一〇
広田先生が病気だというから、三四郎が見舞いに来た。門をはいると、玄関に
「やあ、おいで」と言った。上の男はちょっと振り返ったままである。
「先生、失礼ですが、起きてごらんなさい」と言う。なんでも先生の手を逆に取って、
「なるほど」と言っている。
「あの流でいくと、むりに逆らったら、腕を折る恐れがあるから、危険です」
三四郎はこの問答で、はじめて、この両人の今何をしていたかを悟った。
「御病気だそうですが、もうよろしいんですか」
「ええ、もうよろしい」
三四郎は風呂敷包みを解いて、中にあるものを、二人の間に広げた。
「柿を買って来ました」
広田先生は書斎へ行って、ナイフを取って来る。三四郎は台所から
三四郎は
広田先生はまた立って書斎に入った。帰った時は、手に一巻の書物を持っていた。表紙が赤黒くって、切り口の
「これがこのあいだ話したハイドリオタフヒア〔*〕。退屈なら見ていたまえ」
三四郎は礼を述べて書物を受け取った。
「
「だって先生くらい余裕があるなら、少しは痛切に感じてもよさそうなものだが」と柔術の男がまじめな顔をして言った。この時は広田先生も三四郎も、そう言った当人も一度に笑った。この男がなかなか帰りそうもないので三四郎は、書物を借りて、勝手から表へ出た。
「
これはハイドリオタフヒアの末節である。三四郎はぶらぶら
子供の葬式が来た。羽織を着た男がたった二人ついている。小さい棺はまっ白な布で巻いてある。そのそばにきれいな
三四郎は人の文章と、人の葬式をよそから見た。もしだれか来て、ついでに美禰子をよそから見ろと注意したら、三四郎は驚いたに違いない。三四郎は美禰子をよそから見ることができないような目になっている。第一よそもよそでないもそんな区別はまるで意識していない。ただ事実として、ひとの死に対しては、美しい穏やかな味わいがあるとともに、生きている美禰子に対しては、美しい
曙町へ曲がると大きな松がある。この松を
玄関には美禰子の
描かれつつある人の肖像は、この
「やって来たね」と言ってパイプを口から取って、小さい丸テーブルの上に置いた。マッチと
「かけたまえ。──あれだ」と言って、かきかけた
「なるほど大きなものですな」と言った。原口さんは、耳にも留めないふうで、
「うん、なかなか」とひとりごとのように、髪の毛と、背景の境の所を塗りはじめた。三四郎はこの時ようやく美禰子の方を見た。すると女のかざした団扇の陰で、白い歯がかすかに光った。
それから二、三分はまったく静かになった。部屋は
静かなものに封じ込められた美禰子はまったく動かない。団扇をかざして立った姿そのままがすでに絵である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写しているのではない。不可思議に奥行きのある絵から、精出して、その奥行きだけを落として、普通の絵に美禰子を描き直しているのである。にもかかわらず第二の美禰子は、この静かさのうちに、次第と第一に近づいてくる。三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。その時間が画家の意識にさえ上らないほどおとなしくたつにしたがって、第二の美禰子がようやく追いついてくる。もう少しで
「また苦しくなったようですね」
女はなんにも言わずに、すぐ姿勢をくずして、そばに置いた安楽椅子へ落ちるようにとんと腰をおろした。その時白い歯がまた光った。そうして動く時の袖とともに三四郎を見た。その目は流星のように三四郎の
原口さんは丸テーブルのそばまで来て、三四郎に、
「どうです」と言いながら、マッチをすってさっきのパイプに火をつけて、再び口にくわえた。大きな木の
絵はむろん仕上がっていないものだろう。けれどもどこもかしこもまんべんなく絵の具が塗ってあるから、
三四郎が見ると、この絵はいったいにぱっとしている。なんだかいちめんに
「小川さんおもしろい話がある。ぼくの知った男にね、細君がいやになって離縁を請求した者がある。ところが細君が承知をしないで、私は縁あって、この
原口さんはそこでちょっと絵を離れて、画筆の結果をながめていたが、今度は、美禰子に向かって、
「里見さん。あなたが
「お気の毒さま」と美禰子が言った。
原口さんは返事もせずにまた画面へ近寄った。「それでね、細君のお
「それから、どうなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語るに足りないと思ったものか、まだあとをつけた。
「どうもならないのさ。だから結婚は考え物だよ。離合集散、ともに自由にならない。広田先生を見たまえ、野々宮さんを見たまえ、里見恭助君を見たまえ、ついでにぼくを見たまえ。みんな結婚をしていない。女が偉くなると、こういう独身ものがたくさんできてくる。だから社会の原則は、独身ものが、できえない程度内において、女が偉くならなくっちゃだめだね」
「でも兄は
「おや、そうですか。するとあなたはどうなります」
「存じません」
三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑った。原口さんだけは絵に向いている。「存じません。存じません──じゃ」と
三四郎はこの機会を利用して、丸テーブルの側を離れて、美禰子の傍へ近寄った。美禰子は椅子の背に、
三四郎は懐に三十円入れている。この三十円が二人の間にある。説明しにくいものを代表している。──と三四郎は信じた。返そうと思って、返さなかったのもこれがためである。思いきって、今返そうとするのもこれがためである。返すと用がなくなって、遠ざかるか、用がなくなっても、いっそう近づいて来るか、──普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びている。
「里見さん」と言った。
「なに」と答えた。仰向いて下から三四郎を見た。顔をもとのごとくにおちつけている。目だけは動いた。それも三四郎の真正面で穏やかにとまった。三四郎は女を多少疲れていると判じた。
「ちょうどついでだから、ここで返しましょう」と言いながら、ボタンを一つはずして、
女はまた、
「なに」と繰り返した。もとのとおり、刺激のない調子である。内懐へ手を入れながら、三四郎はどうしようと考えた。やがて思いきった。
「このあいだの金です」
「今くだすってもしかたがないわ」
女は下から見上げたままである。手も出さない。からだも動かさない。顔も元のところにおちつけている。男は女の返事さえよくは
「もう少しだから、どうです」と言う声がうしろで聞こえた。見ると、原口さんがこっちを向いて立っている。
「まだよほどかかりますか」と聞いた。
「もう一時間ばかり」と美禰子も小さな声で答えた。三四郎はまた丸テーブルに帰った。女はもう描かるべき姿勢をとった。原口さんはまたパイプをつけた。画筆はまた動きだす。背を向けながら、原口さんがこう言った。
「小川さん。里見さんの目を見てごらん」
三四郎は言われたとおりにした。美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。横を向いてガラス越しに庭をながめている。
「いけない。横を向いてしまっちゃ、いけない。今かきだしたばかりだのに」
「なぜよけいな事をおっしゃる」と女は正面に帰った。原口さんは弁解をする。
「ひやかしたんじゃない。小川さんに話す事があったんです」
「何を」
「これから話すから、まあ元のとおりの姿勢に復してください。そう。もう少し肱を前へ出して。それで小川さん、ぼくの描いた目が、実物の表情どおりできているかね」
「どうもよくわからんですが。いったいこうやって、毎日毎日描いているのに、描かれる人の目の表情がいつも変らずにいるものでしょうか」
「それは変るだろう。本人が変るばかりじゃない。
原口さんはこのあいだしじゅう筆を使っている。美禰子の方も見ている。三四郎は原口さんの諸機関が一度に働くのを目撃して恐れ入った。
「こうやって毎日描いていると、毎日の量が積もり積もって、しばらくするうちに、描いている絵に一定の気分ができてくる。だから、たといほかの気分で
原口さんは突然黙った。どこかむずかしいところへきたとみえる。
「里見さん、どうかしましたか」と聞いた。
「いいえ」
この答は美禰子の口から出たとは思えなかった。美禰子はそれほど静かに姿勢をくずさずにいる。
「それに表情といったって」と原口さんがまた始めた。「画工はね、心を描くんじゃない。心が外へ
原口さんは、この時また二足ばかりあとへさがって、美禰子と絵とを見比べた。
「どうも、きょうはどうかしているね。疲れたんでしょう。疲れたら、もうよしましょう。──疲れましたか」
「いいえ」
原口さんはまた絵へ近寄った。
「それで、ぼくがなぜ里見さんの目を選んだかというとね。まあ話すから聞きたまえ。西洋画の女の顔を見ると、だれのかいた美人でも、きっと大きな目をしている。おかしいくらい大きな目ばかりだ。ところが日本では観音様をはじめとして、お
答はなかった。美禰子はじっとしている。
三四郎はこの画家の話をはなはだおもしろく感じた。とくに話だけ聞きに来たのならばなお幾倍の興味を添えたろうにと思った。三四郎の注意の焦点は、今、原口さんの話のうえにもない、原口さんの絵のうえにもない。むろん向こうに立っている美禰子に集まっている。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、目だけはついに美禰子を離れなかった。彼の目に映じた女の姿勢は、自然の経過を、もっとも美しい
なるほどそう思って見ると、どうかしているらしくもある。
その時原口さんが、とうとう筆をおいて、
「もうよそう。きょうはどうしてもだめだ」と言いだした。美禰子は持っていた
「きょうは疲れていますね」
「私?」と羽織の
「いやじつはぼくも疲れた。またあした元気のいい時にやりましょう。まあお茶でも飲んでゆっくりなさい」
夕暮れには、まだ
「原口さんもそう言っていたが、本当にどうかしたんですか」と聞いた。
「私?」と美禰子がまた言った。原口さんに答えたと同じことである。三四郎が美禰子を知ってから、美禰子はかつて、長い言葉を使ったことがない。たいていの応対は一句か二句で済ましている。しかもはなはだ簡単なものにすぎない。それでいて、三四郎の耳には一種の深い響を与える。ほとんど他の人からは、聞きうることのできない色が出る。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がった。
「私?」と言った時、女は顔を半分ほど三四郎の方へ向けた。そうして二重瞼の切れ目から男を見た。その目には
「色が少し悪いようです」
「そうですか」
二人は五、六歩無言で歩いた。三四郎はどうとしても、二人のあいだにかかった薄い幕のようなものを裂き破りたくなった。しかしなんといったら破れるか、まるで分別が出なかった。小説などにある甘い言葉は使いたくない。趣味のうえからいっても、社交上若い
やがて、女のほうから口をききだした。
「きょうは何か原口さんに御用がおありだったの」
「いいえ、用事はなかったです」
「じゃ、ただ遊びにいらしったの」
「いいえ、遊びに行ったんじゃありません」
「じゃ、なんでいらしったの」
三四郎はこの瞬間を捕えた。
「あなたに会いに行ったんです」
三四郎はこれで言えるだけの事をことごとく言ったつもりである。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、いつものごとく男を酔わせる調子で、
「お金は、あすこじゃいただけないのよ」と言った。三四郎はがっかりした。
二人はまた無言で五、六間来た。三四郎は突然口を開いた。
「本当は金を返しに行ったのじゃありません」
美禰子はしばらく返事をしなかった。やがて、静かに言った。
「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」
三四郎は堪えられなくなった。急に、
「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。女は三四郎を見なかった。その時三四郎の耳に、女の口をもれたかすかなため息が聞こえた。
「お金は……」
「金なんぞ……」
二人の会話は双方とも意味をなさないで、途中で切れた。それなりで、また小半町ほど来た。今度は女から話しかけた。
「原口さんの絵を御覧になって、どうお思いなすって」
答え方がいろいろあるので、三四郎は返事をせずに少しのあいだ歩いた。
「あんまりでき方が早いのでお驚きなさりゃしなくって」
「ええ」と言ったが、じつははじめて気がついた。考えると、原口が広田先生の所へ来て、美禰子の肖像をかく意志をもらしてから、まだ一か月ぐらいにしかならない。展覧会で直接に美禰子に依頼していたのは、それよりのちのことである。三四郎は絵の道に暗いから、あんな大きな額が、どのくらいな速度で仕上げられるものか、ほとんど想像のほかにあったが、美禰子から注意されてみると、あまり早くできすぎているように思われる。
「いつから取りかかったんです」
「本当に取りかかったのは、ついこのあいだですけれども、そのまえから少しずつ描いていただいていたんです」
「そのまえって、いつごろからですか」
「あの
三四郎は突然として、はじめて池の周囲で美禰子に会った暑い昔を思い出した。
「そら、あなた、
「あなたは団扇をかざして、高い所に立っていた」
「あの絵のとおりでしょう」
「ええ。あのとおりです」
二人は顔を見合わした。もう少しで
向こうから車がかけて来た。黒い帽子をかぶって、金縁の
「今まで待っていたけれども、あんまりおそいから迎えに来た」と美禰子のまん前に立った。見おろして笑っている。
「そう、ありがとう」と美禰子も笑って、男の顔を見返したが、その目をすぐ三四郎の方へ向けた。
「どなた」と男が聞いた。
「大学の小川さん」と美禰子が答えた。
男は軽く帽子を取って、向こうから
「はやく行こう。にいさんも待っている」
いいぐあいに三四郎は追分へ曲がるべき横町の角に立っていた。金はとうとう返さずに別れた。
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