第21話
彼は今年で五十になり、職業は考古学者。 普段は大学で色々と教えているが、職業を尋ねられればそう答えるほどに重きを置いている。 そんな彼は何の因果かこの一件に巻き込まれた。
突然の状況に強い恐怖と不安を覚えはしたが、それ以上の好奇心が彼の胸を満たしている。
考古学はかつてのこの世界に存在した人々が残した痕跡を辿る事。
残された品々や建築物を見て当時の状況に思いを馳せる。 過去があるからこそ今があるのだ。
だからこそ岳田は考古学を尊いものと思っており、追及する事は人生の命題とすら思っている。
しかし風化した物から当時の状況を辿るのは非常に困難だ。
時間が経てば経つほどに様々な要因が邪魔をする。 過去を紐解とく学問ではあるが、連なって行く時間への挑戦でもあった。
そんな彼の目の前に訪れた非現実。 魔導書という名の常識の外に存在する代物は彼の好奇心を大きく刺激した。 こんな状況だというのに心が躍って仕方がない。
魔術は実在したのだ。 だとしたら世界各地に伝わる伝承や架空の存在とされていた者は実在した事になる。 とんでもない大発見だ。
魔導書を持ち帰る事が出来たのなら、これまでの研究は一変する。
叶うならもっと若い時に出会いたかった。 そうすればもっと――いや、もはや常識に囚われている事が馬鹿らしく感じる。 フィクションはフィクションではなかったのだ。
もっと頭を柔らかくして考えろ。 若い時に出会いたかった?
だったら若返りの方法を探せばいいのだ。 魔術が存在する以上、もしかしたら不死の妙薬もあるかもしれない。 五十年生きて来て最高の瞬間だった。
やれる事、やりたい事が無限に思いつく。
老いに蝕まれた体に活力が満ちて行くのを感じる。 興奮の余り胸が苦しい。
歴史に対するアプローチがまったく変わるのだ。 これに興奮するなというのが無理な話だった。
粗方調べ尽くした。 歴史は網羅した。 そんな事は言わせないとばかりに新たな刺激、未知なる側面を見せて来る。 この世界はなんて刺激的で素晴らしいんだ。
ここは危険な場所で先行きどころか数分後の命すら危ういが、彼はこの状況に対しては感謝しかない。
世界の裏側に潜む神秘、その一端に触れる事ができる上、魔術を行使する為のツールまで与えられたのだ。 どこに不満があるというのだろうか。
状況に対する興奮とは別で彼には更に重要な事があった。 目の前の魔導書だ。
『
過去と未来、そして隠されたもの失われたものを見せる能力を備えている。
未来はどうでもよかったが、過去を見せるという点はどうしようもなく彼を引き付けた。
過去、そう過去を見られるのだ。 自身の過去ではなく、この世界に刻まれた純然たる事実。
それを見る事ができるのだ。 この悪魔の能力を用いれば彼が長年追い求め、抱いた疑問の全てが氷解する。 だが、そこまでするには第五位階での使用が要求されるので、使用に若干の躊躇があった。
詳しくは不明だが使用に魂という軽くはないであろう対価が必要になるらしい。
魂! あるとされており、岳田自身も概念的なものだと思い込んでいたが、実在したとは思わなかった。 ここに来てから些細な事にも驚きの連続だ。
だが、支払うと具体的にどうなるのかが分からない。
寿命的なものであるのなら可能な限り支払いたくなかったからだ。
岳田は命が惜しい訳ではなく、知る為の時間が失われる事に抵抗があるだけだった。
過去を求める岳田とって過去を知れる事は甘い、甘すぎる誘惑だったのだ。
地面に置いた魔導書をいつまでも見つめ続ける。
ここに来て魔導書の使い方を知ってからずっとこの調子だった。
周囲を調べる、安全を確保する。 やるべき事は山ほどあったはずだが、そんな事はどうでもいい。
この本に秘められている知識にしか興味を抱けなかった。
見たい。 知りたい。 欲していた全てを手に入れたい。
今まで生きて来てここまで見苦しく葛藤した事は記憶にない。
何故なら岳田という人間は無理なら別の手段を用いればいいと思っているので、すっぱりと諦めて次の手段を試すからだ。 道が通れないなら他の道を通る。
そんな考えが根底にあるからこそ彼は今まで迷うことなく生きて来れた。
だが、そんな彼の根幹を揺るがす程のものが目の前にある。
「どうすれば……どうすればいい……」
思わず声に出てしまう。
欲望は際限なく膨らみ、さっさと使え、見てしまえ、そうすれば楽になれると囁く。
だが、僅かに残された理性が行動に待ったをかける。 危険だ、手を出すべきではないと。
分かっている。 恐らくこれは片道切符だ。
列車に乗ってしまえば欲しい全てを得られるだろう。 だが、持ち帰る事は叶わない。
古来より伝わる悪魔との契約とはこういう事かと新たな発見をしたが、膨れ上がる欲望に押し流される。
もう切符を改札に突っ込む直前の状態だ。
興奮とそれを押さえつける理性と溢れだそうとしている欲望のお陰で彼の心の中はもうぐちゃぐちゃだった。 顔面は汗まみれになり全身はぶるぶると不自然に震える。
――なにか、何か決める為の切っ掛けが欲しい。
救いを求めるかのように彼は視線を彷徨わせ――ふと自分の手が目に入った。
皺の刻まれた年齢相応の手だ。 そう遠くない内に老いは彼から活力を奪うだろう。
十年、十五年先の未来を考え、彼の体から震えが消えた。
決めてしまえば後は早い。 岳田は魔導書を拾い上げる。
「ふ、何を今更、迷う事があっただろうか」
今までの葛藤は何だったのかと思う程に晴れやかな気分だった。
元より、この職業に命を懸けて来たのだ。 何を躊躇する事があるだろうか。
気持ちを落ち着ける為に彼は大きく息を吸って――吐いた。
そして魔導書に意識を集中する。
「私の全てをくれてやる。 だから、私の命題に答えをくれ」
――<
彼は後戻りができない決断を行った。
瞬間、彼の肉体が悪魔へと変化していくが、そんな事は些細な事だ。
『
見える。 見える。 信じられない程に良く見える。
疑問を浮かべればその答えとなる過去が脳に焼き付けられるのだ。
溢れる。 答え、応え、答え、応え。
求めれば全ての回答が瞬時に現れるのだ。 今まで悩んでいた事が馬鹿らしくなるほどにあっさりと渇望した全てが手に入る。
「――はは、そうか! そうだったのか! この世界は本当に興味深い!」
私は世界で一番幸せな人間だ。 岳田は高らかにそう叫び――魂を使い切った事で消滅した。
最後の最後まで彼の中には歓喜しかなく、全てが終わった後には持ち主の居なくなった魔導書だけが残された。
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