第19話
はぁはぁと息を切らせながら一人の男が闇の中を彷徨っていた。
左肩に力が入っておらず腕がぶらぶらと力なく揺れる。
それには理由があった。 彼の左肩――肩甲骨の辺りに大きな傷があったからだ。
肉がごっそりと抉り取られており、血液がじくじくと流れる。
痛みが酷いがそんな事を気にしている場合ではなく、表情は険しく、視線には強い恐怖が宿っていた。
残った右手で魔導書を構え、周囲を警戒しつつ走っている。
今の彼は魔導書の第三位階を用いて悪魔との同調を行っている状態だ。
それにより身体能力が大幅に向上し、感覚も常人を遥かに超え、鋭く強化された五感は周囲の変化を敏感に感じ取る。 小さな風切音。
男は体を捻って回避行動を取り、一瞬後に彼の頭部があった場所を何かが通り抜けた。
硬質な音が響く、ちらりと視線を向けると矢が地面に突き立っており、刺さった場所を中心に床が溶け始めていた。 彼の左肩の傷もこれが原因だ。
少し前に歩いていると不意にさっきの矢による攻撃を受けて負傷。
彼にとって幸運だったのは矢をすぐに引き抜いた判断をした事だ。
本来なら無理に引き抜くと出血が激しくなるので、治療環境が整っていない状況では抜くのはあまり良い判断ではない。 だが、この矢に限っては早々に引き抜かねば彼の左腕は溶け落ちていただろう。
それが彼の名前だ。 極々平凡な家庭に生まれ、平凡な職に就き、平凡な家庭を築く。
これと言った特徴はないが、それなりに平穏に過ごし、子供にも恵まれた。
そんな彼の平穏が崩れたのは少し前だ。 息子が失踪した。
消えただけなら単なる家出で珍しいがあり得ない話ではない。
だが、彼の息子は驚くべき事に何処から手に入れたのか拳銃で学生を三人射殺し、その後に警察官を二名射殺して姿を晦ましたのだ。 それにより、彼と彼の家庭は崩壊した。
妻は逃げるように実家に帰り、彼も居辛くなって仕事を辞めて隣の県へと引っ越した。
実家へ帰る事も考えたが、話を聞かせて欲しいと群がって来る取材の申し込みに両親を巻き込みたくなかったので一人で安いアパートを借りて住んでいる。
誰もいない家に帰るのは虚しかった。 家族の居ない熱の消え失せた家は空虚だ。
そんな精神状態では仕事に身が入る訳もなく、気が付けば平均以下の労働者といったレッテルを張られる始末。 だが、何もかもを失った彼にとってはどうでもいい。
何故ならもう自分には何も残っておらず、後は朽ち果てるのを待つだけの退屈な人生が待っているだけ――その筈だった。
山田は荒い息を吐きながら迷宮を走る。 彼の胸中にあるのは死への恐怖だ。
失うものなど何もない。 そんな彼だったが明確な死の恐怖の前には諦観は単なる虚勢だったと気付かされる。 死にたくない。
そんな純粋な渇望を抱き彼はこの状況から逃げ切ろうと必死だ。
打開ではなく逃げる事を選択しているのには理由があった。
彼の魔導書で呼び出せる悪魔は『
使い魔という猫のような生き物を召喚できたが牽制に繰り出しても瞬く間にやられるので出してもあまり意味がなかった。 徐々に追い詰められている事は自覚しているので、そろそろ思い切った手が必要だと考えている。 第四以上の使用。
彼はそれを行う事の意味を理解していなかったが、有限の何かを支払うと理解はしていたので使用は控えるべきと考えていたのだ。 しかし、この追い詰められた状況下ではそうも言っていられない。
山田はその場で足を止め、更なる力を使う事を選択する。 死の危険をリスクを負う事で克服するのだ。
――<
彼の決断に呼応するように魔導書の力で彼は人ならざる存在へと変化する。
筋肉が大きく盛り上がり、真っ赤な毛が全身から生え、顔が人間のそれからライオンに似たものに変化。 足の筋肉が大きく盛り上がり、足裏が蹄のように硬質なものへ変わっていく。
第三位階の時とは比べ物にならない力を感じる。
自分が人間という枠を大きく飛び越えた事を実感した。 それによる万能感で恐怖を闘争心に変え、追跡者への怒りが湧き上がる。
よくも今まで追いかけまわしてくれたな。 今度はこっちの番だ。
そんな気持ちで彼は感覚を研ぎ澄ます。 少し遅れて風切音。
矢による攻撃だ。 今の彼には躱す事は造作もなく、逆に音から発射位置を割り出して一気に突っ込む。 彼の腕は大きく肥大化し、人間を容易く引き裂く爪が生えている。
たったの数歩で十数メートルを踏破し、鋭くなった嗅覚が敵の匂いを感知。
いた。 後、数メートル。 位置がはっきりしたので後は引き裂くだけだ。
強化された視覚は闇の奥に異物を見つけ出す。 悪魔の腕力で繰り出される一撃は敵を正確に捉え――
「――!?」
爪が引き裂いた手応えは明らかに人間のそれではなかった。
山田は目を見開く。 彼が引き裂いたのは巨大な矢を十字にして上着を引っかけただけの案山子だ。
なら本物は一体どこに? 疑問の答えは視線を落とした先にあった。
男が一人、弓矢を構えた体勢で倒れ込んでいる。
山田がその姿を認識した瞬間、放たれた矢がその頭部を射抜いた。
下顎から射抜いた矢は内包した毒によってライオンのような頭をジャムのようにどろどろに溶かす。
頭部を失った悪魔は崩れ落ち溶けた頭部を伝うように胴体も同様に溶解させる。
たった今、射貫いた獲物の末路に若干、顔を顰めた男は取り落とした魔導書を回収。
そこまで手強い相手ではなかったが、勝手の悪さから仕留めるのに随分と時間をかけてしまった。
彼の魔導書によって使役される悪魔は『
男は魔導書を得てこの状況に身を置いてから早い段階で自らの魔導書を用いて他の参加者を狩ろうと決めており、仲間を増やそうといった気持ちは最初から存在しない。
この悪趣味なゲームを仕込んだ主催者は明らかに参加者である彼等を殺し合わせようとしている。
乗るのは業腹ではあったが、入念に準備された状況である以上は逃げる事は難しい。
ならば可能な限り主催者の望みに沿い、隙を見つけてそれを射抜く。
他の参加者には悪いと思うが、自分の命を優先している彼には迷いはなかった。
男はグズグズと溶けつつある死体に背を向け、次の獲物を求めて歩き出した。
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