忘却治療

陣ちとせ

忘却治療のハウツー

 忘却治療をはじめて20年が経った。忘却治療は言葉通り、記憶を消去する治療だ。もともとはPTSDなど、重度の精神疾患のみに適用していたが、患者の経過が良好だったこと、記憶移管先の受け皿の供給体制が整ったこと、そして昨今流行り始めた記憶の新陳代謝という忘却ブームから、軽度の精神疾患――こちらから見ると小さな悩みでさえも――についても忘却治療が可能になった。ただ、重度の精神疾患でないと保険は下りず、治療費の負担は大きい。しかし、費用対効果が高いと評価する声は多く、セラピーと同じような感覚で治療を受ける患者は後をたたない。


№960 浅井みこと(29・女)

【消去したい記憶】婚約から婚約破棄に関する記憶

【該当期間】❜95年4月23日~❜96年9月3日(うち、450時間相当)

【想起媒体】デイリームービー

【情報共有】当人

【備考】修復レベル:高


 当院は銀座という土地柄もあってか、重症患者よりも恋愛絡みの相談が半分を占める。多くは衝動的な来院なので、忘却治療をする必要があるのか見極めるために時間をかけてカウンセリングを続け、情緒が安定してもなお忘却を望む場合のみ治療を行う。カウンセリングの過程で他のパートナーが出来るなど別の楽しみを見つけて治療が不要になることが多い。

 浅井みことは1年前からカウンセリングを行っている患者だった。結婚式の準備を進めている中で、婚約破棄は突然のことだった。きっかけはありきたりで、パートナーの浮気だった。彼はつい出来心だったと許しを請いていたようだったが、複数人・複数回にわたって不貞行為がなされていたことが発覚し、彼女は婚約破棄を決意した。

 はじめはパートナーと出会ってから、婚約破棄に関する周囲への報告が終わるまでの忘却を望んでいたが、長期間の忘却は同時期の他の記憶への影響が避けられないこと、1カ月以上の入院が必要でかなり高額になることを説明した。期間を絞り込むことに対し、はじめは渋っていたが、忘却後の記憶修復度を高クオリティなものに変えることで合意した。


 忘却治療は場合によっては精神病を引き起こす可能性があった。それは、忘却治療には記憶想起という、該当の記憶を思い出すという過程が必要だからだ。デジタルデータのように記憶に名前が付いていればそれを探し当てて削除すれば良いのだが、今の科学では記憶想起ベースでしか記憶を抽出することしかできなかった。忘却治療は記憶想起後に脳に電気刺激を与え、記憶の受け皿へ再固定させる。今回のように単発ではない記憶の場合は、記憶の混乱が発生しないよう、新しい記憶から消し、修復しながら進めていく。かなりショッキングな出来事は日常のなかではトリガーさえなければ思い出さない記憶なので、無理やり思い出させることで神経衰弱に繋がることも少なくない。

 記憶想起のためのツールとしては、昔は写真や日記が一般的だったが、忘却治療が広がってから、デイリームービーが定着している。デイリームービーとは目元や耳元に小さなワイヤレスカメラ・マイクを埋め込み、生活を常に記録するものだ。個人情報保護の観点などで、デイリームービーの第三者への展開は法的機関・医療機関での利用のみに限られている。曖昧な記憶を抽出するのはかなり時間がかかるので、デイリームービーの登場で医師としては作業しやすくなったものの、リアルな映像と音声を見るのは、患者自身も、正直なところ私自身も辛いものがある。


 ついに、浅井みことの治療の時が来た。思わず、大きくため息をついてしまう。

「やっぱり、何年たっても気が進みませんよね」

 ベテランの看護師が背中を丸める私に優しく声をかけてくれる。

「恋愛沙汰でも気が滅入るよ。あと何年かで忘却治療はやめようかなと思ってる」

「それ、たぶん15年前もおっしゃってましたよ。浅井さんは治療室にもう来ていて、同意書も記入完了してます」

 ありがとう、と会釈をして、治療室に向かう。足取りは重い。

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