8

 贄を自称する青年はヴィヴィアンに近づく。

 ヴィヴィアンは凍りついたように動けない。――五感が青年に吸い寄せられていく。

 皮肉まじりの言葉を発する唇に。露わになったその喉に。引き締まった長い手足に。熱い心臓が新鮮な血を送り出す、その体。健康で強靭な皮膚は、ひどく甘美でかぐわしい。

 そこに歯を突き立て――。


「ははっ! いまにも涎を垂らしそうな顔をしてるぜ、


 嘲笑う声が、ヴィヴィアンの耳をつんざいた。


「……!!」


 屈辱のあまりかっと頬が熱をもち、頬を打たれたような痛みすら覚える。同時にざあっと全身から血の気がひいていき、ヴィヴィアンは手の甲を口に押し当てた。

 立ち上がり、後じさる。


「出て、行って! 早く……っ!!」


 叫んだ声は、まるで悲鳴のようだった。

 ヴィヴィアンは椅子から立ち上がり、震える足で後退する。目眩がする。唾液がこみあげる。

 もう一歩、あともう一歩と後じさって、足がもつれた。

 転倒する。

 なんとか両手をついて上体を起こすと、気配が降った。


「吸えよ」


 青年は冷ややかに言った。冷たく、青白く光る目が見下ろしている。


 ヴィヴィアンは肺を病んだ老人のような息をし、握った両手に必死に力をこめた。だがそれは情けないほど痙攣けいれんし、“飢え”が一瞬ごとに悪化していることを知らしめる。


「い、や……出て、いって!」


 激しい拒絶をのせた声は、だがかすれてひび割れた。

 ――やがて唾液がこみあげ、口内に溜まりはじめる。

 かすかな目眩がする。体が細かく震え出す。


 青年が一歩、近づく。その気配を、ヴィヴィアンの研ぎ澄まされた神経は感じ取る。


「抗うなよ、


 軽蔑。暗い笑いを孕んだような声。

 顔を見なくても、青年はこちらを蔑み見下ろしているとわかる。

 だがヴィヴィアンに怒りはわかない。

 喉がひくつく。

 青年からとほうもない薫香が漂ってくる。


 甘い甘い肌の匂い――体温を帯びた皮膚、その下に流れる熱い血潮を想像する。まるで温められた美酒だ。何よりも紅く、どんな美酒にも真似しえぬ鉄の味。生命の液体。


 唾液が口の端からこぼれそうになる。

 砕けそうになるほど奥歯を噛み、唇を強く閉ざして耐える。


 ――出て行って。

 見ないで。

 近寄らないで。

 早く、と腹の底からの叫びは、だが獣のようなうなりに変わっただけだった。


 青年の一挙手一投足を逃すまいと、鋭敏になった感覚がすべてそこへ絞られる。ヴィヴィアンの意思とは関係なしに体が反応している。

 その聴覚が、衣擦れの音を鮮やかに拾った。


「ほら」


 青年が、襟を開いたらしかった。

 研ぎ澄まされた嗅覚に、肌の匂いが強くなる。青年が膝を折る。


 ヴィヴィアンは、ぎゅっと内臓を引き絞られるような感覚に襲われた。空っぽの体が悲鳴をあげているようだった。


 ――欲しい。


 滑らかな肌に歯を立て、破り、その下に流れる生命の潮をすすりたい。

 彼の血は、きっと舌を刺すような熱さで酔わせてくれるだろう。

 唾液が嚥下しきれぬほどこみあげてくる。体の震え。目眩。飢えが理性を侵蝕する。

 ヴィヴィアンは激しくかぶりを振った。


「いや……っ!」


 立ち上がる力さえないまま、獣のように這いつくばる。

 青年がすぐ側で膝を折る。

 嘲笑うように、ヴィヴィアンに手を伸ばした。

 熱い手が頬をつかんだ。


「っ、触らな……!」


 ヴィヴィアンは顔を歪め、青年の手を振り払おうとする。だが、唇のすぐ側にある青年の手のひらに、肌の匂いにぐらっと頭の中が揺れた。

 甘く芳醇な――この上なく美味な――。


「あ、あ……っ」


 口内に軋む音が響き、頭蓋の中で反響する。

 一対の犬歯が伸びていく。

 肌に突き立てろと、異形の血が叫んでいる。


(ジュリアス……!)


 心の中で、すがった。涙が溢れた。もうあの戦いの場ではないのに、人間に戻ったはずなのに、いまここで血を吸ってしまったら。


 涙で滲んだ視界に、青年の笑みが映った。

 なぜか、これまで一度も見たことのないような、甘い毒のような優しい微笑だった。頬をつかんでいた手が離れた。

 そして突然、ヴィヴィアンの体は傾いだ。

 青年の腕の中に閉じ込められ、逞しい肩越しに闇を見た。


「俺はあんたの贄だ」


 不気味なほど優しい声が耳元で響く。

 緩められた襟から肌がのぞき、それはヴィヴィアンのすぐ目の前にあった。

 青年の大きな手が、優しく、けれど静かに抑えつけるようにヴィヴィアンの後頭部を覆う。


 世界が大きく揺れる感覚。甘く温かな香り。喉が痙攣する。

 ――ヴィヴィアンは自分の悲鳴を聞いたような気がした。


 だがすべては瞬く間に薄い靄の中に隠れ、ただ頬の濡れた感触だけがあった。


《血塗れの聖女》は顔を上げる。贄の首筋は、まるで子供の口の前に匙をもっていくかのごとくそこにあった。


 彼女は口を開いた。

 牙は、跳ね返すような弾力を持つ皮膚を破って沈んでいく。

 そこから熱く赤いものが流れ込んできたとたん、震えるような快楽がはしった。


 甘い。あまりの芳醇さ、豊かさ、体を巡る快い感覚に没頭する。これほど美味なものがあるのか。


 乾いて冷たかった体に火が回り、熱く潤み、澱んでいた精神が高揚しはじめる。仮死状態にあった心身が目覚めてゆく。

 深い陶酔と充足、愉悦にヴィヴィアンの意識は急速に埋没していく。


 は、と青年が息を吐き出す。


「あんたは、俺の――」


 声はかすれ、息が乱れる。己の血を奪う女を抱いたまま、青年は腕に力をこめ続けた。


 ――俺のものだ。

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