一声惚れ
ライト
前編
十一月某日。
私はその声に心を奪われた……。
❑ ❑ ❑
「いらっしゃ〜い」
何時も明るい声で私を迎え入れてくれる美容院のオーナーさん。
ガラスの扉を開けると入口付近に観葉植物が置かれている。確か私より小さかった筈なのに、今は見上げないと一番上が見えない。
中に入ると何時もと違ういい香りが鼻に届き、気持ちを華やかにしてくれた。
「叔母さん、こんにちは!」
「あら、舞ちゃん。久しぶりね」
「休業なのに、いらっしゃいって言うのね?」
「ふふっ、癖ね」
この美容院のオーナーは私の叔母さん。
最近ご無沙汰してたんだけど、久しぶりにやって来た。
何やら仕事をしていたようだけど、手を止めて私に近づいてきた。
「ご無沙汰してます!」
「本当よ〜。髪、かなり伸びたんじゃない?」
そう言葉にして、私の髪を触る叔母さん。
「そうなの。何年伸ばしたかな? 久しぶりに短く切っちゃおうかと思って」
── 叔母さんの目が光って見えたのは気のせい?
「あら、私の腕がウズウズしてきたわ。右手が髪を切りたくてしかたないみたい」
「やだ叔母さん。ちょっと怖いわよ……」
「ほほほっ、冗談よ。それより、いい香りがするでしょ?」
「うん! お店に入った時にすぐに気付いたわ。お香でも焚いてるの?」
「ふっふっふっ、ハズレよ。──アロマよ、アロマキャンドル!」
── 叔母さんの口から、アロマキャンドルなる単語が出てくるとは……。
ふと気付くと二歩下がっていた。
「あんた驚き過ぎじゃない? まぁ、貰い物なんだけどね」
詳しく訊くと、知り合いの知り合いに安い生命保険があると聞いたらしく、昨日早速営業マンを店に呼び出したそうだ。
話を聞いたら本当に安かったのだろう、営業マンを呼んだその日に生命保険の会社を鞍替えしたらしい。
「本当に安くて、私もビックリしたのよ。──でね、来てくれた営業マンがこれがまた色男でねぇ」
始まった……叔母さんの色男話。
叔母さんが云う色男をX《エックス》と置き換えて方程式に当てはめると、=Y《ワイ》はいつも中の下。私とは全く好みが合わないの。
「その色男が、良かったら使って下さいって置いて帰ったのよ。お洒落でしょ?」
「あの〜、叔母さん? 髪、切ってもらえる?」
「はっ!? また私はお喋りに夢中になって……。駄目ね〜年寄は」
いつもはアルバイトの女の人がいるんだけど、今日は叔母さん一人。いつも混んでるから、お店が休みの時にアポ無しで飛び込むの。
もし、いきなり店に来て叔母さんが居なったり、用事で忙しいと言われた時は、今は切り時ではないと早々に引き上げることにしているの。
アポ無しは姪っ子の特権ね。
歩く叔母さんの後に続くと、三つ並んだ椅子の真ん中に誘導された。
そして、座った直後に叔母さんに相槌を入れる。
「どこが年寄なの? 叔母さんの歳でそれだけの美貌の人は中々いないわよ」
「あら! 二十三にもなると、お世辞が上手くなるのね。──確かこの間のクーポンが引き出しに残ってたような……」
── やった〜、クーポン券を獲得!
でも冗談抜きで、叔母さんはとても綺麗な人。若い頃にその美貌にやられた男共が、民間のファンクラブを立ち上げたとかどうとか……。
叔母さんは、仕事をする時は何時も表情が変わる。オンとオフの切り替えがハッキリとしていた。話が上手く、それでいて手際がいいので人気がある。
今では予約を取るのも難しい、人気急上昇中のお店だ。
私の首にクロスを巻き、長くなった髪を触りだした。
「綺麗な髪ね……黒くて艶があって。はぁ、羨ましい……。それで、短くってどれくらい?」
「私の顔に似合うくらいで」
「また、職人魂に火を付ける様なこと言って!」
そんなやり取りをしながらも、もう目は真剣そのもの。恐らく頭の中では、イメージが出来上がっているのだろう。
まだ髪を切るでもなしに、冗談を言っている、
「舞ちゃんは、美人だしスタイルも抜群。服のセンスもバッチリで、胸もそこそこ」
「叔母さんの胸には敵わないわ……」
鏡越しに見える叔母さんが、胸を突き出し幾分喜んでいる様に見える。
「冗談はここまでよ。よし! 切るわね。じゃあ、目を閉じて〜」
「は〜い、お願いしま〜す」
目を閉じさせるのは、叔母さんの思いやりだ。今の自分にさよならして、目を開けた時には新しい自分で出発出来るようにってことらしい。
叔母さんが手に持った
最後に目を開けた時に何時も思う。
切られて落ちている髪が、綺麗に切ってくれてありがとうと言っているんじゃないかって。
── そんな訳ないよね……。
「舞ちゃんは前の彼氏とまだ付き合ってるの?」
「もうとっくに別れちゃった」
髪を切る手を休めるとこなく、お客の相手をする。こういうところが、人をこの店に寄せ付ける叔母さんなりのテクニックなんだろう。
叔母さんと話をしていても全く飽きない。人から話を引き出すのが上手なんだと思う。
話上手は聞き上手、とはよく言ったものだ。
「別れちゃったんだ、まぁまだ若いもんねぇ。いいなぁ、叔母さんも恋愛したいわ」
「叔父さんと凄く仲がいいのに?」
「ふふっ、冗談よ。さあ、カットは終わり。洗髪するわよ」
魔法の手で頭を擦る。これはいつも寝ちゃいそうになる。
── 気持ちいい〜……。
洗髪の次はドライヤーで乾燥させる。それが終わるとザッと櫛で髪をとぎ、今度は仰向けに。
「ちょっと熱いわよ」
電子レンジでチンしてるかは知らないけれど、少し熱めのタオルを目元に被せられる。これがまた気持ちいい。
── はぁ〜幸せ……。
その時だった。
「失礼します!」
その声を聞いた瞬間、心臓がいきなり大きな音を立て、血液の流れが早まり身体の中を巡っていくのが分かった。
そして、手足の先から徐々に体温が上がっていくのが感じられる。
── 何? この感覚……。
「あら、保険のお兄さんじゃない。何か忘れ物?」
「いえ、近くを通ったもので。掛札が休業になってなんですけど、覗いたらお姉さんが見えたもので……あっ! この香り……」
「分かった? 昨日頂いたアロマを早速置いてみたのよ。大好評なのよ!」
── 大好評って、今日は私しか来てないじゃない!
「お店の雰囲気に合ってますね。喜んで頂けて良かったです!」
叔母さんがお兄さんと呼ぶその人が、声を発する度に私の血流が早くなる。
顔を観たい、話したい、もっと声が聞きたい、そう想えば想うほどに身体の底から熱くなっていく。
目に被せてあるタオルを取り、起き上がろうかと考えた。その刹那、さっきまで暖かかった手足の先から熱が引き、今度は冷たくなっていくのを感じる。
緊張と萎縮が身体を強張らせ、血流を限りなく遅くさせる。
お兄さんの声が耳に届く度に胸が締め付けられ熱くなり、タオルを取り起き上がろうとすると、手足の先から冷たくなっていく。
久しく感じていなかった、懐かしい感覚。
── これは……恋だわ! 私、お兄さんの声に恋してるの? コレって、一声惚れ?
「また伺います!」
お兄さんのその肥の後にドアが開く音が聞こえ、お兄さんの声が聞こえなくなった。
「ごめんね舞ちゃん」
タオルを取ってくれた叔母さんの顔が見える。
「あら? タオル熱かった? ん? もう冷えてるわよね? なんでそんなに赤い顔してるの?」
叔母さんにそう告げられ、跳ね起きる。
眼前の大きな鏡に映る自分の顔を見て驚いた。
「嫌だ、何コレ? タコさんみたいに真っ赤!」
恋する乙女の顔がそこにあった。
「もしかして、保険のお兄さんの声に惚れたな?」
違うと言いたいが、自分でもそう思っている。あの全てを包む優しい声に、完全に心を奪われた。
「顔も見てないのに、好きになっちゃったみたい……」
「やっばりね。あの子いい声してるもの。叔母さんもそんな経験あるなぁ……。いいわねぇ、若いって。どうするの? 私が連絡先教えようか? ──って、先に髪形の感想は?」
── そうだ……髪、切ったんだった……。
ふんわりとした前髪を残したショートヘア。分け目次第で、可愛くも大人に見せたりもできそうだ。
「か、髪は大丈夫。凄く気にいったわ」
「じゃあ、何が大丈夫じゃないの?」
「もう、叔母さんの意地悪……」
意地の悪そうな顔をしていたかと思うと、優しい顔に戻っていく。
叔母さんは私が求めていることが分かってるみたい。若い私の気持ちを分かってくれて、いつも共感してくれる……そんな叔母さんが私は好き。
「今度の日曜日に、彼を呼んであげるから午後三時にここにおいで」
嬉しい話の筈なのに、急に緊張してきた。もちろん男の人とのお付き合いは経験済み。でも、自分からアプローチしたことはない。
叔母さんに頼らないと、また会える確率なんてほぼ零。ここは素直にお願いした方がいいだろうなぁ……。
「叔母さん……、お願いします」
頭をペコリと下げると、叔母さんが優しく撫でてくれた。
「可愛い姪っ子の為なら、叔母さん何でもしちゃうわよ!」
❑ ❑ ❑
─ 土曜日 ──
明日は叔母さんのお店でお兄さんに会える。髪を切って帰った晩に、叔母さんから連絡が入った。
保険のことで聞きたいことがあるからと言って呼び出したらしい。
今は、明日の服を買いに街をぶらぶらしていて、赤信号に捕まって立ちん坊中。
── お洒落しないと。会ってすぐに嫌われるなんて悲しいもんね。
信号が青に変わるまでの間に、そんなことを考えていた。
ランプが青に変わり、無意識に右足から前に出した。頭の中は、お兄さん一色。
五歩進んだ所で、大きなクラクションの音が右の鼓膜を刺激する。
痛いくらいの音に耳を塞ぎながら、止むことのない音がする方へ目を向けた。目に飛び込んできた光景に頭が真っ白になる。
すぐそこに見える大きな壁。その壁に吸い寄せられる感覚に陥った。
── 私、死ぬんだ……。
そこからは全てがゆっくりと動いていた。壁がトラックだと認識し、逃げることも出来ない状況だと理解出来る程に。
時間にしてコンマ何秒なのだろう。
私には何秒にも何十秒にも感じられ、色んな記憶が脳内を巡っていく。
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