ヲタクの乙羽さん ――結城晴朝の黄金伝説――
和久井 葉生
プロローグ
ボタンの君
四月。
辛かった受験勉強から解放され、今日から花の女子高生。
青春を謳歌しようと乗り込んだ電車は、これまで経験したことのない圧力が四方八方からかかってきて、その圧力は駅に停まるごとに増していく。
『希望』で満たされていた小さな胸は、すぐに『不安』にすり替わってしまった。
一度その体勢になったら最後、身動きひとつできず、無理に動こうとすればジロリと睨まれた。
修行のような苦痛に耐え、ようやく主要な駅に停まった。
すると浴槽の水を抜いたように、電車から人が吐き出されていく。
まだ降りる駅ではなかったけれど、排水溝へと流れていく水のように、抗う術もなく降りたくもないのに電車から吐き出されてしまった。
波に逆らい電車に乗り込もうとするが、人の波は荒れ狂う大海原のようで、容易に電車にたどり着けない。
『第一印象は大事』と、いつもより早起きをして気合を入れて髪をセットしたのに、学校に着く前にすでにボロボロだ。
でも、くじけている場合じゃない。
入学初日、遅刻するなんて絶対にイヤ!
けれど、無情にも発車のベルがなり、ドアがプシューという音を立て容赦なく目の前を遮る。
もうダメか……、そう思ったその時――。
グイッと腕が引っ張られた。
そして、目の前で閉まるはずのドアが背後で閉まった。
電車がゆっくりと進み出し、少しずつスピードが増していく。
初めての通勤ラッシュの洗礼をうけ、頭がマヒしていたせいか、何が起こったのかすぐに理解することが出来なかった。
本来なら見送るはずの電車に乗っていると気付いたのは、目の前に自分が通う高校の男子生徒の制服が目に飛び込んできた時だった。
きっと彼が同じ高校に通うよしみで助けてくれたに違いない。
ふんわりといい匂いが鼻をくすぐる。
背の高い彼の顔は見上げなければ見えず、お礼を言おうと顔を上げようとしたが、何かに髪を引っ張られて顔を上げることが出来なかった。
見れば彼の制服のボタンに髪が絡まっている。
「ごめんなさい。すぐに取ります」
慌てて髪をほどこうとしたけど、いじればいじるほど絡まっていく。
仕方なく髪を引きちぎろうとすると、それを遮る声が降りかかる。
「待って、引きちぎるならこっち」
とても優しく心地い声。
細くきれいな指がそっと髪に触れると、胸が小さくドキンと鳴った。
何をするんだろうと思う暇もなく、彼は絡まっているボタンを引きちぎった。
すると、それまで頑固に絡まっていた髪はウソのようにスルッとほどけ、ストンと私の手の中に彼のボタンが落ちた。
助けてもらっておきながらボタンを引きちぎらせてしまったことが申し訳なくて、何て言って謝ろうか考えていると、電車がガタンと揺れた。
電車に乗り慣れていないせいか、踏ん張りがきかずそのまま彼の胸に倒れこんでしまった。
「ふぎゃ」
なんとも可愛いくない声が漏れた。
ある意味『出会い』であり、もしかしたら淡く儚い恋へと発展していくかもしれないこの状況で、何故に私の口からカエルが潰れたような声がでた?
普通こういうシチュエーションなら『キャ』とか『アッ』とかでしょ!
と心の中で突っ込んでいると、クスクスクス……と、上からかすかに笑い声が聞こえてきた。
優しい声に、かすかに香るいい匂い。本来なら迷惑がられても仕方がないのに、自分のボタンをちぎってまで私の髪を大切に扱ってくれた。
絶対素敵な人に違いない。
それなのに……それなのに……終わった。
私の淡い恋心が儚く散ったその時、電車は駅につき、一斉に電車から人が吐き出された。
あっという間に人の波が彼との距離を広げていく。
慌てて探したけれど、この群衆の中から顔も見ていない相手を探すのは到底無理。
そう言えばお礼をちゃんと言えてなかったことに今更気付き、どんよりとした後悔の念が頭をもたげる。
きっと同じ電車だから明日も会えるだろう。その時にちゃんとお礼を言おうと思ったところで、彼の顔が分からないのに探せられるわけもない。
ただ一つ分かっていることは、同じ高校の男子生徒というだけだ。
けれど、電車から降り出たホームには、自分が通う高校の制服を着た男子生徒は眩暈がするほどたくさんいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます