第三章

後悔、曖昧な決意、そして

「……いや、なんでもない」


──どこに視線を向ければいいか分からなくて、ふと、時計を見る。ちょうど日をまたいだところだった。締め付けるような喉の痛みと、はち切れそうな拍動、小刻みな呼吸を自分でも感じながら、僕は無意識的に手の甲を強く覆った。酷い悪寒のようなものがする。

それらをすべて突っぱねるように、彼女に背を向けた。


「……おやすみ」


「……? はい、おやすみなさい」


背後で白波の声が聞こえる。窓の方に目を遣りながら、じんわりと滲んでいく視界を無理やり擦った。滲みるような痛さが、容赦なく追い打ちをかけてくる。


……信じられない。信じたくない。聞き間違えたかと思いたいのに、僕には、はっきりとそう聞こえた。『──恋人同士って、誰と誰がですか?』と。いつもの彼女の口調で。いつもの、少しだけ間の抜けたような顔で。みんな、いつも通りで。


「……なんで」


漏れそうな嗚咽を、毛布を噛んで無理やり堪える。覚悟していた、はずだった。けれどそれは、ちょっと物忘れが増えるとか、ドジが増えるとか、そういうものだったはずなのに。現実は違う。いちばん大切なところを、いちばん最初に、持っていかれた。甘かった。それが悔しくて、情けなくて、もう訳が分からない。


目覚めるのが怖い。目覚めた時、白波は何を言うのだろう。都合の良いことも、考えたくないことも、ひしめくように頭のなかで鳴り響いていた。


聞こえないように耳を塞いだ。掻き消すように脳内で叫んだ。微かに、彼女の寝息が入ってくる。さっきのことは忘れているかのような、穏やかなものが。


よく呑気に寝ていられるな、なんて、そんな声が聞こえる。


……違う。白波は悪くない。ここまで想定していなかった僕が、すべて悪い。一瞬でもそう思ってしまったことが、堪えられそうにないほど腹立たしかった。手の甲に立てつけた爪が、薄い皮膚を切り裂く。鋭い痛みと余韻が残る。歯ぎしりしても、噛み砕けるわけじゃない。分かっている。分かっている、のに。


──とうとう堪えきれずに漏らした嗚咽も、幸い、彼女の耳には届いていなかった。


目を閉じ続ける。耳を塞ぎ続ける。さっきまでの日常が、走馬灯のように思い浮かぶ。それはまるで、現実逃避。何かが違うとは思いながらも、そうせざるを得なかった。


そんなことをしているうちに、長いのか短いのかも分からない夜が明けて、朝が来る。ぼんやりと射し込む朝日を眺めながら、僕はいつの間にか、睡魔に呑まれていた──。



泥のなかにいるような気がする。腕も、足も、指先も、すべてが重い。前がよく見えない。どこが前なのかも、よく分からない。言い知れぬ不快感がまとわりついていた。


「……スター、マスター、起きてくださいっ」


微かに声が聞こえる。聞き慣れた声。底抜けに明るくて、安心できる声だ。それに手を伸ばそうとして、伸ばしきれない。泡沫のような何かが、指先に触れた、気がして──


「っ……」


「あっ、マスター起きました! 今日は随分、お寝坊さんなんですね」


白波がおかしそうに笑いながら、僕の顔を覗き込んでいる。窓から射し込む曇天の光が、彼女の面持ちを照らしてよく分かった。どこか心地の悪さを感じながら、身体だけ起こす。


「いっぱい眠れましたか? もうお昼すぎですよ。マスターが起きないから、私、ずーっと暇だったんですっ。……わ、寝汗びっしょりですね。ちょっと暑かったですか?」


「え……?」


反射的に、服の下に手を入れる。ものすごく湿っていた。


「お着替え済ませたら、リビングへどうぞっ! 久々に頑張ってみましたので!」


少しだけ慌ただしい彼女の背中を追いながら、僕はようやく我に返る。いつもの白波だ。昨夜のことが嘘みたいに、そんな素振りも見せない、いつも通りの白波の態度。


それに安堵しつつ、手早く着替えて、リビングへ向かった。珍しく彼女お手製の料理が並んでいる。僕が起きてこないから、代わりに作ってくれたのだろう。頑張ったものだ。


彼女と一緒にソファへ腰掛けて、箸を取る。


「ごはんに目玉焼き、サラダとお味噌汁……。定番だね」


「愛する妻が夫に作る日本人の定番料理ですっ!」


「いや、まだ結婚してないけど」


まぁいいや、と軽く笑う。お味はどんなものだろうと胸を弾ませながら、まずはお味噌汁を一口、すす──ろうとしたのだけれど、熱くて飲めない。息を吹きかけて冷ます。隣の白波もそっと吹きかけて、二人がかりでお味噌汁を冷ました。たぶんこれでいける──


「……っ⁉ なにこれっ……!」


味噌の味どころか出汁の旨味も、お湯の味すらもしない。明らかに『しちゃいけない味』を感じて、僕は反射的にキッチンのシンクへと逃げ込む。勢いそのまま吐き出した。口当たりが悪い。苦いような、甘いような、よく分からない味と……化学薬品のような、匂い?


「えっ、ちょっ、大丈夫ですか……⁉」


「白波、これ……なに入れた……?」


「え……? 普通の調味料、ですけど」


狼狽している彼女の顔。口をゆすごうとして、あるものが目に入る。


「……材料、なにで洗った?」


「洗剤、ですけど……。あれ、基本ですよね?」


真顔で言い放つ白波の声音に、やっぱりな、と納得する。このこと自体は、別に人間でも起こりうる……らしい。普段、料理をしないような人であれば。そんな話を聞いたことがある。ただ、彼女の料理はクオリティに問題こそあれ、そこは大丈夫だったのに。


「すごく言いにくいけど、食材を洗うのは洗剤じゃなくて、水だよ」


「……? あっ……⁉」


思い出したように目を見開くと、白波はそのまま深く頭を下げる。ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返すその姿が、どこか辛くて、見ていられなくて、罪悪感が湧いてきた。


覚えてくれればいいよ、と、励ましに僕は笑う。それからまた食器の前に向き直って、文字通りの毒見をした。どれも丁寧に洗剤で洗ったものらしく、まったく食べられない。ただそれが、僕のために作ってくれたことを思うと、やるせない気持ちになった。


「ん……美味しいっ」


「へっ……?」


「これ。目玉焼き。とっても上手くできてる。半熟だね」


ただひとつ、目玉焼きだけは無事だった。それがとても嬉しくて、思わず白波の手を取って笑う。彼女もつられて笑うと、安心したように、いつもの冗談めかした態度で言った。


「愛が籠もってるので、美味しくないわけないんですっ。それにしてもあの洗剤は、私とマスターの愛まで流してしまうんですね……。恐ろしいです。使うのやめますかっ」


「ふふっ、そうする?」


「はいっ!」


「それはそうと、パン焼いてくれる? 目玉焼き乗っけて食べたいな」


「えへへ、お任せくださいっ!」


自信ありげに、締まりのない顔で笑った。意気揚々と、はずんだ足取りでキッチンへと戻っていくその姿が、やはり可愛い。何かを頼むと素直に動いてくれるし、ヒューマノイドだけあって、それが原動力なのだろうか。……白波はたまに、面倒くさがるけど。


せめて、こうやって一つずつ。覚悟を決めさせてほしいと、そんなことを思った。



──案の定、何を間違えたらそうなるのか、少しだけ焦げたパンを受け取って。あまり反省していなさそうな彼女の額を、指先で軽く小突いてみる。嬉しそうに笑った。僕も笑う。


すぐに食べ終えて、食器を自分で運びながら、ふと窓硝子の向こうを見た。いつの間にか、ぐずついた雨が降って、土砂降りになっている。これじゃあ外に出るのも億劫だ。


「……」


圭牙も凪も来る気配がない。いつ買ったのかも覚えていない賞味期限切れのお菓子を引っ張り出す。それを食べながら、雨音を聞きつつ、ゆったりとソファでくつろいでみた。


いつの間にか眠っている白波が隣に見えた。適当なクッションを抱きしめて、顔を埋めて、ここ最近は珍しく、背筋をきちんと伸ばしてスリープしている。そういう時もあるらしい。


「ふぁ……」


寝覚めが悪かったのを思い出して、ふと欠伸が出る。もう一回だけ寝て、夕方になったら起きればいいか。朦朧とする頭でそう考えながら、いつもの部屋に向かって、ベッドに入った。白波はあのまま寝かせておいて、途中で起きたら、まぁ、その時はその時だろう──。


「……ん、ぁ……あれ」


──寝ついた時と変わらない雨音で、ふと目が覚めた。夢は見ていない。一瞬のように錯覚して、本当に寝ていたのかと訝しむ。部屋は暗かった。夕方どころか夜らしい。


「やばっ……」


ブランケットを蹴っ飛ばした勢いそのままにリビングへと向かう。廊下も暗い。明かりがない。床を滑っていた全自動掃除機につまずきながら、白波はどうしているだろうと、真っ暗なリビングに駆け込んだ。……何も見えない。いない? それならどこに……?


ひとまず照明をつけようと、スイッチに手を伸ばした。


「っ……⁉」


息を呑む。肩が跳ねる。急発進で拍動する心臓の音が、身体を震わせていく。それはあまりにも異質で、場違いで、言葉を選ばなければ、怖い。見慣れた存在ですら、そう思ってしまった。いつの間にか一歩だけ引いていた右足を、ソファのほうに向ける。


……彼女は眠っていた。最後に見たあの姿のままで。何も変わらず、そこだけ時間が止まっているような。そんな不気味な錯覚にすら苛まれる。微かに呼吸はしているようで、身体が少しだけ揺れていた。近づくごとに、息が詰まっていく。一言だけ、声をかけた。


「……白波」


僕の声に反応するかのように、彼女の目蓋がゆっくりと上がっていく。それから寝ぼけまなこを擦ると、小さな欠伸を漏らしてから、あたりをキョロキョロと見回した。


「なんか……だいぶ暗いですけど。雨、すごいんですね」


「いや、降ってるには降ってるけど……。いま、七時、過ぎてるんだよ」


「……えっ? もう、ですか?」


「うん。僕も白波と同じくらいに寝て、さっき起きたんだけど──それは昨夜の寝付きが悪くて眠かったから、ここまで眠れたの。……でも君って、眠くないよね? いつもならすぐに目覚めるはずなのに……なんで? 一回は起きたとか、そういうのは……?」


彼女は、よく分からないとでも言うように首を傾げる。ただ、五、六時間、ぶっ続けで寝ていたのは確実らしい。本人は自覚こそしていないものの、これは明らかに、昨夜に続いて寿命の影響だろう。記憶障害、スリープ時間の増加、あまりにも当てはまりすぎている。


……疑う余地なんてない、のに。僕を見上げる白波を前に、そっと目を逸らした。まだ、現実を直視できていない自分がいる気がして。これから僕はどうすればいいのか、それを図りかねて、それでも上がりきった脈拍を抑えようと、小さく溜息を吐く。今から、明日から、彼女との日常がどれだけ変わってしまうのかを思うと、訳も分からず不安になった。


「……ちょっと遅れたけど、ごはん、作ろっか」


我ながら、下手な現実逃避だなと思った。

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