白い眩しさ
──世界のすべてが、淡い色彩に包まれていた。絵筆の先に滲んだ絵の具が、穂先から水面に溶け消えて、そこに映った色合いにも似た、そんな、淡いだけの情景。夢はいつも、薄ぼらけ。モノクロでもなければ、セピア色でもない、中途半端な、淡い色。それが僕の夢だった。
誰かと話している。誰かと笑っている。二人ぶんの声が、僕の耳にも届くくらい、はっきりと聞こえていた。淡々と、けれど玲瓏として澄み渡る、真夏の暑さをも掻き消してしまうような──風鈴の音にも似たその声が、僕にはとても懐かしく感じられる。だって、それは、僕の初恋の人の声だから。懐かしいのは、当たり前だ。
彼女は、なかなか外へ出ようとしない。僕が誘っても、静かに首を振るだけで、その手触りのよい髪の毛が、弧を描きながら靡いている。白藍にも似た瞳の色は、窓硝子から射し込む陽光に煌めいて、困ったように笑うその顔が、僕にはどこか、これ以上ないほど印象的だった。
◇
昼下がりの陽光に焼けたアスファルトの上を、四人は広がって歩く。僕と白波、圭牙と凪。剥がれかけの白線、或いは揺らめく枝葉の影を踏みながら、頬に伝う汗を、親指の腹で拭いとった。燦燦とやかましい炎陽に一瞥をして、吹き抜ける潮風の名残りが、微かに匂っていく。
「良かったですね、マスター。圭牙と凪がいてくれるから、『初恋の人探し』も上手くいく気がしますっ。それに、この私もいるんです! 絶対に探し出しましょう!」
「うるせぇだけの御託はいい。それより夏月……つったか。お前、探してるやつの特徴とか言ってけ」
「うっ……うるさいってなんですか! 私はマスターに話してるんです。圭牙には何も言ってないですぅー!」
「ほら出た、うるせぇやつ」
間に僕を挟んで、白波と圭牙が軽口を叩く。ほとんど初対面のはずが、彼女はこの輪に上手く馴染んでいた。無邪気で奔放らしい性格だから、他人にも受け入れられるのだろう。ただ、それを今の僕が真似るのは難しい。
けれど、白波は僕のアシスト役。昨日、彼女が言ってくれたことだ。結局、変わらなければいけないのは自分自身で、白波はただ、それを後押しするだけ。なんとか現況を変えたい、そうは思いながらもやはり、圭牙や凪と一緒にいるのは緊張する。少しだけ息が詰まるような、胸のあたりが締め付けられるような、そんな感じだ。
「うぅ……マスター! 私そんなにうるさいですか?」
「あぁ、うるせぇぞ。流石はバーチャル・ヒューマノイドだ。物静かな普通のヒューマノイドとは違うな」
「だーかーらー、圭牙には聞いてませんっ! ねぇマスター、やっぱり私ってうるさいんですか……!?」
「……今日はうるさいね」
「ほらっ! いつもは静かなんですよ、私!」
満面の笑みで彼女は言う。そのポジティブさが少しだけ面白くて、僕は思わず吹き出してしまった。我慢できなかったのか、圭牙と凪も同じように笑っている。取り繕うように咳払いをしても、誤魔化しきれていない。
「えっ? えー……? なんで笑うんですかっ。マスターまで笑ってるじゃないですか。人間って謎ですね……」
コロコロと表情を変える白波が、いちばん人間らしい。圭牙の言った通り、家庭用ヒューマノイドは、感情表出がバーチャル・ヒューマノイドよりも劣っている。けれど、ここ数日の彼女の様子を見ていると、高性能なバーチャル・ヒューマノイドのなかでも、その感情表出のレベル──内蔵されているAIの性能はかなりのものだ。
白波がいると、場が賑わうし、和む。口元を緩ませている二人を見て、僕も、少し嬉しくなった。見上げた夏空は、その色彩を鮮やかに、晴れ晴れと、群青色の一色に染まりきっている。視界の端に、入道雲が見えた。緩やかな坂道を、民家と軽自動車を横目に下っていく。頬を撫でる風は、青青とした土草と潮の匂いがした。
「だいぶ話がズレたけど、夏月の探してる初恋の人って、どういう人なん? なんか覚えとらんの?」
「えっと……いや、綺麗なお姉さん、ってだけ、かな。僕が六歳くらいの時に会った人で……。それだけ」
「綺麗なお姉さん、ねぇ」と凪は呟いた。コンクリート舗装の道路が柔らかいカーブを描いて、ガードレールもそれに沿ったまま、伸び続けている。塗装の掠れた横断歩道を少し向こうに見ながら、左手にある公民館らしき建物を指さして、そのまま彼女は続けた。今や滅多に見ない電話ボックスが、掲示板と一緒に並んでいる。
「あそこの掲示板に貼り紙でもしとく? 『四宮のおじいちゃんのお孫さんが、初恋の人を探してます』ってさ」
「いや、それは……」
「冗談だって、冗談。そんなに嫌な顔しないでよ」
凪は軽快に笑いながら、履いているサンダルを鳴らす。そうして掲示板に貼ってある広告を指さして、「それよりもさ」と言った。白波が興味ありげに身を乗り出す。僕もつられて覗いたところで、圭牙が「これか」と呟いていた。どうやら花火大会の告知をしているらしい。その他にも何枚か、過去に撮った写真が貼られている。
「八月三十一日に花火大会やるんやけど、もし行けるなら一緒に行こうよ。九月からはここらの島、行政の管轄じゃなくなるし、これが最後になると思うからさ。思い出としてね。二人とも、いつまでここにいるん?」
「あっ、ちょうどその日です! 寿命で消滅するのが八月三十一日なので、ギリギリ行けますね、マスターっ!」
心の底から嬉しそうに、白波ははしゃぐ。大きく見開いた目には、群青色の瞳が覗いていた。夏の白い眩しさを遮るように、彼女はそのまま相好を崩す。その屈託のない笑みで僕は、白波は本当に、自分の寿命のことを何も気にしていないんだな──と、そんな一種の感心さえ抱いてしまった。焼けた地面に、彼女の影が踊っている。
「えっ、ちょっ、ちょっと待って……。白波、寿命で消滅って……そんなん初めて聞いたけど、本当なん?」
「はい。私、八月三十一日に、寿命で消滅します。既に、かなりのおっちょこちょいになっちゃいまして……。ドジすることも増えましたし、忘れごとも増えました」
「……大事なところはもっと早く言っとけよ」
「えへへ……。すみません」
「バーチャル・ヒューマノイドというのも、困りものですね」と、彼女は苦笑いを洩らす。凪は「そっか……」と呟いて、一瞬だけ僕に視線をよこした。やや気まずそうにしながら、手櫛で後ろ髪を整えている。圭牙もどう話を続ければいいか分からないらしく、腕を組んで黙っていた。遠くから微かに、蝉の鳴き声が聞こえてくる。
白波はそんな雰囲気など気にもしないように、掲示板をじっと見つめていた。花火大会の告知ポスターを、隅から隅まで読んでいるのだろうか。あまり外出することがなかったらしい彼女にとって、こういうイベントは、心惹かれるものがあるのかもしれない。それなら、少しでも楽しませてやりたいと思うのは、変だろうか。
「……あの」
アスファルトの埃臭さと、微かに匂う潮の香りが、涼やかな風に乗って髪の合間を撫でていく。それに掻き消されがちだった僕の声に、真っ先に反応したのは白波だった。次いで圭牙と凪が、反射的にこちらを向く。
「花火大会、みんなで、行こう。……思い出作りにさ」
「よしっ、決まりやね」
「あぁ。忘れんなよ、おっちょこちょい」
白波は気恥ずかしそうに頷いて、その純白の髪を、人差し指に巻き付けて遊ばせる。昼下がりの眩しさが、群青色の瞳に爛々としていた。ときおり吹く風に影を揺らしながら、彼女はそのまま、目元を綻ばせる。ただ無言で、燦々と照りつけた日射しに映える、あの向日葵にも似た微笑で、白波は僕を見ていた。その、どこか儚げな面持ちを──僕はいつか、見たような気がした。
妙な既視感に苛まれながら、ふと、告知ポスターの周囲に貼ってあった花火大会の写真、その一枚が目に留まる。それは、まだ港が海の底に沈んでいない頃、そこから撮った写真らしい。果てしもなく深い、黒洞洞たる水面に、揺らいだ花火の姿が、鏡のように映されていた。手を伸ばしても掴めない、限りなく本物に近い、偽物。触れたところで、それは所詮、海の表面でしかない。
──あぁ、そうだ。その光景を僕は、確か、見たことがある。小さな頃、祖父母と一緒に、この島で花火を見た。海に沈む、遙か昔の港で、手を繋ぎながら、確かに見上げた。一緒に花火を見たかった初恋の相手は、誘えなかった。その時に見た、透き通るような髪と、瞳の色、それが窓硝子から射す陽光に煌めいて──そう、そうだ。あの困ったような笑い顔も、今の白波に、とてもよく似ている。
「それなら、次にやるべきことは──」
彼女はやにわにそう言うと、流れるような動作で僕の手を取った。それから、側溝の金網をカランと鳴らして、アスファルトに描かれた横断歩道の真ん中に立つ。純白の髪が潮風を乗せて、生ぬるい空気を掻き分けていった。ひときわ強くなった炎陽の日射しが、僕と、彼女のその群青色の瞳を、爛燦と照らす。背後に聳える電柱と、道なりに進むガードレール、的皪とした海面は昊天に二分したようで、水平線から入道雲が昇っていた。
「マスターの、初恋の人を探すこと──ですねっ」
──夏の白い眩しさ。白波はやはり、彼女に似ている。
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