴族連中が集うことだろう。

 例え本人が行きたくないと言っても、候爵から命令を受けている従者達がそれを許さない。だから折角の外出だというのに、いつもふてくされて参加しているのだと、休憩室でミーナが愚痴をこぼしていた。


 シドが廊下の脇に立ち、左手を腹へ当てて一礼すると彼女は微笑を返して通過して行った。


 薄紅に染まった頬や淡い琥珀色の不可思議な瞳は、以前よりずっと女らしくなった。

 候女の様子がおかしいことに、シドはなんとなく気付いていた。始めは勘違いかとも思ったが、自分に向ける眼差しが、どうにも一使用人に向けるそれではないのだ。


 これまで他家の屋敷でも令嬢に気に入られることはよくあった。

 腐ったような目をして与えられた仕事を遂行しているだけの自分のどこが良いのか、と、彼には皆目見当もついていないが、なぜか令嬢から言い寄られることは多い。

 遊び半分の娘たちを相手にその気になる訳にもいかず、毎回のらりくらりとかわしてきた彼であったが、今回ばかりはさすがに動揺していた。

 相手は自分が忠誠を誓っているオリーズ家の候爵令嬢――フィリア・オーウェンだ。例え遊び半分だとしても、まかり間違って迫られでもしたらどう回避すればよいのか……。


 彼女は知らないのだ。暗闇の書庫へ呼び出される度、あの潤んだ瞳で見つめられる度、執事の張り巡らしてきたバリケードが一つ一つ剥がれていくことを。


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