掬いの手
ローテーブルの上に広げたノートに、細かな文字がびっしりと記されている。
本日の相談で字宮叶恵が語ったことを書き取ったものだ。
語りの場ではメモを取るでもなくただ記憶に刻み、相談者たちが帰った後に真乎が自動筆記よろしく一気呵成に書き綴ったものだ。
書き終えると真乎はそのままテーブルに突っ伏して眠ってしまった。
片付けものをしていた沙綺羅は、真乎の肩にブランケットをかけると、開いたままのノートをそっと手にとると目を通し始めた。
――ここに越してきたのは、夫の親無き後の実家の片付けのためでした。一軒家というのは、その住人の痕跡が積もり積もってできているのです。片付けても片付けてもすっきりしないと思っているうちに、私はすっかり倦みはてていました。
日の浅い友との会食も、夫とのゆるやかな小旅行も、新鮮な食材を求めて移住してきたシェフの素朴ながら洗練された美味しい食事も、たまに泊りがけで出かけての華やかな観劇も、宝飾で着飾ることも、こちらでの生活が長くなるにつれて心が動かなくなっていきました。
暮らしにも夫にも不満はありませんでした。
それなのに、膝回りが寒いのです。
重石がないと、浮いてしまいそうな、虚しさと寒さ。
迷い込んできた猫を膝に載せてみたのですが、動物を室内に入れることを嫌う彼が、猛烈な剣幕で追い払ってしまいました。
それ以来、猫は寄りつかなくなってしまいました。
そんな中、私は、久しぶりに絵筆を持って描くことを再開しました。
若い頃、絵を描く仕事をしていたのです。
小さな公募展に入選して、それを見た町役場から町のPR誌の挿絵を頼まれた時のことです。
担当者は三十代半ばのショートカットの似合う溌剌とした女性で、グレーのパンツスーツに紺とシルバーの幾何学模様のシルクスカーフを合わせて上品に着こなしていました。
上司の観光課の課長と三人で打合せをするたびに、私の絵を褒めてくれ、気おくれする私に、遅くはないから本格的にイラストの仕事をされたらいいですよと言われて、その気になったものです。
その彼女に、友人が化粧品メーカーに勤めていて試供品をよくもらうのだと、香水のミニボトルをいくつもテーブルに並べてお好きなのをどうぞと言われてことがありました。
その日は、上司は会議で彼女と二人で応接室で向き合っていました。
午後の陽ざしに凝ったつくりのボトルに光が反射してきれいでした。
私は思わずスケッチしていました。
彼女は不思議そうに私の様子を見ていました。
書き上げた絵を見て彼女は、ひとしきり感心してから、「では、こちらをプレゼントします」と言いました。手渡されたのは、バーンブラウンのシックな丸みを帯びたボトルでした。
鼻を近づけてみると、深い蠱惑的な香りがしました。
彼女の香りではありませんでした。
彼女は、自分にはまだ早いけれど、いつかふさわしくなりたいと言いました。
私は、その声が熱を帯びていたのを感じていました。
「ありがとうございます。たいせつにします」
私は努めて穏やかに言うと、席を立ちました。
それきり、です。
私は、その記憶を時々胸の奥から取り出して、プレゼントされた香水をほんの少し手首につけて、アンバーシックな匂いに酔いました。
何もなかったからこそ、深く甘く沈んでいる思い出です――
ノートの文字はそこで終わっていた。
整合性の感じられない部分があるのは、言葉の出るがままに語るようにしてもらっていたからだ。
自分の頭の中でうまくまとめてしまうのではなく、
そこから先は、歓談タイムの紅茶を運んできた沙綺羅も聞いていた。
「私は、二つ、自分を偽っていました」
字宮叶恵が言った。
翠埜真乎はまばたき一つせずにやわらかな視線を注いでいる。
「一つは、好きな仕事を諦めるのに、自分はそれより大切なもの、そうですね、家庭とか、そういったものがあると思いこませたこと」
叶恵はそこで言葉を区切ると、両手をぎゅっとにぎり合わせて、思いきるように言葉を継いだ。
「もう一つは、好きな人を諦めるのに、自分はそれを友情だと思いこませたこと」
叶恵の夫字宮節佐はひと言も口をはさまず叶恵の話を聞いていた。
そして、一緒に紅茶を飲んで、そこで語られたことには触れずに叶恵の体調だけを気遣いながら、彼女を連れて帰っていった。
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