第10話 田原 美佳①
― 3. 田原 美香 ―
潜入調査当日の朝。
職員会議が始まる1時間前、方泉は校長室に居た。
一般的な校長室の机とは違う、高級感溢れるプレジデントデスク。ビッシリとファイルが並んだ、背丈を超えるアンティーク調の棚。染みが一つもない柔らかなベージュの絨毯。
自然と背筋が伸びてしまうこの一室で、方泉は外を眺めていた。
そっと指先が撫でるのは、壁をくり抜いて作られた大きな窓枠。覗き込むように見下ろせば、レンガ造りの校門、校門を入ってすぐの所にある守衛室、生徒達を昇降口へと導く並木道が、よく見える。
朝練で登校する生徒達。その生徒達に挨拶をする守衛。落ち葉を箒で掃く教頭。
うっすらと聞こえる生徒達の声を聞きながら、方泉はじっとその様子を見つめる。
松井が言っていた通り、この門を部外者が通り抜けることはできなそうだ。教師や学校関係者が出入りする裏門も確認したが、常に警備員が立っており、身分証を提示しないと門を開けてもらえない事になっている。
松井に手紙を出したのは生徒か。それとも教師や用務員なのか。
はたまた、そのいずれかの組み合わせなのか。
眼鏡のブリッジを押し上げながら、方泉は増えていく人の流れを目で追っていく。
すると、歩き続ける人々の中、ピタッと二人が立ち止まった。
方泉の鼻先がガラスに近付く。
恵比寿顔を柔らかく崩し、親し気に挨拶をする教頭。しかし、声をかけられた生徒は嫌そうに顔を歪める。そして軽く頭を下げると、足早に去ってしまった。あっという間に遠くなる後ろ姿を見ながら、丸い背中が萎れていく。どうやら生徒とのコミュニケーションは良好ではないようだ。
はぁ、と溜め息を吐いた教頭が、再び掃除を始めた時。方泉の後ろからギィ…と音を立てて扉が開いた。
「電話が長くなってしまって…ごめんなさいね」
眉をハの字にした松井が、スマートフォンをポケットにしまいながら方泉に向かって歩いてくる。
「大丈夫です。それで、先程仰っていた『大変な事』とは…」
「あぁ!そう…そうなの!」
松井は大きく頷くと、内ポケットから白い封筒を取り出した。
「これは、あの時の…?」
先日事務所に持ってきた、脅迫状。あれと同じ物のように見えるが、松井は硬い表情で首を振る。
「これは、今日の朝届いた物なんです」
「!」
驚く方泉を一瞥し、松井は封を開く。
取り出した中に書かれていたのは―――
「あ~っ!!千葉先生、よけて下さーい!」
キャーッ!と湧いた生徒達の声に、思考を巡らせていた方泉の目がパチッと瞬く。必死に上を指す生徒達。その道筋を辿るように視線を向けた瞬間、ドンッ!!と鼻筋で鈍い音がした。
「い゛っ…!!」
硬いバレーボールに押された眼鏡が、ぐにっと皮膚にめり込みながら弾け飛ぶ。
ジンジンと痛む鼻根。勝手に倒れて行く体。このままでは後頭部をぶつけると察した方泉は、咄嗟に頭を守る。
テンテンテン…と床に転がるボール。その隣で、方泉は身を丸めて転倒した。
ドスン!と重たい音が体育館に響き、生徒達から悲鳴が上がる。
「いたた…」
そうだ。今は体育の授業中だった。試合の応援をしていた筈が、いつの間にか考えに集中しすぎて周りが見えなくなってしまっていた。
肘を付きながらゆっくりと体を起こした方泉は、寂しそうに落ちている眼鏡に手を伸ばす。
良かった。眼鏡は壊れていないみたいだ。と、ホッとしたのも束の間。立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、腰に電流のような痛みが走った。咄嗟に腰に手を当てる。顔を顰める方泉の元へ、生徒達が心配そうに駆け寄ってくる。
「千葉先生、大丈夫ですか?」
「立てますかぁ?…って、やば!先生!鼻血!鼻血出てる!」
わらわらと集まった生徒達が、方泉の鼻から垂れている血に気付き、どうしようと慌てだす。鼻の奥からたらりと伝い、ぽたっとぽたっと床に落ちていく赤い丸。方泉は急いでポケットからハンカチを取り出すと鼻を覆った。
心配そうに見つめる生徒達に、大丈夫と手を振ってみせる。すると、方泉の前に一人の生徒が駆け寄り、膝を付いた。
「せ、先生、ごめんなさい…。私がアタックしたボールが先生に…」
膝の上でグッと拳を握り、声を絞り出す杏子。罪悪感で震える声と、今にも泣きそうな表情が可哀想で、方泉は「このくらい、全然平気だよ」と優しく笑いかける。
「千葉君、大丈夫?」
落ち込む杏子の肩をぽんぽんと叩きながら、体育教師の佐藤が跪く。
「はい。すみません、授業を止めてしまって」
「そんなの良いわよ。それより、腰痛いんでしょ?凄い音がしたし、念の為保健室に行きましょう。B組の保健委員の人、誰だっけ?」
くりくりの小さな目を見開き、手を上げる佐藤。すると、人だかりの中でピンと細長い腕が伸びる。
「はいはいっ!私です!」
「工藤さんね。もう一人は?」
「!あっ、えっと…」
ゆめはスッと手を下ろすと、横目でちらりと凜々花を見る。
気まずそうに顔を伏せる凜々花は、手を上げるべきか悩んでいるのだろう。ずっと視線を彷徨わせている。周りの友人に肘でツンツンと突かれた凜々花が、小言を言いながら顔を上げる。その瞬間、パッとゆめと目が合った。
ドキッと胸が鳴る。仲直りの切っ掛けに…そんな淡い期待が脳裏を過ぎるが、凜々花はふいっと顔を背けてしまう。
「!」
明らかな拒絶の反応に、ゆめの胸がぎゅぅっと締め付けられる。今まで小さな言い争いをした事はあったけど、すぐに仲直りできていた。と言うか、「組長怒らないでよ~」と言えば、凜々花は呆れて折れてくれていた。
このまま仲直りできないのかな。と浮かんだ不安が、ツンと鼻の奥を刺激する。
「工藤さん?」
「あっ…」
不思議そうな佐藤の目と、心配そうに見守る友人達の目が、感傷に浸るゆめを引き戻す。
ゆめはこみ上げる涙をグッと口を結んで堪える。そしてニカッと笑顔を作ると、佐藤に向かってピースを向けた。
「ゆめ一人で大丈夫です!小学生の時に腕相撲大会女子の部で優勝してるので!」
「??…そう?じゃあ千葉先生のこと、頼むわね」
腕相撲?力があるって事?と疑問に思いながらも、佐藤は頷き、座ったままの方泉をゆっくり立ち上がらせる。
「い~な~、ゆめ。千葉先生と二人っきりじゃん」
「ねぇねぇ、ゆめ一人じゃ大変だし、私も手伝おっか?」
「ううん。ゆめ力持ちだから大丈夫だよん」
「はいはい、授業に戻るよー!」
ぶつぶつと文句を言う生徒達に手を叩くと、佐藤はゆめに「よろしくね」と声をかけ、コートに戻って行く。
「先生、肩貸しますよ~」
腰を擦る方泉に、ゆめは肩を突き出して天真爛漫に笑う。さっきまで泣きそうな顔をしていたのに。気持ちを押し殺して明るく振る舞うゆめの姿は、出会ったばかりの方泉の心にも、チクリと刺さる物がある。
「大丈夫だよ。ありがとう」
方泉はニコリと微笑むと、腰に手を添えて少しずつ歩き出した。
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