三四郎が与次郎に金を貸したてんまつは、こうである。

 このあいだの晩九時ごろになって、与次郎が雨のなかを突然やって来て、あたまから大いに弱ったと言う。見ると、いつになく顔の色が悪い。はじめはあきさめにぬれた冷たい空気に吹かれすぎたからのことと思っていたが、座について見ると、悪いのは顔色ばかりではない。珍しく消沈している。三四郎が「ぐあいでもよくないのか」と尋ねると、与次郎は鹿しかのような目を二度ほどぱちつかせて、こう答えた。

 「じつは金をなくしてね。困っちまった」

 そこで、ちょっと心配そうな顔をして、煙草の煙を二、三本鼻から吐いた。三四郎は黙って待っているわけにもゆかない。どういう種類の金を、どこでなくなしたのかとだんだん聞いてみると、すぐわかった。与次郎は煙草の煙の、二、三本鼻から出切るあいだだけ控えていたばかりで、そのあとは、一部始終をわけもなくすらすらと話してしまった。

 与次郎のなくした金は、たかで二十円、ただし人のものである。去年広田先生がこのまえの家を借りる時分に、三か月の敷金に窮して、足りないところを一時野々宮さんからようってもらったことがある。しかるにその金は野々宮さんが、いもとにバイオリンを買ってやらなくてはならないとかで、わざわざ国元のおやさんから送らせたものだそうだ。それだからきょうがきょう必要というほどでない代りに、延びれば延びるほどよし子が困る。よし子は現に今でもバイオリンを買わずに済ましている。広田先生が返さないからである。先生だって返せればとうに返すんだろうが、月々余裕が一文も出ないうえに、月給以外にけっしてかせがない男だから、ついそれなりにしてあった。ところがこの夏高等学校の受験生の答案調べを引き受けた時のあてが六十円このごろになってようやく受け取れた。それでようやく義理を済ますことになって、与次郎がその使いを言いつかった。

 「その金をなくなしたんだからすまない」と与次郎が言っている。じっさいすまないような顔つきでもある。どこへ落としたんだと聞くと、なに落としたんじゃない。けんを何枚とか買って、みんななくなしてしまったのだと言う。三四郎もこれにはあきれ返った。あまり無分別の度を通り越しているので意見をする気にもならない。そのうえ本人がしようぜんとしている。これをいつもの活発はつと比べると与次郎なるものが二人ふたりいるとしか思われない。その対照が激しすぎる。だからおかしいのと気の毒なのとがいっしょになって三四郎を襲ってきた。三四郎は笑いだした。すると与次郎も笑いだした。

 「まあいいや、どうかなるだろう」と言う。

 「先生はまだ知らないのか」と聞くと、

 「まだ知らない」

 「野々宮さんは」

 「むろん、まだ知らない」

 「金はいつ受け取ったのか」

 「金はこの月始まりだから、きょうでちょうど二週間ほどになる」

 「馬券を買ったのは」

 「受け取ったあくる日だ」

 「それからきょうまでそのままにしておいたのか」

 「いろいろ奔走したができないんだからしかたがない。やむをえなければ今月すえまでこのままにしておこう」

 「今月末になればできる見込みでもあるのか」

 「文芸時評社から、どうかなるだろう」

 三四郎は立って、机の引出しをあけた。きのう母から来たばかりの手紙の中をのぞいて、

 「金はここにある。今月は国から早く送ってきた」と言った。与次郎は、

 「ありがたい。親愛なる小川君」と急に元気のいい声で落語家のようなことを言った。

 二人は十時すぎ雨を冒して、おいわけの通りへ出て、角の蕎麦屋へはいった。三四郎が蕎麦屋で酒を飲むことを覚えたのはこの時である。その晩は二人とも愉快に飲んだ。勘定は与次郎が払った。与次郎はなかなか人に払わせない男である。

 それからきょうにいたるまで与次郎は金を返さない。三四郎は正直だから下宿屋の払いを気にしている。催促はしないけれども、どうかしてくれればいいがと思って、日を過ごすうちに晦日みそか近くなった。もう一日二日ふつかしか余っていない。間違ったら下宿の勘定を延ばしておこうなどという考えはまだ三四郎の頭にのぼらない。必ず与次郎が持って来てくれる──とまではむろん彼を信用していないのだが、まあどうかくめんしてみようくらいの親切気はあるだろうと考えている。広田先生の評によると与次郎の頭は浅瀬の水のようにしじゅう移っているのだそうだが、むやみに移るばかりで責任を忘れるようでは困る。まさかそれほどの事もあるまい。

 三四郎は二階の窓から往来をながめていた。すると向こうから与次郎が足早にやって来た。窓の下まで来てあおむいて、三四郎の顔を見上げて、「おい、おるか」と言う。三四郎は上から、与次郎をおろして、「うん、おる」と言う。このばかみたようなあいさつが上下で一句交換されると、三四郎はの中へ首を引っ込める。与次郎ははしだんをとんとん上がってきた。

 「待っていやしないか。君のことだから下宿の勘定を心配しているだろうと思って、だいぶ奔走した。ばかげている」

 「文芸時評から原稿料をくれたか」

 「原稿料って、原稿料はみんな取ってしまった」

 「だってこのあいだは月末に取るように言っていたじゃないか」

 「そうかな、それは間違いだろう。もう一文も取るのはない」

 「おかしいな。だって君はたしかにそう言ったぜ」

 「なに、前借りをしようと言ったのだ。ところがなかなか貸さない。ぼくに貸すと返さないと思っている。けしからん。わずか二十円ばかりの金だのに。いくら偉大なる暗闇を書いてやっても信用しない。つまらない。いやになっちまった」

 「じゃ金はできないのか」

 「いやほかでこしらえたよ。君が困るだろうと思って」

 「そうか。それは気の毒だ」

 「ところが困った事ができた。金はここにはない。君が取りにいかなくっちゃ」

 「どこへ」

 「じつは文芸時評がいけないから、原口だのなんだの二、三軒歩いたが、どこも月末でつごうがつかない。それから最後に里見の所へ行って──里見というのは知らないかね。里見恭助。法学士だ。美禰子さんのにいさんだ。あすこへ行ったところが、今度はでやっぱり要領を得ない。そのうち腹が減って歩くのがめんどうになったから、とうとう美禰子さんに会って話をした」

 「野々宮さんの妹がいやしないか」

 「なに昼少し過ぎだから学校に行ってる時分だ。それに応接間だからいたってかまやしない」

 「そうか」

 「それで美禰子さんが、引き受けてくれて、御用立て申しますと言うんだがね」

 「あの女は自分の金があるのかい」

 「そりゃ、どうだか知らない。しかしとにかくだいじようだよ。引き受けたんだから。ありゃ妙な女で、年のいかないくせにねえさんじみた事をするのが好きななんだから、引き受けさえすれば、安心だ。心配しないでもいい。よろしく願っておけばかまわない。ところがいちばんしまいになって、お金はここにありますが、あなたには渡せませんと言うんだから、驚いたね。ぼくはそんなに不信用なんですかと聞くと、ええと言って笑っている。いやになっちまった。じゃ小川をよこしますかなとまた聞いたら、え、小川さんにお手渡しいたしましょうと言われた。どうでもかってにするがいい。君取りにいけるかい」

 「取りにいかなければ、国へ電報でもかけるんだな」

 「電報はよそう。ばかげている。いくら君だって借りにいけるだろう」

 「いける」

 これでようやく二十円のらちがあいた。それが済むと、与次郎はすぐ広田先生に関する事件の報告を始めた。

 運動は着々歩を進めつつある。暇さえあれば下宿へ出かけていって、一人一人に相談する。相談は一人一人にかぎる。おおぜい寄ると、めいめいが自分の存在を主張しようとして、ややともすればをたてる。それでなければ、自分の存在を閉却された心持ちになって、しよから冷淡にかまえる。相談はどうしても一人一人にかぎる。その代り暇はいる。金もいる。それを苦にしていては運動はできない。それから相談中には広田先生の名前をあまり出さないことにする。我々のための相談でなくって、広田先生のための相談だと思われると、事がまとまらなくなる。

 与次郎はこの方法で運動の歩を進めているのだそうだ。それできょうまでのところはうまくいった。西洋人ばかりではいけないから、ぜひとも日本人を入れてもらおうというところまで話はきた。これから先はもう一ぺん寄って、委員を選んで、学長なり、総長なりに、我々の希望を述べにやるばかりである。もっとも会合だけはほんの形式だから略してもいい。委員になるべき学生もだいたいは知れている。みんな広田先生に同情を持っている連中だから、談判の模様によっては、こっちから先生の名を当局者へ持ち出すかもしれない。……

 聞いていると、与次郎一人で天下が自由になるように思われる。三四郎は少なからず与次郎の手腕に感服した。与次郎はまたこのあいだの晩、原口さんを先生の所へ連れてきた事について、弁じだした。

 「あの晩、原口さんが、先生に文芸家の会をやるから出ろと、勧めていたろう」と言う。三四郎はむろん覚えている。与次郎の話によると、じつはあれも自身のほつにかかるものだそうだ。その理由はいろいろあるが、まず第一に手近なところを言えば、あの会員のうちには、大学の文科で有力な教授がいる。その男と広田先生を接触させるのは、このさい先生にとって、たいへんな便利である。先生は変人だから、求めてだれとも交際しない。しかしこっちで相当の機会を作って、接触させれば、変人なりに付合ってゆく。……

 「そういう意味があるのか、ちっとも知らなかった。それで君が発起人だというんだが、会をやる時、君の名前で通知を出して、そういう偉い人たちがみんな寄って来るのかな」

 与次郎は、しばらくまじめに、三四郎を見ていたが、やがて苦笑いをしてわきを向いた。

 「ばかいっちゃいけない。発起人って、おもてむきの発起人じゃない。ただぼくがそういう会を企てたのだ。つまりぼくが原口さんを勧めて、万事原口さんが周旋するようにこしらえたのだ」

 「そうか」

 「そうかはでんしゆうだね。時に君もあの会へ出るがいい。もう近いうちにあるはずだから」

 「そんな偉い人ばかり出る所へ行ったってしかたがない。ぼくはよそう」

 「また田臭を放った。偉い人も偉くない人も社会へ頭を出した順序が違うだけだ。なにあんな連中、博士とか学士とかいったって、会って話してみるとなんでもないものだよ。第一向こうがそう偉いともなんとも思ってやしない。ぜひ出ておくがいい。君の将来のためだから」

 「どこであるのか」

 「たぶんうえせいようけんになるだろう」

 「ぼくはあんな所へ、はいったことがない。高い会費を取るんだろう」

 「まあ二円ぐらいだろう。なに会費なんか、心配しなくってもいい。なければぼくがだしておくから」

 三四郎はたちまち、さきの二十円の件を思い出した。けれども不思議におかしくならなかった。与次郎はそのうちぎんのどことかへてんを食いに行こうと言いだした。金はあると言う。不思議な男である。言いなり次第になる三四郎もこれは断った。その代りいっしょに散歩に出た。帰りにおかへ寄って、与次郎はくりまんじゆうをたくさん買った。これを先生にみやげに持ってゆくんだと言って、袋をかかえて帰っていった。

 三四郎はその晩与次郎の性格を考えた。長く東京にいるとあんなになるものかと思った。それから里見へ金を借りに行くことを考えた。美禰子の所へ行く用事がたのはうれしいような気がする。しかし頭を下げて金を借りるのはありがたくない。三四郎は生まれてから今日にいたるまで、人に金を借りた経験のない男である。その上貸すという当人が娘である。独立した人間ではない。たとい金が自由になるとしても、兄の許諾を得ない内証の金を借りたとなると、借りる自分はとにかく、あとで、貸した人の迷惑になるかもしれない。あるいはあの女のことだから、迷惑にならないようにはじめからできているかとも思える。なにしろ会ってみよう。会ったうえで、借りるのがおもしろくない様子だったら、断わって、しばらく下宿の払いを延ばしておいて、国から取り寄せれば事は済む。──当用はここまで考えて句切りをつけた。あとは散漫に美禰子の事が頭に浮かんで来る。美禰子の顔や手や、えりや、帯や、着物やらを、想像にまかせて、けたりったりしていた。ことにあした会う時に、どんな態度で、どんな事を言うだろうとその光景が通りにもじつ通りにもなって、いろいろに出て来る。三四郎は本来からこんな男である。用談があって人と会見の約束などをする時には、先方がどう出るだろうということばかり想像する。自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声で言ってやろうなどとはけっして考えない。しかも会見が済むと後からきっとそのほうを考える。そうして後悔する。

 ことに今夜は自分のほうを想像する余地がない。三四郎はこのあいだから美禰子を疑っている。しかし疑うばかりでいっこうらちがあかない。そうかといって面と向かって、聞きただすべき事件は一つもないのだから、一刀両断の解決などは思いもよらぬことである。もし三四郎の安心のために解決が必要なら、それはただ美禰子に接触する機会を利用して、先方の様子から、いいかげんに最後の判決を自分に与えてしまうだけである。あしたの会見はこの判決に欠くべからざる材料である。だから、いろいろに向こうを想像してみる。しかし、どう想像しても、自分につごうのいい光景ばかり出てくる。それでいて、実際ははなはだ疑わしい。ちょうどきたない所をきれいな写真にとってながめているような気がする。写真は写真としてどこまでも本当に違いないが、実物のきたないことも争われないと一般で、同じでなければならぬはずの二つがけっして一致しない。

 最後にうれしいことを思いついた。美禰子は与次郎に金を貸すと言った。けれども与次郎には渡さないと言った。じっさい与次郎は金銭のうえにおいては、信用しにくい男かもしれない。しかしその意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑わしい。もしその意味でないとすると、自分にははなはだたのもしいことになる。ただ金を貸してくれるだけでも十分の好意である。自分に会って手渡しにしたいというのは──三四郎はここまで己惚れてみたが、たちまち、

 「やっぱりろうじゃないか」と考えだして、急に赤くなった。もし、ある人があって、その女はなんのために君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎はおそらく答ええなかったろう。しいて考えてみろと言われたら、三四郎は愚弄そのものに興味をもっている女だからとまでは答えたかもしれない。自分の己惚れを罰するためとはまったく考ええなかったに違いない。──三四郎は美禰子のために己惚れしめられたんだと信じている。

 翌日はさいわい教師が二人欠席して、昼からの授業が休みになった。下宿へ帰るのもめんどうだから、途中でいつぴん料理の腹をこしらえて、美禰子の家へ行った。前を通ったことはなんべんでもある。けれどもはいるのははじめてである。かわらぶきの門の柱に里見恭助という標札が出ている。三四郎はここを通るたびに、里見恭助という人はどんな男だろうと思う。まだ会ったことがない。門は締まっている。くぐりからはいると玄関までの距離は存外短かい。長方形のかげいしが飛び飛びに敷いてある。玄関は細いきれいなこうでたてきってある。ベルを押す。取次ぎの下女に、「美禰子さんはお宅ですか」と言った時、三四郎は自分ながら気恥ずかしいような妙な心持ちがした。ひとの玄関で、妙齢の女の在否を尋ねたことはまだない。はなはだ尋ねにくい気がする。下女のほうは案外まじめである。しかもうやうやしい。いったん奥へはいって、また出て来て、丁寧にお辞儀をして、どうぞと言うからついて上がると応接間へ通した。重い窓掛けの掛かっている西洋室である。少し暗い。

 下女はまた、「しばらく、どうか……」と挨拶して出て行った。三四郎は静かなの中に席を占めた。正面に壁を切り抜いた小さいだんがある。その上が横に長い鏡になっていて前にろうそくたてが二本ある。三四郎は左右の蠟燭立のまん中に自分の顔を写して見て、またすわった。

 すると奥の方でバイオリンの音がした。それがどこからか、風が持って来て捨てて行ったように、すぐ消えてしまった。三四郎は惜しい気がする。厚く張ったの背によりかかって、もう少しやればいいがと思って耳を澄ましていたが、音はそれぎりでやんだ。約一分もたつうちに、三四郎はバイオリンの事を忘れた。向こうにある鏡と蠟燭立をながめている。妙に西洋のにおいがする。それからカソリックの連想がある。なぜカソリックだか三四郎にもわからない。その時バイオリンがまた鳴った。今度は高いと低い音が二、三度急に続いて響いた。それでぱったり消えてしまった。三四郎はまったく西洋の音楽を知らない。しかし今の音は、けっして、まとまったものの一部分をひいたとは受け取れない。ただ鳴らしただけである。その無作法にただ鳴らしたところが三四郎のじようしよによく合った。不意に天から二、三つぶ落ちて来た、でたらめのひようのようである。

 三四郎がなかば感覚を失った目を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子がいつのまにか立っている。下女がたてたと思った戸があいている。戸のうしろにかけてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写っている。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑った。

 「いらっしゃい」

 女の声はうしろで聞こえた。三四郎は振り向かなければならなかった。女と男はじかに顔を見合わせた。その時女はひさしの広い髪をちょっと前に動かして礼をした。礼をするにはおよばないくらいに親しい態度であった。男のほうはかえって椅子から腰を浮かして頭を下げた。女は知らぬふうをして、向こうへ回って、鏡を背に、三四郎の正面に腰をおろした。

 「とうとういらしった」

 同じような親しい調子である。三四郎にはこのいちげんが非常にうれしく聞こえた。女は光る絹を着ている。さっきからだいぶ待たしたところをもってみると、応接間へ出るためにわざわざきれいなのに着換えたのかもしれない。それで端然とすわっている。目と口にえみを帯びて無言のまま三四郎を見守った姿に、男はむしろ甘い苦しみを感じた。じっとして見らるるに堪えない心の起こったのは、そのくせ女の腰をおろすやいなやである。三四郎はすぐ口を開いた。ほとんどほつに近い。

 「佐々木が」

 「佐々木さんが、あなたの所へいらしったでしょう」と言って例の白い歯を現わした。女のうしろにはさきの蠟燭立がマントルピースの左右に並んでいる。金でさいをした妙な形の台である。これを蠟燭立と見たのは三四郎のおくだんで、じつはなんだかわからない。この不可思議の蠟燭立のうしろに明らかな鏡がある。光線は厚い窓掛けにさえぎられて、十分にはいらない。そのうえ天気は曇っている。三四郎はこのあいだに美禰子の白い歯を見た。

 「佐々木が来ました」

 「なんと言っていらっしゃいました」

 「ぼくにあなたの所へ行けと言って来ました」

 「そうでしょう。──それでいらしったの」とわざわざ聞いた。

 「ええ」と言って少しちゆうちよした。あとから「まあ、そうです」と答えた。女はまったく歯を隠した。静かに席を立って、窓の所へ行って、をながめだした。

 「曇りましたね。寒いでしょう、は」

 「いいえ、存外暖かい。風はまるでありません」

 「そう」と言いながら席へ帰って来た。

 「じつは佐々木が金を……」と三四郎から言いだした。

 「わかってるの」と中途でとめた。三四郎も黙った。すると

 「どうしておなくしになったの」と聞いた。

 「馬券を買ったのです」

 女は「まあ」と言った。まあと言ったわりに顔は驚いていない。かえって笑っている。すこしたって、「悪いかたね」とつけ加えた。三四郎は答えずにいた。

 「馬券であてるのは、人の心をあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引のついている人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに」

 「ぼくが馬券を買ったんじゃありません」

 「あら。だれが買ったの」

 「佐々木が買ったのです」

 女は急に笑いだした。三四郎もおかしくなった。

 「じゃ、あなたがお金がおいりようじゃなかったのね。ばかばかしい」

 「いることはぼくがいるのです」

 「ほんとうに?」

 「ほんとうに」

 「だってそれじゃおかしいわね」

 「だから借りなくってもいいんです」

 「なぜ。おいやなの?」

 「いやじゃないが、おあにいさんに黙って、あなたから借りちゃ、好くないからです」

 「どういうわけで? でも兄は承知しているんですもの」

 「そうですか。じゃ借りてもいい。──しかし借りないでもいい。家へそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」

 「御迷惑なら、しいて……」

 美禰子は急に冷淡になった。今までそばにいたものが一町ばかり遠のいた気がする。三四郎は借りておけばよかったと思った。けれども、もうしかたがない。蠟燭立を見てすましている。三四郎は自分から進んで、ひとのきげんをとったことのない男である。女も遠ざかったぎり近づいて来ない。しばらくするとまた立ち上がった。窓から戸外をすかして見て、

 「降りそうもありませんね」と言う。三四郎も同じ調子で、「降りそうもありません」と答えた。

 「降らなければ、私ちょっと出てようかしら」と窓の所で立ったまま言う。三四郎は帰ってくれという意味に解釈した。光る絹を着換えたのも自分のためではなかった。

 「もう帰りましょう」と立ち上がった。美禰子は玄関まで送って来た。くつぬぎへ降りて、くつをはいていると、上から美禰子が、

 「そこまでごいっしょに出ましょう。いいでしょう」と言った。三四郎は靴のひもを結びながら、「ええ、どうでも」と答えた。女はいつのまにか、和土たたきの上へ下りた。下りながら三四郎の耳のそばへ口を持ってきて、「おこっていらっしゃるの」とささやいた。ところへ下女があわてながら、送りに出て来た。

 二人は半町ほど無言のまま連れだって来た。そのあいだ三四郎はしじゅう美禰子の事を考えている。この女はわがままに育ったに違いない。それから家庭にいて、普通のによしよう以上の自由を有して、万事意のごとくふるまうに違いない。こうして、だれの許諾も経ずに、自分といっしょに、往来を歩くのでもわかる。年寄りの親がなくって、若い兄が放任主義だから、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困ることだろう。この女に三輪田のお光さんのような生活を送れと言ったら、どうする気かしらん。東京はいなかと違って、万事があけ放しだから、こちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから想像してみると、もう少しは旧式のようでもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのもなるほどと思い当る。ただし俗礼にかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底の思想までも、そうなのか。そこはわからない。

 そのうち本郷の通りへ出た。いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手がどこへ行くのだか、まったく知らない。今までに横町を三つばかり曲がった。曲がるたびに、二人の足は申し合わせたように無言のまま同じ方角へ曲がった。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。

 「どこへいらっしゃるの」

 「あなたはどこへ行くんです」

 二人はちょっと顔を見合わせた。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い歯をあらわした。

 「いっしょにいらっしゃい」

 二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間ほど行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子はその前にとまった。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、

 「お願い」と言った。

 「なんですか」

 「これでお金を取ってちょうだい」

 三四郎は手を出して、帳面を受取った。まん中に小口当座あずかりきんかよいちようとあって、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持ったまま、女の顔を見て立った。

 「三十円」と女がきんだかを言った。あたかも毎日銀行へ金を取りに行きつけた者に対する口ぶりである。さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたびとよまで出かけたことがある。すぐ石段を上って、戸をあけて、銀行の中へはいった。帳面と印形を係りの者に渡して、必要の金額を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。もう切り通しの方へ二十間ばかり歩きだしている。三四郎は急いで追いついた。すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れると、美禰子が、

 「たんせいかいの展覧会を御覧になって」と聞いた。

 「まだ見ません」

 「しようたいけんを二枚もらったんですけれども、つい暇がなかったものだからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」

 「行ってもいいです」

 「行きましょう。もうじき閉会になりますから。私、一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです」

 「原口さんが招待券をくれたんですか」

 「ええ。あなた原口さんを御存じなの?」

 「広田先生の所で一度会いました」

 「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子を稽古なさるんですって」

 「このあいだはつづみをならいたいと言っていました。それから──」

 「それから?」

 「それから、あなたの肖像をかくとか言っていました。本当ですか」

 「ええ、高等モデルなの」と言った。男はこれより以上に気の利いたことが言えないである。それで黙ってしまった。女はなんとか言ってもらいたかったらしい。

 三四郎はまた隠袋かくしへ手を入れた。銀行のかよいちようと印形を出して、女に渡した。金は帳面の間にはさんでおいたはずである。しかるに女が、

 「お金は」と言った。見ると、間にはない。三四郎はまたポッケットを探った。中から手ずれのした札をつかみ出した。女は手を出さない。

 「預かっておいてちょうだい」と言った。三四郎はいささか迷惑のような気がした。しかしこんな時に争うことを好まぬ男である。そのうえ往来だからなおさら遠慮をした。せっかく握った札をまたもとの所へ収めて、妙な女だと思った。

 学生が多く通る。すれ違う時にきっと二人を見る。なかには遠くから目をつけて来る者もある。三四郎は池のはたへ出るまでの道をすこぶる長く感じた。それでも電車に乗る気にはならない。二人とものそのそ歩いている。会場へ着いたのはほとんど三時近くである。妙な看板が出ている。丹青会という字も、字の周囲まわりについている図案も、三四郎の目にはことごとく新しい。しかし熊本では見ることのできない意味で新しいので、むしろ一種異様の感がある。中はなおさらである。三四郎の目にはただ油絵と水彩画の区別が判然と映ずるくらいのものにすぎない。

 それでもこうはある。買ってもいいと思うのもある。しかし巧拙はまったくわからない。したがって鑑別力のないものと、初手からあきらめた三四郎は、いっこう口をあかない。

 美禰子がこれはどうですかと言うと、そうですなという。これはおもしろいじゃありませんかと言うと、おもしろそうですなという。まるで張り合いがない。話のできないばかか、こっちを相手にしない偉い男か、どっちかにみえる。ばかとすればてらわないところにあいきようがある。偉いとすれば、相手にならないところが憎らしい。

 長い間外国を旅行して歩いたきようだいの絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。

 「ベニスでしょう」

 これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。三四郎は高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。それからこの字が好きになった。ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。黙って青い水と、水の左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤いきれとをながめていた。すると、

 「あにさんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。

 「兄さんとは……」

 「この絵は兄さんのほうでしょう」

 「だれの?」

 美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。

 「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」

 三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国のしきをかいたものが幾点となくかかっている。

 「違うんですか」

 「一人と思っていらしったの」

 「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、

 「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。先へ抜けた女は、この時振り返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。

 「里見さん」

 だしぬけにだれか大きな声で呼んだ者がある。

 美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎のそばへ来た。人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何かささやいた。三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。もうあいさつをしている。野々宮は三四郎に向かって、

 「妙なつれと来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、

 「似合うでしょう」と言った。野々宮さんはなんとも言わなかった。くるりとうしろを向いた。うしろには畳一枚ほどの大きな絵がある。その絵は肖像画である。そうしていちめんに黒い。着物も帽子も背景から区別のできないほど光線を受けていないなかに、顔ばかり白い。顔はやせて、ほおの肉が落ちている。

 「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原口は今しきりに美禰子に何か話している。──もう閉会である。来観者もだいぶ減った。開会の初めには毎日事務所へ来ていたが、このごろはめったに顔を出さない。きょうはひさしぶりに、こっちへ用があって、野々宮さんを引っ張って来たところだ。うまく出っくわしたものだ。この会をしまうと、すぐ来年の準備にかからなければならないから、非常に忙しい。いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員のつごうで早くするつもりだから、ちょうど会を二つ続けて開くと同じことになる。必死の勉強をやらなければならない。それまでにぜひ美禰子の肖像をかきあげてしまうつもりである。迷惑だろうがおお晦日みそかでもかかしてくれ。

 「その代りここん所へかけるつもりです」

 原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。

 「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」と原口がはじめて説明する。野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。

 「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。

 「みつです。三井はもっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」と一、二歩さがって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、うまくいかないね」

 原口は首を曲げた。三四郎は原口の首を曲げたところを見ていた。

 「もう、みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける。

 「まだ」

 「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。──会の事でね、マネジャーに相談しておきたい事がある。懇意の男だから。──今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐デナーには早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」

 美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでもいい顔をしている。野々宮は立ったまま関係しない。

 「せっかく来たものだから、みんな見てゆきましょう。ねえ、小川さん」

 三四郎はええと言った。

 「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。ふかさんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」

 「ありがとう」

 「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を言ってその後影を見送った。二人は振り返らなかった。

 女は歩をめぐらして、別室へはいった。男は一足あとから続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである。三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向ひなたへでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるという事である。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんどいつせいに仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪郭が明らかに透いて見えるのでも、しやらくな画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるでから竿ざおのようである。ここにもベニスが一枚ある。

 「これもベニスですね」と女が寄って来た。

 「ええ」と言ったが、ベニスで急に思い出した。

 「さっき何を言ったんですか」

 女は「さっき?」と聞き返した。

 「さっき、ぼくが立って、あっちのベニスを見ている時です」

 女はまたまっ白な歯をあらわした。けれどもなんとも言わない。

 「用でなければ聞かなくってもいいです」

 「用じゃないのよ」

 三四郎はまだ変な顔をしている。曇った秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなってくる。観覧人はきわめて少ない。別室のうちには、ただなんによ二人の影があるのみである。女は絵を離れて、三四郎の真正面に立った。

 「野々宮さん。ね、ね」

 「野々宮さん……」

 「わかったでしょう」

 美禰子の意味は、大波のくずれるごとく一度に三四郎の胸を浸した。

 「野々宮さんをろうしたのですか」

 「なんで?」

 女の語気はまったく無邪気である。三四郎はこつぜんとして、あとを言う勇気がなくなった。無言のまま二、三歩動きだした。女はすがるようについて来た。

 「あなたを愚弄したんじゃないのよ」

 三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。

 「それでいいです」

 「なぜ悪いの?」

 「だからいいです」

 女は顔をそむけた。二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出るひように互いの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。

 「ほんとうにいいの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向こうから二、三人連の観覧者が来る。

 「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。そくを受け取って、出ると戸外は雨だ。

 「精養軒へ行きますか」

 美禰子は答えなかった。雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。さいわい雨は今降りだしたばかりである。そのうえ激しくはない。女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。

 「あの木の陰へはいりましょう」

 少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。

 「悪くって? さっきのこと」

 「いいです」

 「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」

 女はひとみを定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。──ひつきようあなたのためにした事じゃありませんかと、ふたまぶたの奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、

 「だから、いいです」と答えた。

 雨はだんだん濃くなった。しずくの落ちない場所はわずかしかない。二人はだんだん一つ所へかたまってきた。肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。雨の音のなかで、美禰子が、

 「さっきのお金をお使いなさい」と言った。

 「借りましょう。るだけ」と答えた。

 「みんな、お使いなさい」と言った。

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