卒膝
「叶恵さん、それ何」
いつも無関心な連れ合いが、リビングのローテーブルに置いた猫ちぐらを見て言った。
「猫ちぐら」
「中に入っているもののことをきいているんだけど」
「石よ。重石かな」
「粘土の塊みたいに見えるけど」
「粘土質の石なの」
「何に使うの」
「猫の寝床ですって」
「石でいっぱいになってるよ、猫入れない」
「石は出すもの、使う時に」
出してどうするの、とは連れ合いはきいてこなかなかった。
「うちには猫いないけど。まさか、野良猫を入れるわけじゃないよね」
「入れませんよ。インテリアにしようと思って」
苦しい言いわけだったが、連れ合いは納得したようだった。
「なんかぼろぼろだね、それ。ほこりっぽそうだから、置く場所に気をつけて、叶恵さん」
そう言うと連れ合いは二階の自室に戻っていった。
叶恵は若い頃にイラストレーターをしていた。
メーカーに7年勤務した後フリーになった。
連れ合いと出会ったのは仕事を通してだった。
連れ合いは中学の美術教師だった。
職業体験講座で社会人講師として呼ばれたのが卒業生の叶恵だった。
中学生たちにイラストレーターという仕事はかなり魅力的だったらしく、叶恵の講座は大人気だった。
赴任したてで美術部の顧問をしていた連れ合いは、美人で若々しい魅力的な年上の叶恵に一目惚れだったらしい。
最もそういった外見的なことだけでなく、新人で右往左往している連れ合いを叶恵がさりげなくフォローしてくれたのもうれしかったのだ。
指導教員はついていたものの、中学校の教員は常に忙しく新人の面倒を積極的にみてくれる教員はいなかったのだ。
叶恵は教員ではなかったが、教職免許をとるのに教育実習に行ったことがあったので、指導計画の立て方など基本的なことで覚えていたことを伝えた。
比較的時間の融通がきく叶恵は、連れ合いの相談に乗ることが増え、いつしかつきあうようになっていた。
一回り近く年上だというのは、なんの障害にもならなかった。
それでも、結婚を申し込まれた時は、叶恵は躊躇した。
業界の職業柄、性別や年齢の開きをものともしないカップルは多かったし、年下というのも珍しくはなかった。
しかし、一回り近いとなると、あまりいなかった。
うらやましがられるというより、心配される組み合わせと見られる。
それは、叶恵もそう思っていた。
出会って半年もしないうちに二人は籍を入れた。
式も披露宴もしないで、結婚報告のカードを送ってそれでよしとした。
一年ほどは二人の生活を楽しむ余裕はあったが、叶恵の仕事が忙しくなり体調を崩し仕事を控えるようになってすぐに子どもに恵まれた。
イラストレーターをしながら家庭を維持するうちにエネルギーは全て無くなった。
生活をやめるわけにはいかないので、イラストレーターをやめた。
それでいいと思っていた。
ずっと。
それでも、いつか描こうと思ってはいた。
叶恵の作風を気に入ってくれていたクライアントからは、もう描かないのかと催促されることもあった。
うれしくはあったが、作品として仕上げるまでの気力が追い付かなかった。
手が忘れないように筆を走らせもしたが、生活に紛れていつしか描かなくなっていった。
叶恵は、それをとくに惜しいとも思わなかった。
子どもが中高一貫の全寮制学校へ進学し家を離れてから、ようやく仕事に復帰しようと思っていた頃、連れ合いが倒れた。
連れ合いは激務で心を病んで半年ほど休職した後職場復帰したものの、職種ではなく職場が合わなかったのか、連れ合いはしばらく働いてからまた休職した。
叶恵のそっと見守る日々が始まった。
連れ合いは一日中自分の部屋のある二階とリビングを行き来し、神経を尖らせ、少しでも自分の目の届かないものを見つけると執拗に追及する。
かと思えば、気分のいい日には陶芸教室にいそいそと出かけ、仲間内での評判に一喜一憂しながらも外では楽しくやっているようだった。
診療先からは、楽しめることはやった方がいいと言われていたので、叶恵は納得して送り出していた。
教育学部で学んだ連れ合いは、美術専門ではあるがそつなくこなすのは得意でも、心をざわつかせるような作品をつくることはなかった。つくらなかったのか、つくれなかったのかはわからない。
帰ってくると、周りに気を遣い過ぎて疲れたと不機嫌になって、用意した食事もとらずに寝てしまうこともあった。
休職する前の連れ合いは、若いに似合わぬ尊敬できるいい人だったが、そうであるがゆえに叶恵は遠慮がちに接してきた。自分の方がずい分年上だというのも引け目に感じていた。
どうしてもと強引に結婚を望んだのは連れ合いの方だったが、それでも世間の目はいつも叶恵をさいなんだ。
傍目には慎ましやかな穏やかな家庭に見えただろう。実際そうだった。
連れ合いが病を得るまでは。
お互いに歩み寄って慎ましやかに和やかに暮らしてきたのに、と叶恵はため息をついた。
気まぐれの度が過ぎる連れ合いの変わりように、病で苦労したからだと叶恵は自分に言い聞かせてきた。
完全に変わったのではなく、まだらにいい人と神経質な人が突発的に入れ替わる連れ合いのそばにいるのは、気が休まらなかった。
叶恵はソファに腰掛けると、猫ちぐらを膝に置いた。
かつて、叶恵の膝の上は、いつも人気があった。
連れ合いが耳かきをねだって、うたた寝をねだって、子どもは膝で安心したくて、親戚から預かっていたよそのうちの孫は遊んで欲しくて、それぞれに無邪気に叶恵の膝を求めてきた。
それが、ただうれしかった。
けれど、だんだん自分の時間をとられている気がしてきて、そろそろ卒膝して欲しいと思うようになっていったのも事実だった。
ところが、卒膝が叶って自由になった途端に、膝の上に無邪気にのってくるくるものがいなくなった途端に、叶恵は力が抜けてしまったのだった。
さらに連れ合いが体調を崩すという予想外のことが起こったこともあり、叶恵は自分でも気づかぬうちに混乱していたのだ。
気力が萎えてしまって、起き上がって座っているのもやっとのありさまだった。
だから、あやしげな男から、猫ちぐらを、存在が不穏な妖怪の子がおさまっている猫ちぐらを、普通でないものを、命の重石にと思い惹かれて買ったのだ。
でも、このまま家に置いておいたら、連れ合いに勝手に捨てられてしまうかもしれない。
確かに室内に置いておくには汚れ朽ち過ぎている。
「一刻も早くきれいに整えて、顔を描いてインテリアとして自然なものにしないと」
叶恵は、画材を求めに家を出た。
リビングのローテーブルに猫ちぐらは置かれたままだった。
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