第〇〇六話 人間の男習わぬ力を宿す II

 伊吹守さんは細長い棒を軽やかに振り回し、舞踊と見紛うような優雅な足取りで、ディアを追いかける。ふわりと動きを緩めたかと思った次の瞬間には鋭く踏み込んで一撃を放つ彼女の姿は、まるで天女のようだった。

 そんな彼女の動きを完全に見切っているように身軽にかわし続けるディアの動きも俺の常識の中にはないものだった。どうみても生後数週間程度しか経っていない猫の動きなどではない。むしろ、俺が知る限りの猫が取る動きでもなかった。


 伊吹守さんの攻撃は鋭かった。名のある武術家なのかもしれない。俺など相手にもならないだろうし、もっと言えば数秒も経たずに決着がついてしまうだろう。更に、彼女が振り下ろす棒はそこらの小岩にひびを入れる程の威力があった。当たればまず骨が砕け、血が飛び散る。当たり所が悪ければ即死だろう。

 しかしそんな彼女の攻撃は、ことごとくが空振りに終わっていた。尋常ではない、ディアの身のこなし。縦横無尽という言葉も陳腐に思える、曲芸じみたかわし方だ。あるいは相手の攻撃を先読みでもしているのかとでも錯覚してしまう程、無駄を一切削ぎ落としたかのような、洗練された動作だ。

 とは言え、ディアはまだ子猫でしかない。技術に優れていようとも、それを支える体力に若干の不安があった。ディアは伊吹守さんの猛攻の前に劣勢を強いられ、純白の体が徐々に痛めつけられてゆく。


「ニャ……ニャふっ……!」


「ディア……と申しましたか。素晴らしい技量の持ち主なのは認めざるを得ません。私のこの結界の中で、マダスも一切使えない状況にもかかわらずよくぞここまで私の攻勢をしのぎ切りましたね。称賛に値しますよ。五分の条件であればこの私でも少し苦戦したかもしれませんけれど――私の勝ちですわね」


「くっ……ぼく、たたかうつもりで、きたんじゃ、ニャい……!」


「それは今更詮なきこと。私はただ任務を遂行するのみですので――さて」


 ディアは地面に伏せている。大した怪我ではなさそうなのが救いだったけど、多分すぐには動けないだろう。伊吹守さんはそんなディアに一瞥をくれた後、ゆっくりと俺の方へ視線を向けてきた。


「お待たせ致しました、黒埜さん……でしたわね。貴方に問いたいのは二つ」


 そんな彼女の声もどこか鈴の音のように凛としているのが、とても印象的だった。しかし相手は俺の命を奪おうとしている、まさしく〝敵〟だった。俺は自分の未来を考え、そして身震いしながら次の言葉を待った。


「先ず、貴方達の目的を聞かせてくださいな? 貴方達は、あの子から何か頼まれてここに来たのでしょう?」


 予想に反して、彼女の口調は穏やかで冷静なものだった。俺はそこに少し安堵し、体の震えを意志で何とか押さえつけながら、その問いに答える。


「い、一条さんから〝ケラス・・・を使わせて貰えるよう〟説得してこいと言われました」


「――ふうん、一条……。まあ何か事情がおありなのでしょうし、それは良いです。そしてやはり目的はケラス・・・でしたか。残念ですが、それは無理なご相談ですわね」


「あの人は自分の世界に戻りたいと言っていました。そして、そのケラス・・・とやらさえ使わせて貰えたらそれが叶うと。どうしても、駄目なのでしょうか?」


「そうですね、〝駄目〟なのではなく、〝無理〟なご相談です、としか申せません。それ以上を説明する意味は、今この場においてはありませんので。では次の質問に。黒埜さん、貴方――死にたいと思っておりませんか?」


 先方で勝手に話題をまとめられ、そして勝手に次の質問へと進められてしまった。口調からしても交渉や譲歩は無理だ。

 そして……何なんだこの質問は。ディアと初めて遭った時も同じ質問を聞かれたが何故彼女達は俺の心の中を見透かすような質問をポンポン投げ込んでくるのだろう?


「い、一体何の話をしているのか、俺にはさっぱり――」


「嘘をおっしゃいな。貴方の魂の奥底を読めないのも私には意外なのですけれど……今の貴方は絶望と失望、落胆と悲嘆に捕らわれている……そんな色を抱えています。簡単に言えば……腐っているんですよ、貴方の魂」


 魂が〝腐っている〟と言われたのは、これで二回目だ。最初は数日前自分の部屋で一条さんに言われたのだった。でもその表現は確かに当たっているのかもしれない。ここ数日の急展開で色々と忘れてしまっていたけど、俺は本来、今の人生に見切りを付けていたのだ。何をやっても裏目に出る人生なんて、生きていても仕方がない……そんなことを考えていたのだ。自分の命をどうこうというのはともかく、もし本当に彼女達が俺の魂の色を見られるというのなら、彼女達にそう見えたとしてもおかしくないのだろう――



「本当に貴方の魂には、私も興味をそそられます。ねえ、死にたいと仰るのでしたら私にその魂、譲って頂けないかしら? 苦しまずに処分して差し上げますわよ?」


「な、なっ――何をいきなり馬鹿な――」


 魂を譲れ? 苦しまずに処分? 何てことを涼しげに言うんだろうかこの人はっ!? この人も一条さんと同じような、サイコパス……? いや、彼女達はそもそも俺達と同じような存在ではないのかもしれない……というか、十中八九そうなのだろう。


 やっぱり、さっきから少し引っかかっている。伊吹山の山頂で出会った謎の女性。その名前は山の名前と一緒で、普通の人間ではない。結界を操り、人並み外れた力ととんでもない威圧感を持った相手――そして、この伊吹山にはそんな存在にまつわる伝説が存在している。


「……い、伊吹童子いぶきどうじ――」


 思わず俺の口を突いて出たその言葉は、俺に迫ろうと歩み寄っていた彼女の動きを止めるのに十分な力を有していた。しかし、表情は相変わらず穏やかで、冷たい。


「あら、懐かしい呼び名ですね。伊吹大明神いぶきだいみょうじんだの伊吹大神いぶきおおかみだのと呼ばれましたが、よもや現在にまでその名が伝わっているだなんて……それとも、その話もあの子から聞いてきたのかしら? 一条……いえ、茨木から」


 伊吹守さん……いや、伊吹童子から想像していなかった名前がまた出てきた。

 一条さん改め、茨木さん……そこまで聞くと『何故彼女が一条を名乗ったのか』が何となく分かる気がする。そういう伝説が確か残っていた筈だ……


 つまり俺が話を聞いていた一条さんもまた、伝説の茨木童子いばらきどうじだった……のだろう。あの怪力も素早さも、そういう話なら何となく納得できる。


「さて、あまりダラダラと話をしていても仕方がありません。先程も申し上げた通り私は貴方の魂に興味があるのですが、私の持ち場に侵入してきた報いとしてそのまま奪っても構いませんし、貴方が差し出しても構いませんよ、どうなさいますか?」


「ケ、ケン……! ダメだ、ケンにふれるニャ……! ケン、にげて……!」


「お黙りなさい。貴方は後でじっくりと片付けて差し上げますから、そこで大人しく見ていることね」


 ……今になって、俺の体は死への恐怖に震えが止まらない。しかし、心の奥底では何となく諦めかけてしまっている自分もいる。俺は死にたいのか死にたくないのか、考えがグチャグチャになってしまって……

 くそ、俺は死にたいとは思っていても『自分の意に沿わない形で死にたい』とは、これっぽっちも思っていないんだ。こんな形で死ぬのは絶対に嫌だ……!


 な、何とかして、この場を切り抜けるしかない――!


「そ、そうだ。俺には茨木童子がバックについている。俺に何かあったら茨木童子がすぐに駆けつけて守ってくれると約束しているんですよ。貴方だって彼女と対立などしたくないでしょう?」


 当然、その場しのぎの嘘だ。一条さんがもし本当に茨木童子なら、その名前は多分抑止力になりうる。この場を切り抜けられるなら、何だって使ってやろう……


「一体何を仰るかと思えば。茨木がフール・・・などの話をまともに聞く訳が――」


 嘲弄を込めた笑い声を漏らし、伊吹童子が俺の嘘を暴き立てようとしたその時――


「おい伊吹、そいつはウチが先に目ェ付けとったんや。横取りはナシやで」


 聞こえる筈のない声に続いて、いる筈のない一条さん――茨木童子が、腰の抜けた俺の背後に立っていた。

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