らいくきる
ちくわノート
1
「あ」
風呂に入ろうと服を脱いだ時だった。
胸に直径10センチ程の黒い穴が空いていたのを見つけた。
穴にそっと手を近づけてみる。いつもの皮膚の感触があり、穴の中に手が入っていくことは無かった。
聞いていた通りだ、と思う。
穴は実際に空いている訳ではなく、ただ単にそう見えているだけ。他人が今の僕の胸を見ても、穴が空いているという認知はできない。
洗面所の鏡に映る、自身の裸の上半身を観察した。
特に太っているだとか、痩せているだとか、筋肉がついているだとかいうことはなく、いたって普通の、平凡な体。普段と違うのはその胸の穴だけ。
僕は溜息をつき、風呂場のドアを開けた。
※
「俺、とうとう発症したわ」
「性病?」
「馬鹿」
僕がエロセンの頭を軽く叩くと、エロセンは大袈裟に痛がる素振りを見せる。
「おいおい、ケントはまだ童貞だぞ。性病なんかとは対極の位置に童貞のケントは立ってるんだ。童貞のケントが性病なんかかかるわけないだろ」
エロセンの横に立っていたタムラがそう言う。
「あの、童貞って連呼するのやめて貰えませんか」
「え? なんで? だってケント、童貞だろ? 童貞だよね? ケントが童貞っていうのは周知の事実だよなぁ。俺、何か間違ってる?」
「泣くぞ」
気がつくと、周りの女子が汚物を見るような目で僕らを見ていた。僕は慌ててタムラの口を閉じさせる。
「教室で童貞を連呼すんな!」
小声でそう注意して、水咲朝海の姿を探す。水咲とよく話をしている近藤と瀧は見かけたが水咲の姿は無い。どうやらまだ来ていないようで、胸を撫で下ろす。
「性病じゃないならなんだよ」
「らいくきる」
僕がそう言うと、納得したようにタムラは頷いた。
「お前もとうとう大人になったか」
「誤解を与える言い方はやめてほしい」
実際、思春期の男女がらいくきるを発症するのはおよそ98パーセントと言われており、この教室内でも発症してないやつはもう片手で数えられるくらいしか居ないはずだ。
「手続きとかもうやった?」
「まだなんも」
「何を消すかはもう決めた?」
一瞬、水咲の顔が思い浮かび、すぐに首を横に振る。
「なんも」
そのとき、教室のドアが開かれた。僕はすぐに誰が入ってきたのかわかってしまう。
彼女は笑顔で挨拶をする。
近藤と瀧が彼女の姿に気がついて手を上げた。
彼女は嬉しそうに近藤たちの元へ駆け寄る。
「来たぞ。愛しの姫君が」
「わかってる」
「話しかけに行かなくていいのか」
「いいって、別に」
「おや、姫君は今日、ポニーテールか」
思わず、彼女の方を向いてしまう。
彼女の、水咲朝海の姿を見た途端、僕の心臓は高鳴り、目は彼女に吸い寄せられる。
栗色の髪、大きな目、形のいい鼻。全てが完璧だと思う。
水咲は近藤と瀧に話しかけ、笑顔を振りまいている。自分が近藤か瀧に生まれ変わり、水咲の笑顔を受け止められたらどれだけ幸せだろう、そう考えてしまう。
「あんな美人と幼なじみなんて羨ましいよな。俺んちも水咲の隣に建ってたら良かったのに」
僕はその台詞を聞こえなかったふりをして、タムラとエロセンに話しかける。
「らいくきるの申請書って、確か保健室で貰えたよな」
そう言って彼らが頷くよりも前に、僕は立ち上がり、水咲のいる教室から逃げるように飛び出した。
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