夏の月と眠らずの星
彼女はそれから、ずっと浮足立ったようにご機嫌で、「明日が楽しみですね」なんて、同じことを繰り返し言ってくる。有り合わせの平凡な夕食も、嬉しそうに笑っている白波を前にすると、無性に美味しく思えた。少しだけ長い食事を済ませてから、明日に備えて、お風呂で一日の疲れを癒やす。あとはもう、寝るだけ。そんなことを思いながら、彼女の待つ寝室へ向かった。十時過ぎ、月明かりが照る窓硝子の向こうを、じっと見ている。
「お月さまって結構、明るいんですね」
「確かに……。意外と気付きにくいかも」
白波の手を引きながら、揃ってベッドに寝転がる。最初の頃と比べると、だいぶ動きも緩やかになった。それをどう捉えていいのかは分からない。ただ、デジタルのアバターとして存在していたはずの彼女が、ここまで人間らしく振る舞えていることに、科学技術の進歩を感じる。限りなくアナログに近いデジタル──バーチャル・ヒューマノイド。
「ところで、マスター」
「うん」
「私、今夜は寝ないでいようかと」
「え、なんで」
「だって、このまま寝たら、普段通りにマスターとお話できなくなっちゃう可能性のほうが大きいです。少しでも長く、こうしてお喋りしていたいので。ダメですか?」
枕に頭を預けながら、けれど視線はしっかりと僕を見て、白波はそう告げる。まさか彼女のほうから、そんな提案が出てくるとは思わなかった。どうしたものかと、しばし悩む。
「……スリープ状態に無理やり移行させずにいると、判断能力とか身体能力が落ちて、ちょっと危ないんじゃないかな。明日は歩くだろうし、ボーっとしたままお祭りとか楽しめる?」
「……徹夜とかしてみたいのが本音、って言ったらどうしますか?」
「それはズルいって……。そう言われたら断れないじゃん」
「と言いますと……?」
「……自己責任」
「やった! これでマスターとの濃密な一夜が過ごせますねっ!」
「言い方」
やれやれ、と溜息を吐きながら、心のどこかで楽しんでいた。これですんなりと折れてしまう僕も、あまりに弱すぎる。けれど彼女が楽しみたいのなら、それでいい。僕ができる限りサポートすればいいだけ。だから、楽しいことしか考えない。今はそれでいい。
「徹夜のときはコーヒーって相場は決まってるんだ」
白波の手を引いて、ゆっくりとキッチンへ向かう。二人分のカップを用意して、あまり使わないインスタントのドリップコーヒーを彼女に探させた。夏だし、アイスにしよう。
でもなかなか見つからなくて、と思ったら白波が見落としていて。それだけのことが面白くて笑っていたら、今度は僕がガムシロップを入れすぎたりして、それを彼女が茶化す。
「マスター、笑い過ぎでバチが当たったんですよっ」
「ふふっ、そうかも」
ソファに座って、ひんやりとしたカップの感触を手のひらで味わう。慣れないコーヒーを飲むことに緊張しているのか、それとも寿命のせいでそうなっているのか、とにかくおぼつかない手付きをしている白波に、僕はゆっくりと飲ませてやる。一口目からむせた。
「にがっ……! お砂糖、全然足りてないです……!」
「あら。こっちはどうだろ──うぇ、あまっ……」
やはり入れすぎたか……。甘ったるさが舌に残って、ちょっと嫌だ。失敗した。
そんな僕を、白波は面白そうに見ている。それからお互いのカップに視線をやって、
「もしかしたら、交換すればベストだったりします?」
「あ、でも」と、彼女は悪戯っぽく笑う。
「間接キスになっちゃうので、どうしましょう」
「……そういうことには頭が回るよね、君」
「あ、私がえっちとかそういうんじゃないですよ? ただ、客観的なお話です」
その得意げな顔が無性にムカつく。カップを奪い取って、勢いそのまま飲み干した。なぜか恥ずかしそうにしている彼女に、僕の持っていたカップを差し出す。これであいこだ。
「や、それは……セクハラ……かと」
「恥ずかしがるな、目を逸らすな、僕もやったんだから君もやれ」
「……マスターの変態──いてっ」
戯言をぬかす白波の頭をひっぱたく。我ながら恥ずかしさで色々とおかしい。
「うぅ、分かりましたよ、飲めばいいんでしょ飲めば……」
とはいえ彼女はカップを持とうとしないので、結局は僕が飲ます。首のラインが見えて、飲み込むたびに喉が動いて、目は閉じてるし、呼吸は荒いし、特殊プレイか何かか……?
「んはぁ……! 強引にされちゃいました、間接キス……」
「直にしないだけいいでしょ」
「……それはそうです。恥ずか死にます」
「あ、でも」と、白波は悪戯っぽく言う。
「本当に間接キスが嫌なら、お互いに口をつけないで飲みますよねっ」
「またまた照れちゃってぇ~。マスターも私のこと大好きなんですね!」という声が聞こえてきたのは、現実なのか幻聴なのか、よく分からなかった。もうどっちでもいいや。
◇
そんなこんなで雑談してイチャついているうちに、いつの間にか日はまたいでいた。けれど朝日を拝むまで、まだ時間はたくさんある。それから適当に始めたトランプで、ババ抜き七番勝負はギリギリ僕の勝ち、トランプタワー早積み勝負はどちらも上手くいかなくて引き分け。続けてチャレンジしたしりとり五番勝負は、相変わらず白波が強い。それでも意地の一勝。頭を使うゲームだけあって、眠くはならないけど、精神的な疲れが出てくる……。
「何気に徹夜も疲れますねぇ……」
「やることがあって没頭してるならいいけど、これって暇潰しの徹夜だしね」
「でも、カフェインの効果でまったく眠くならないですね」
「でしょ。二時過ぎてるけど僕もぜんぜん眠くない」
いつの間にか白波を膝の上に抱きかかえながら、何気なく喋り続ける。ちょっとした特別感があって、どこか、修学旅行の日の夜みたいだなと、そう思った。いやまぁ僕自身、学校には良い思い出とかほとんど無いけど。一般論として、だ。うん。一般論……。
「ところで、マスターは私と出会う前の夏休み、何して過ごしてました?」
「……去年とかの話? 部屋で黙々とゲーム」
「ここ、ゲームないですけど、暇だったりしません?」
「そういうとこだって思ってるし。白波がいるからいいよ」
「えへへ……。私、愛されてますねぇ」
にへっとした顔で彼女は笑う。その笑顔に、僕はどれだけ救われたろうか。
「おじいちゃんにもおばあちゃんにも可愛がられて、凪とか圭牙とも友達になれてさ」
「ほんと、幸せです。お役に立てているなら充分です」
僕を見上げて笑うその表情がとても幸せそうで、嬉しくなって、頭を撫でてやる。
窓の向こうには、星が見えた。天の川ほど大層なものではないけど。
「ステラって、意味、なんだっけ」
「ラテン語で、星、って意味です。知ってるくせに」
「おじいちゃんが名付けたんだよね」
「はいっ」
ふと思い出す。今の今まで、気にしていなかったこと。
「そういえば僕の名前も、おじいちゃんが案を出したとか言ってた」
「……そうなんですか?」
「うん。最初は親が、彩陽(あさひ)とか彩月(さつき)って名前にしたらしい。彩る陽と月で、彩陽に彩月。人生の主人公で、自分で人生を彩って、太陽みたいに華々しく……なくてもいいけど、月明かりみたいに必要なもの。でも字が男らしくないからって文句言って。なんでか分からないけど、夏なら男っぽいだろうって、だから、夏月になった。別に夏生まれじゃないのにさ」
「彩陽に彩月、すっごくいい意味じゃないですかっ! なにやってるんですか……」
「うん、でもね、いま気付いたんだ」
「……何にですか?」
目をしばたかせている彼女に、僕は笑って返す。
「夏月とステラ、月と星──よく考えたら、対になってるね、って」
「あっ……! 確かに、そうですねっ。えへ、なんだか嬉しいです」
白波を少しだけ強く抱き直しながら、お互いにはにかむ。そこまで考えて、祖父がステラと命名したのかは分からない。ただ、偶然にしても、運命的な偶然だと、そう思った。
◇
日の出まで、あと数十分ほどになったろうか。僕は特に睡魔がやってくるわけでもなくて、手持ち無沙汰のまま、ただ外を眺めているだけになっていた。白波も、無言。眠いわけではないけれど、少しだけボーっとしてきたらしい。この状態で動くのも危ないだろう。
「あと何十分かしたら日の出だよ。白波、見たことある?」
「んー……? 本物はないです……」
「そっか。たぶん見えるよ、ここから」
「おー。楽しみですね」
「ね」
抱き枕のように彼女を抱えながら、だんだんと白みつつある朝ぼらけを眺める。いつか見えていた星も、知らない間に掻き消されていた。この密着感が心地よくて、少しだけ温かい、柔らかな感触。緩やかな時間の流れに身を置きながらの、贅沢なひとときだった。
「ずっと抱っこされてて、つまらなくない?」
「えー、幸せに決まってるじゃないですかぁ」
満面の笑みで、締まりのない顔で、彼女は笑う。僕だけに見せる──と言っては大げさかもしれないけれど、でも、そんな表情。その笑顔も、他と同じくらい、大好きだった。
「なんか、今日の私とマスター、イチャイチャしすぎですねっ」
「……深夜テンションってやつでしょ」
「じゃあ、間接キスしちゃったのはノーカンにしますか?」
「それは駄目」
「ふふっ、素直じゃないです」
それでいいよ、と、お互いに目を細めて笑う。視線が合って、そのまま無言。意識しているわけじゃないのに、なんだか気まずくなって、恥ずかしくなって、目を逸らした。
「……プラトニック、ですね」
「ヒューマノイド相手には、流石にね」
「でも、キスまでは、ギリギリセーフですよ」
日和ったのを、変に勘違いされたのだろうか。白波が小さく呟く。
とはいえ現状、ヒューマノイドとの恋愛なんて、普通じゃない。いくら人間らしくても、それはあくまで、一時的に縁ができるだけの、デジタルコンテンツ。一昔前なら、アニメやゲームのキャラクターに恋をしているだけに過ぎないのだ。そんなの、普通じゃない。
そう、我ながら、普通じゃないんだ。いくら彼女が初恋の相手だろうと、この夏だけの関係であろうと、好きになってしまったのは、それはそれで、おかしくて。でも、凪や圭牙、島の人に奇異の目で見られるようなことがなかったのは、恵まれたな、なんて思う。
「でも、なんていうのかな。そういうことをするのは、違うなって」
構造上、できるかできないかじゃない。白波という個体として見て、だ。
「一緒にいて、くだらない話とかして、みんなと遊んで、たまにイチャついて……。それだけで、充分なわけだから。下手に手を出すよりは、綺麗なままで終わらせたい」
「……夜明け時のマスター、ロマンチストですね」
「ひっぱたくよ」
照れ隠しに笑う。彼女もつられて、僕を見上げながら笑みを洩らした。
「……ね、こういうので充分だよ」
「今更ですけど、そうですね」
「あ、でも」と、白波は続ける。
「やっぱりキスの一回くらいは……ね? 眠気覚ましにと思って」
ふざけているわけでもなく、真剣に言っているわけでもなく、それがさも自然だと主張するかのように、彼女は自分の唇に指先を当てる。ちょんちょん、と動かした。
「恥ずかしいから嫌だよ」
「さてはそれが本音ですね……。意気地なし。根性なし。優しいだけ」
褒めるかけなすかどっちかにして。
「あっ、もしかして、するのは嫌だけどされるのはいいパターン……?」
「そういうこと言ってると寝かしつけ──ちょっ、なに動いて……待って、近い」
僕の手をどかしながら、彼女は器用に膝の上で半回転する。鼻先に見える顔がいつもよりも近くて、思わずのけぞった。一緒に寝るときでさえ、ここまで近くなったことはない。数週間前の初々しさを思い出しながら、深呼吸をして羞恥心を押さえつける。……無理だ。
「なんかこう、強引にやってると、征服感ありますね。首に手を回しただけなのに……」
「愉悦に浸らないで。目も閉じないで。緊張するから」
「マスターからキスしてくれるまでこのままです」
無理やり顔を近付けてくる白波を手で制する。本気で止めようとすれば止められるけど、それはやっぱり可哀想だ。告白した時以上に緊張しているかもしれない。我慢比べか……。
「ん」
ここですよ、と、指先で唇を示す。小さく笑って、目蓋は閉じたまま。どうしたものかと内心でうろたえながらも、ほとんど覚悟は決めていた。溜息とともに、ふと窓の向こうを見る。明るみを帯びてきた紺色の空に、白んだ朝ぼらけの色が乗って、水平線から昇る朝日が、それを茜に彩っていた。その綺麗さに、僕はほとんど無意識に、目を奪われていたらしい。
「……あ」
白波の声が近くで聞こえる。朝焼けの景色を、無言で眺めている。初めて見る情景を、目に焼き付けるように。残り短いなかでも、覚えていられるように。そんな彼女の横顔が、やはり僕には、堪らないほど愛おしかった。どんなものよりも綺麗だと、そう思った。
──名前を呼んで、振り向いたところを口づける。不思議とさっきまでの羞恥心はなくて、ただ、ほんの数秒、その柔らかな感触に触れていた。心は凪いだ海のよう。いつの間にか閉じていた目を開けると、白波はしばらく、呆然としたように目をしばたかせる。
「……私、いま、されちゃいました?」
彼女の問いに、照れ隠しの笑みで返す。その代わりに、少しだけ強く抱き直した。
「朝日を見せてからのキスなんて、やっぱりマスター、ロマンチストですっ」
すっかり興奮した彼女が騒がしくなって、失敗したなと思ったのは、ここだけの話。
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