ベルが鳴って、講師は教室から出ていった。三四郎はインキの着いたペンを振って、ノートを伏せようとした。すると隣にいた与次郎が声をかけた。

 「おいちょっと借せ。書き落としたところがある」

 与次郎は三四郎のノートを引き寄せて上からのぞきこんだ。strayストレイ sheepシープという字がむやみに書いてある。

 「なんだこれは」

 「講義を筆記するのがいやになったから、いたずらを書いていた」

 「そう不勉強ではいかん。カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか言ったな」

 「どうだとか言った」

 「聞いていなかったのか」

 「いいや」

 「まるでstrayストレイ sheepシープだ。しかたがない」

 与次郎は自分のノートをかかえて立ち上がった。机の前を離れながら、三四郎に、

 「おいちょっと来い」と言う。三四郎は与次郎について教室を出た。はしだんを降りて、玄関前の草原へ来た。大きな桜がある。二人ふたりはその下にすわった。

 ここは夏の初めになるとうまごやしが一面にはえる。与次郎が入学願書を持って事務へ来た時に、この桜の下に二人の学生が寝転んでいた。その一人ひとりが一人に向かって、口答試験をいつで負けておいてくれると、いくらでも歌ってみせるがなと言うと、一人が小声で、すいなさばきの博士の前で、恋の試験がしてみたいと歌っていた。その時から与次郎はこの桜の木の下が好きになって、なにか事があると、三四郎をここへ引っ張り出す。三四郎はその歴史を与次郎から聞いた時に、なるほど与次郎は俗謡でpity'sピチーズ loveラツブを訳すはずだと思った。きょうはしかし与次郎がことのほかまじめである。草の上にあぐらをかくやいなや、懐中から、文芸時評という雑誌を出してあけたままの一ページをさかに三四郎の方へ向けた。

 「どうだ」と言う。見ると標題に大きな活字で「偉大なるくらやみ」とある。下にはれいと雅号を使っている。偉大なる暗闇とは与次郎がいつでも広田先生を評する語で、三四郎も二、三度聞かされたものである。しかし霊余子はまったく知らん名である。どうだと言われた時に、三四郎は、返事をする前提としてひとまず与次郎の顔を見た。すると与次郎はなんにも言わずにそのへんぺいな顔を前へ出して、右の人さし指の先で、自分の鼻の頭を押えてじっとしている。向こうに立っていた一人の学生が、この様子を見てにやにや笑い出した。それに気がついた与次郎はようやく指を鼻から放した。

 「おれが書いたんだ」と言う。三四郎はなるほどそうかと悟った。

 「ぼくらが菊細工を見にゆく時書いていたのは、これか」

 「いや、ありゃ、たったさんまえじゃないか。そうはやく活版になってたまるものか。あれは来月出る。これは、ずっと前に書いたものだ。何を書いたものか標題でわかるだろう」

 「広田先生の事か」

 「うん。こうして輿ろんを喚起しておいてね。そうして、先生が大学へはいれるしたを作る……」

 「その雑誌はそんなに勢力のある雑誌か」

 三四郎は雑誌の名前さえ知らなかった。

 「いや無勢力だから、じつは困る」と与次郎は答えた。三四郎はわざるをえなかった。

 「何部ぐらい売れるのか」

 与次郎は何部売れるとも言わない。

 「まあいいさ。書かんよりはましだ」と弁解している。

 だんだん聞いてみると、与次郎は従来からこの雑誌に関係があって、ひまさえあればほとんど毎号筆を執っているが、その代り雅号も毎号変えるから、二、三の同人のほか、だれも知らないんだと言う。なるほどそうだろう。三四郎は今はじめて与次郎と文壇との交渉を聞いたくらいのものである。しかし与次郎がなんのために、遊戯いたずらに等しいとくめいを用いて、彼のいわゆる大論文をひそかに公けにしつつあるか、そこが三四郎にはわからなかった。

 いくぶんか小遣い取りのつもりで、やっている仕事かと不遠慮に尋ねた時、与次郎は目を丸くした。

 「君は九州のいなかから出たばかりだから、中央文壇のすうせいを知らないために、そんなのん気なことをいうのだろう。今の思想界の中心にいて、その動揺のはげしいありさまを目撃しながら、考えのある者が知らん顔をしていられるものか。じっさいこんにちの文権はまったく我々青年の手にあるんだから、いちごんでも半句でも進んで言えるだけ言わなけりゃ損じゃないか。文壇は急転直下の勢いでめざましい革命を受けている。すべてがことごとく動いて、新気運に向かってゆくんだから、取り残されちゃたいへんだ。進んで自分からこの気運をこしらえ上げなくちゃ、生きてるはない。文学文学って安っぽいようにいうが、そりゃ大学なんかで聞く文学のことだ。新しい我々のいわゆる文学は、人生そのものの大反射だ。文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。また現にしつつある。彼らが昼寝をして夢を見ているまに、いつか影響しつつある。恐ろしいものだ。……」

 三四郎は黙って聞いていた。少しほらのような気がする。しかしほらでも与次郎はなかなか熱心に吹いている。すくなくとも当人だけは至極まじめらしくみえる。三四郎はだいぶ動かされた。

 「そういう精神でやっているのか。では君は原稿料なんか、どうでもかまわんのだったな」

 「いや、原稿料は取るよ。取れるだけ取る。しかし雑誌が売れないからなかなかよこさない。どうかして、もう少し売れるふうをしないといけない。何かいい趣向はないだろうか」と今度は三四郎に相談をかけた。話が急に実際問題に落ちてしまった。三四郎は妙な心持ちがする。与次郎は平気である。ベルが激しく鳴りだした。

 「ともかくこの雑誌を一部君にやるから読んでみてくれ。偉大なる暗闇という題がおもしろいだろう。この題なら人が驚くにきまっている。──驚かせないと読まないからだめだ」

 二人は玄関を上がって、教室へはいって、机に着いた。やがて先生が来る。二人とも筆記を始めた。三四郎は「偉大なる暗闇」が気にかかるので、ノートのそばに文芸時評をあけたまま、筆記のあいまあいまに先生に知れないように読みだした。先生はさいわい近眼である。のみならず自己の講義のうちにぜんぜん埋没している。三四郎の不心得にはまるで関係しない。三四郎はいい気になって、こっちを筆記したり、あっちを読んだりしていったが、もともと二人でする事を一人で兼ねるむりな芸だからしまいには「偉大なる暗闇」も講義の筆記もそうほうともに関係がわからなくなった。ただ与次郎の文章が一句だけはっきり頭にはいった。

 「自然は宝石を作るに幾年の星霜を費やしたか。またこの宝石が採掘の運にあうまでに、幾年の星霜を静かに輝やいていたか」という句である。その他は不得要領に終った。その代りこの時間にはstrayストレイ sheepシープという字を一つも書かずにすんだ。

 講義が終わるやいなや、与次郎は三四郎に向かって、

 「どうだ」と聞いた。じつはまだよく読まないと答えると、時間の経済を知らない男だといって非難した。ぜひ読めという。三四郎は家に帰ってぜひ読むと約束した。やがて昼になった。二人は連れ立って門を出た。

 「今晩出席するだろうな」と与次郎が西片町へはいる横町の角で立ち留まった。今夜は同級生の懇親会がある。三四郎は忘れていた。ようやく思い出して、行くつもりだと答えると、与次郎は、

 「出るまえにちょっと誘ってくれ。君に話す事がある」と言う。耳のうしろへペンじくをはさんでいる。なんとなく得意である。三四郎は承知した。

 下宿へ帰って、湯にはいって、いい心持ちになって上がってみると、机の上に絵はがきがある。小川をかいて、草をもじゃもじゃはやして、その縁に羊を二匹寝かして、その向こう側に大きな男がステッキを持って立っているところを写したものである。男の顔がはなはだどうもうにできている。まったく西洋の絵にある悪魔デビルを模したもので、念のため、わきにちゃんとデビルとが振ってある。表は三四郎のあての下に、迷える子と小さく書いたばかりである。三四郎は迷える子の何者かをすぐ悟った。のみならず、はがきの裏に、迷える子を二匹書いて、その一匹をあんに自分に見立ててくれたのをはなはだうれしく思った。迷える子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとよりはいっていたのである。それが美禰子のおもわくであったとみえる。美禰子の使ったstrayストレイ sheepシープの意味がこれでようやくはっきりした。

 与次郎に約束した「偉大なる暗闇」を読もうと思うが、ちょっと読む気にならない。しきりに絵はがきをながめて考えた。イソップにもないようなこつけい趣味がある。無邪気にもみえる。しやらくでもある。そうしてすべての下に、三四郎の心を動かすあるものがある。

 手ぎわからいっても敬服の至りである。諸事明瞭にでき上がっている。よし子のかいた柿の木の比ではない。──と三四郎には思われた。

 しばらくしてから、三四郎はようやく「偉大なる暗闇」を読みだした。じつはふわふわして読みだしたのであるが、二、三ページくると、次第に釣り込まれるように気が乗ってきて、知らず知らずのまに、五ページ六ページと進んで、ついに二十七ページの長論文を苦もなく片付けた。最後の一句を読了した時、はじめてこれでしまいだなと気がついた。目を雑誌から離して、ああ読んだなと思った。

 しかし次の瞬間に、何を読んだかと考えてみると、なんにもない。おかしいくらいなんにもない。ただ大いにかつ盛んに読んだ気がする。三四郎は与次郎のりように感服した。

 論文は現今の文学者の攻撃に始まって、広田先生の賛辞に終っている。ことに文学文科の西洋人を手痛くとうしている。はやく適当の日本人をしようへいして、大学相当の講義を開かなくっては、学問の最高府たる大学も昔の寺小屋同然のありさまになって、れんせきのミイラと選ぶところがないようになる。もっとも人がなければしかたがないが、ここに広田先生がある。先生は十年一日のごとく高等学校にきようべんを執って薄給と無名に甘んじている。しかし真正の学者である。学海の新気運に貢献して、日本の活社会と交渉のある教授を担任すべき人物である。──せんじ詰めるとこれだけであるが、そのこれだけが、非常にもっともらしいこうふんさんらんたる警句とによって前後二十七ページに延長している。

 その中には「禿はげを自慢するものは老人に限る」とか「ヴィーナスは波から生まれたが、活眼の士は大学から生まれない」とか「博士を学界の名産と心得るのは、海月くらげうらの名産と考えるようなものだ」とかいろいろおもしろい句がたくさんある。しかしそれよりほかになんにもない。ことに妙なのは、広田先生を偉大なる暗闇にたとえたついでに、ほかの学者をまるあんどんに比較して、たかだか方二尺ぐらいの所をぼんやり照らすにすぎないなどと、自分が広田から言われたとおりを書いている。そうして、丸行燈だのがんくびなどはすべて旧時代の遺物で我々青年にはまったく無用であると、このあいだのとおりわざわざ断わってある。

 よく考えてみると、与次郎の論文には活気がある。いかにも自分一人で新日本を代表しているようであるから、読んでいるうちは、ついその気になる。けれどもまったくがない。根拠地のない戦争のようなものである。のみならず悪く解釈すると、政略的の意味もあるかもしれない書き方である。いなか者の三四郎にはてっきりそことることはできなかったが、ただ読んだあとで、自分の心を探ってみてどこかに不満足があるように覚えた。また美禰子の絵はがきを取って、二匹の羊と例の悪魔デビルをながめだした。するとこっちのほうは万事が快感である。この快感につれてまえの不満足はますます著しくなった。それで論文の事はそれぎり考えなくなった。美禰子に返事をやろうと思う。不幸にして絵がかけない。文章にしようと思う。文章ならこの絵はがきに匹敵する文句でなくってはいけない。それは容易に思いつけない。ぐずぐずしているうちに四時過ぎになった。

 はかまを着けて、与次郎を誘いに、西片町へ行く。勝手口からはいると、茶の間に、広田先生が小さな食卓を控えて、ばんめしを食っていた。そばに与次郎がかしこまってお給仕をしている。

 「先生どうですか」と聞いている。

 先生は何か堅いものをほおばったらしい。食卓の上を見ると、たもと時計ほどな大きさの、赤くって黒くって、焦げたものがとおばかりさらの中に並んでいる。

 三四郎は座に着いた。礼をする。先生は口をもがもがさせる。

 「おい君も一つ食ってみろ」と与次郎がはしさらのものをつまんで出した。てのひらへ載せてみると、鹿がいむきの干したのをつけ焼にしたのである。

 「妙なものを食うな」と聞くと、

 「妙なものって、うまいぜ食ってみろ。これはね、ぼくがわざわざ先生にみやげに買ってきたんだ。先生はまだ、これを食ったことがないとおっしゃる」

 「どこから」

 「日本橋から」

 三四郎はおかしくなった。こういうところになると、さっきの論文の調子とは少し違う。

 「先生、どうです」

 「堅いね」

 「堅いけれどもうまいでしょう。よくかまなくっちゃいけません。かむと味が出る」

 「味が出るまでかんでいちゃ、歯が疲れてしまう。なんでこんな古風なものを買ってきたものかな」

 「いけませんか。こりゃ、ことによると先生にはだめかもしれない。里見の美禰子さんならいいだろう」

 「なぜ」と三四郎が聞いた。

 「ああおちついていりゃ味の出るまできっとかんでるに違いない」

 「あの女はおちついていて、乱暴だ」と広田が言った。

 「ええ乱暴です。イブセンの女のようなところがある」

 「イブセンの女はこつだが、あの女はしんが乱暴だ。もっとも乱暴といっても、普通の乱暴とは意味が違うが。野々宮の妹のほうが、ちょっと見ると乱暴のようで、やっぱり女らしい。妙なものだね」

 「里見のは乱暴のないこうですか」

 三四郎は黙って二人の批評を聞いていた。どっちの批評もふにおちない。乱暴という言葉が、どうして美禰子の上に使えるか、それからが第一不思議であった。

 与次郎はやがて、袴をはいて、改まって出て来て、

 「ちょっと行ってまいります」と言う。先生は黙って茶を飲んでいる。二人は表へ出た。表はもう暗い。門を離れて二、三間来ると、三四郎はすぐ話しかけた。

 「先生は里見のお嬢さんを乱暴だと言ったね」

 「うん。先生はかってな事をいう人だから、時と場合によるとなんでも言う。第一先生が女を評するのが滑稽だ。先生の女における知識はおそらく零だろう。ラップをしたことがないものに女がわかるものか」

 「先生はそれでいいとして、君は先生の説に賛成したじゃないか」

 「うん乱暴だと言った。なぜ」

 「どういうところを乱暴というのか」

 「どういうところも、こういうところもありゃしない。現代のによしようはみんな乱暴にきまっている。あの女ばかりじゃない」

 「君はあの人をイブセンの人物に似ていると言ったじゃないか」

 「言った」

 「イブセンのだれに似ているつもりなのか」

 「だれって……似ているよ」

 三四郎はむろんなつとくしない。しかし追窮もしない。黙って一間ばかり歩いた。すると突然与次郎がこう言った。

 「イブセンの人物に似ているのは里見のお嬢さんばかりじゃない。今の一般のによしようはみんな似ている。女性ばかりじゃない。いやしくも新しい空気に触れた男はみんなイブセンの人物に似たところがある。ただ男も女もイブセンのように自由行動を取らないだけだ。腹のなかではたいていかぶれている」

 「ぼくはあんまり、かぶれていない」

 「いないとみずから欺いているのだ。──どんな社会だってかんけつのない社会はあるまい」

 「それはないだろう」

 「ないとすれば、そのなかに生息している動物はどこかに不足を感じるわけだ。イブセンの人物は、現代社会制度の陥欠をもっとも明らかに感じたものだ。我々もおいおいああなってくる」

 「君はそう思うか」

 「ぼくばかりじゃない。がんの士はみんなそう思っている」

 「君のうちの先生もそんな考えか」

 「うちの先生? 先生はわからない」

 「だって、さっき里見さんを評して、おちついていて乱暴だと言ったじゃないか。それを解釈してみると、周囲に調和していけるから、おちついていられるので、どこかに不足があるから、底のほうが乱暴だという意味じゃないのか」

 「なるほど。──先生は偉いところがあるよ。ああいうところへゆくとやっぱり偉い」

 と与次郎は急に広田先生をほめだした。三四郎は美禰子の性格についてもう少し議論の歩を進めたかったのだが、与次郎のこの一言でまったくはぐらかされてしまった。すると与次郎が言った。

 「じつはきょう君に用があると言ったのはね。──うん、それよりまえに、君あの偉大なる暗闇を読んだか。あれを読んでおかないとぼくの用事が頭へはいりにくい」

 「きょうあれから家へ帰って読んだ」

 「どうだ」

 「先生はなんと言った」

 「先生は読むものかね。まるで知りゃしない」

 「そうさな。おもしろいことはおもしろいが、──なんだか腹のたしにならないビールを飲んだようだね」

 「それでたくさんだ。読んで景気がつきさえすればいい。だから匿名にしてある。どうせ今は準備時代だ。こうしておいて、ちょうどいい時分に、本名を名乗って出る。──それはそれとして、さっきの用事を話しておこう」

 与次郎の用事というのはこうである。--今夜の会で自分たちの科の不振の事をしきりに慨嘆するから、三四郎もいっしょに慨嘆しなくってはいけないんだそうだ。不振は事実であるからほかの者も慨嘆するにきまっている。それから、おおぜいいっしょにばんかいさくを講ずることとなる。なにしろ適当な日本人を一人大学に入れるのが急務だと言い出す。みんなが賛成する。当然だから賛成するのはむろんだ。次にだれがよかろうという相談に移る。その時広田先生の名を持ち出す。その時三四郎は与次郎に口を添えて極力先生を賞賛しろという話である。そうしないと、与次郎が広田の食客いそうろうだということを知っている者が疑いを起こさないともかぎらない。自分は現に食客なんだから、どう思われてもかまわないが、万一わずらいが広田先生に及ぶようではすまんことになる。もっともほかに同志が三、四人はいるから、大丈夫だが、一人でも味方は多いほうが便利だから、三四郎もなるべくしゃべるにしくはないとの意見である。さていよいよ衆議一決の暁は、総代を選んで学長の所へ行く、また総長の所へ行く。もっとも今夜中にそこまでは運ばないかもしれない。また運ぶ必要もない。そのへんは臨機応変である。……

 与次郎はすこぶる能弁である。惜しいことにその能弁がつるつるしているので重みがない。あるところへゆくと冗談をまじめに講義しているかと疑われる。けれども本来がのいい運動だから、三四郎もだいたいのうえにおいて賛成の意を表した。ただその方法が少しく さいに落ちておもしろくないと言った。その時与次郎は往来のまん中へ立ち留まった。二人はちょうどもりかわちようの神社のとりの前にいる。

 「細工に落ちるというが、ぼくのやる事は自然の手順が狂わないようにあらかじめじんりよくで装置するだけだ。自然にそむいたぼつぶんぎようの事を企てるのとはたちが違う。細工だってかまわん。細工が悪いのではない。悪い細工が悪いのだ」

 三四郎はぐうのも出なかった。なんだか文句があるようだけれども、口へ出てこない。与次郎の言いぐさのうちで、自分がまだ考えていなかった部分だけがはっきり頭へ映っている。三四郎はむしろそのほうに感服した。

 「それもそうだ」とすこぶるあいまいな返事をして、また肩を並べて歩きだした。正門をはいると、急に目の前が広くなる。大きな建物が所々に黒く立っている。その屋根がはっきり尽きる所から明らかな空になる。星がおびただしく多い。

 「美しい空だ」と三四郎が言った。与次郎も空を見ながら、一間ばかり歩いた。突然、

 「おい、君」と三四郎を呼んだ。三四郎はまたさっきの話の続きかと思って「なんだ」と答えた。

 「君、こういう空を見てどんな感じを起こす」

 与次郎に似合わぬことを言った。無限とか永久とかいう持ち合わせの答はいくらでもあるが、そんなことを言うと与次郎に笑われると思って三四郎は黙っていた。

 「つまらんなあ我々は。あしたから、こんな運動をするのはもうやめにしようかしら。偉大なる暗闇を書いてもなんの役にも立ちそうにもない」

 「なぜ急にそんな事を言いだしたのか」

 「この空を見ると、そういう考えになる。──君、女にほれたことがあるか」

 三四郎は即答ができなかった。

 「女は恐ろしいものだよ」と与次郎が言った。

 「恐ろしいものだ、ぼくも知っている」と三四郎も言った。すると与次郎が大きな声で笑いだした。静かな夜の中でたいへん高く聞こえる。

 「知りもしないくせに。知りもしないくせに」

 三四郎はぜんとしていた。

 「あすもよい天気だ。運動会はしあわせだ。きれいな女がたくさん来る。ぜひ見にくるがいい」

 暗い中を二人は学生集会所の前まで来た。中には電燈が輝いている。

 木造の廊下を回って、へはいると、そうそう来た者は、もうかたまっている。そのかたまりが大きいのと小さいのと合わせて三つほどある。なかには無言で備え付けの雑誌や新聞を見ながら、わざと列を離れているのもある。話は方々に聞こえる。話の数はかたまりの数より多いように思われる。しかしわりあいにおちついて静かである。煙草たばこの煙のほうが猛烈に立ち上る。

 そのうちだんだん寄って来る。黒い影がやみの中から吹きさらしの廊下の上へ、ぽつりと現われると、それが一人一人に明るくなって、部屋の中へはいって来る。時には五、六人続けて、明るくなることもある。が、やがてにんはほぼそろった。

 与次郎は、さっきから、煙草の煙の中を、しきりにあちこちと往来していた。行く所で何か小声に話している。三四郎は、そろそろ運動を始めたなと思ってながめていた。

 しばらくすると幹事が大きな声で、みんなに席へ着けと言う。食卓はむろん前から用意ができていた。みんな、ごたごたに席へ着いた。順序もなにもない。食事は始まった。

 三四郎は熊本であかざけばかり飲んでいた。赤酒というのは、所でできる下等な酒である。熊本の学生はみんな赤酒を飲む。それが当然と心得ている。たまたま飲食店へ上がれば牛肉屋である。その牛肉屋のぎゆうが馬肉かもしれないというけんがある。学生は皿に盛った肉を手づかみにして、座敷の壁へたたきつける。落ちれば牛肉で、ひっつけば馬肉だという。まるでまじないみたような事をしていた。その三四郎にとって、こういう紳士的な学生しんぼくかいは珍しい。喜んでナイフとフォークを動かしていた。そのあいだにはビールをさかんに飲んだ。

 「学生集会所の料理はまずいですね」と三四郎に隣にすわった男が話しかけた。この男は頭を坊主に刈って、金縁の眼鏡めがねをかけたおとなしい学生であった。

 「そうですな」と三四郎はなま返事をした。相手が与次郎なら、ぼくのようないなか者には非常にうまいと正直なところをいうはずであったが、その正直がかえって皮肉に聞こえると悪いと思ってやめにした。するとその男が、

 「君はどこの高等学校ですか」と聞きだした。

 「熊本です」

 「熊本ですか。熊本にはぼくの従弟いとこがいたが、ずいぶんひどい所だそうですね」

 「野蛮な所です」

 二人が話していると、向こうの方で、急に高い声がしだした。見ると与次郎が隣席の二、三人を相手に、しきりに何か弁じている。時々ダーターファブラ〔*〕と言う。なんの事だかわからない。しかし与次郎の相手は、この言葉を聞くたびに笑いだす。与次郎はますます得意になって、ダーターファブラ我々新時代の青年は……とやっている。三四郎の筋向こうにすわっていた色の白い品のいい学生が、しばらくナイフの手を休めて、与次郎の連中をながめていたが、やがて笑いながらIlイル a le diableデイアブル auオー corpsコール(悪魔が乗り移っている)と冗談半分にフランス語を使った。向こうの連中にはまったく聞こえなかったとみえて、この時ビールのコップが四つばかり一度に高く上がった。得意そうに祝盃をあげている。

 「あの人はたいへんにぎやかな人ですね」と三四郎の隣の金縁眼鏡をかけた学生が言った。

 「ええ。よくしゃべります」

 「ぼくはいつか、あの人に淀見軒でライスカレーをごちそうになった。まるで知らないのに、突然来て、君淀見軒へ行こうって、とうとう引っ張っていって……」

 学生はハハハと笑った。三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーをごちそうになったものは自分ばかりではないんだなと悟った。

 やがてコーヒーが出る。一人がを離れて立った。与次郎が激しく手をたたくと、ほかの者もたちまち調子を合わせた。

 立った者は、新しい黒の制服を着て、鼻の下にもうひげをはやしている。背がすこぶる高い。立つにはかつこうのよい男である。演説めいたことを始めた。

 我々が今夜ここへ寄って、懇親のために、いつせきの歓をつくすのは、それ自身において愉快な事であるが、この懇親が単に社交上の意味ばかりでなく、それ以外に一種重要な影響を生じうると偶然ながら気がついたら自分は立ちたくなった。この会合はビールに始まってコーヒーに終っている。まったく普通の会合である。しかしこのビールを飲んでコーヒーを飲んだ四十人近くの人間は普通の人間ではない。しかもそのビールを飲み始めてからコーヒーを飲み終るまでのあいだに、すでに自己の運命の膨張を自覚しえた。

 政治の自由を説いたのは昔の事である。言論の自由を説いたのも過去の事である。自由とは単にこれらの表面にあらわれやすい事実のために専有されべき言葉ではない。我ら新時代の青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際会したと信ずる。

 我々は古き日本の圧迫にええぬ青年である。同時に新しき西洋の圧迫にもええぬ青年であるということを、世間に発表せねばいられぬ状況のもとに生きている。新しき西洋の圧迫は社会の上においても文芸の上においても、我ら新時代の青年にとっては古き日本の圧迫と同じく、苦痛である。

 我々は西洋の文芸を研究する者である。しかし研究はどこまでも研究である。その文芸のもとに屈従するのとは根本的に相違がある。我々は西洋の文芸にとらわれんがために、これを研究するのではない。とらわれたる心をだつせしめんがために、これを研究しているのである。この方便に合せざる文芸はいかなる威圧のもとにしいらるるとも学ぶ事をあえてせざるの自信と決心とを有している。

 我々はこの自信と決心とを有するの点において普通の人間とは異なっている。文芸は技術でもない、事務でもない。より多く人生の根本義に触れた社会の原動力である。我々はこの意味において文芸を研究し、この意味においてじよじようの自信と決心とを有し、この意味においてこんせきの会合に一般以上の重大なる影響を想見するのである。

 社会は激しく動きつつある。社会の産物たる文芸もまた動きつつある。動く勢いに乗じて、我々の理想どおりに文芸を導くためには、零細なる個人を団結して、自己の運命を充実し発展し膨張しなくてはならぬ。今夕のビールとコーヒーは、かかる隠れたる目的を、一歩前に進めた点において、普通のビールとコーヒーよりも百倍以上の価ある尊きビールとコーヒーである。

 演説の意味はざっとこんなものである。演説が済んだ時、席にあった学生はことごとくかつさいした。三四郎はもっとも熱心なる喝采者の一人であった。すると与次郎が突然立った。

 「ダーターファブラ、シェクスピヤの使ったかずが何万字だの、イブセンの白髪しらがの数が何千本だのと言ってたってしかたがない〔*〕。もっともそんなばかげた講義を聞いたってとらわれる気づかいはないから大丈夫だが、大学に気の毒でいけない。どうしても新時代の青年を満足させるような人間を引っ張って来なくっちゃ。西洋人じゃだめだ。第一幅がきかない。……」

 満堂はまたことごとく喝采した。そうしてことごとく笑った。与次郎の隣にいた者が、

 「ダーターファブラのために祝盃をあげよう」と言いだした。さっき演説をした学生がすぐに賛成した。あいにくビールがみなからである。よろしいと言って与次郎はすぐ台所の方へかけて行った。給仕が酒を持って出る。祝盃をあげるやいなや、

 「もう一つ。今度は偉大なる暗闇のために」と言った者がある。与次郎の周囲にいた者は声を合して、アハハと笑った。与次郎は頭をかいている。

 散会の時刻が来て、若い男がみな暗い夜の中に散った時に、三四郎が与次郎に聞いた。

 「ダーターファブラとはなんの事だ」

 「ギリシア語だ」

 与次郎はそれよりほかに答えなかった。三四郎もそれよりほかに聞かなかった。二人は美しい空をいただいて家に帰った。

 あくる日は予想のごとく好天気である。今年は例年より気候がずっとゆるんでいる。ことさらきょうは暖かい。三四郎は朝のうち湯に行った。ひまじんの少ない世の中だから、午前はすこぶるすいている。三四郎は板の間にかけてあるみつこし呉服店の看板を見た。きれいな女がかいてある。その女の顔がどこか美禰子に似ている。よく見ると目つきが違っている。歯並がわからない。美禰子の顔でもっとも三四郎を驚かしたものは目つきと歯並である。与次郎の説によると、あの女はの気味だから、ああしじゅう歯が出るんだそうだが、三四郎にはけっしてそうは思えない。……。

 三四郎は湯につかってこんな事を考えていたので、からだのほうはあまり洗わずに出た。ゆうべから急に新時代の青年という自覚が強くなったけれども、強いのは自覚だけで、からだのほうはもとのままである。休みになるとほかの者よりずっと楽にしている。きょうは昼から大学の陸上運動会を見に行く気である。

 三四郎は元来あまり運動好きではない。国にいるときうさぎりを二、三度したことがある。それから高等学校の端艇ボートきようそうの時に旗振りの役を勤めたことがある。その時青と赤と間違えて振ってたいへん苦情が出た。もっとも決勝の鉄砲を打つ係りの教授が鉄砲を打ちそくなった。打つには打ったが音がしなかった。これが三四郎のあわてた原因である。それより以来三四郎は運動会へ近づかなかった。しかしきょうは上京以来はじめての競技会だから、ぜひ行ってみるつもりである。与次郎もぜひ行ってみろと勧めた。与次郎の言うところによると競技より女のほうが見にゆく価値があるのだそうだ。女のうちには野々宮さんの妹がいるだろう。野々宮さんの妹といっしょに美禰子もいるだろう。そこへ行って、こんちわとかなんとかあいさつをしてみたい。

 昼過ぎになったから出かけた。会場の入口は運動場の南のすみにある。大きな日の丸とイギリスの国旗が交差してある。日の丸はてんがいくが、イギリスの国旗はなんのためだかわからない。三四郎は日英同盟のせいかとも考えた。けれども日英同盟と大学の陸上運動会とは、どういう関係があるか、とんと見当がつかなかった。

 運動場は長方形のしばである。秋が深いので芝の色がだいぶさめている。競技を見る所は西側にある。後に大きなつきやまをいっぱいに控えて、前は運動場のさくで仕切られた中へ、みんなを追い込むしかけになっている。狭いわりに見物人が多いのではなはだ窮屈である。さいわいよりがよいので寒くはない。しかしがいとうを着ている者がだいぶある。その代りかさをさして来た女もある。

 三四郎が失望したのは婦人席が別になっていて、普通の人間には近寄れないことであった。それからフロックコートや何か着た偉そうな男がたくさん集って、自分が存外幅のきかないようにみえたことであった。新時代の青年をもってみずからおる三四郎は少し小さくなっていた。それでも人と人との間から婦人席の方を見渡すことは忘れなかった。横からだからよく見えないが、ここはさすがにきれいである。ことごとく着飾っている。そのうえ遠距離だから顔がみんな美しい。その代りだれが目立って美しいということもない。ただ総体が総体として美しい。女が男を征服する色である。甲の女が乙の女に打ち勝つ色ではなかった。そこで三四郎はまた失望した。しかし注意したら、どこかにいるだろうと思って、よく見渡すと、はたして前列のいちばん柵に近い所に二人並んでいた。

 三四郎は目のつけ所がようやくわかったので、まず一段落告げたような気で、安心していると、たちまち五、六人の男が目の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子がすわっている真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見つめていた三四郎の視線のうちにはぜひともこれらの壮漢がはいってくる。五、六人はやがて十二、三人にふえた。みんなをはずませているようにみえる。三四郎はこれらの学生の態度と自分の態度とを比べてみて、その相違に驚いた。どうして、ああ無分別にかける気になれたものだろうと思った。しかし婦人連はことごとく熱心に見ている。そのうちでも美禰子とよし子はもっとも熱心らしい。三四郎は自分も無分別にかけてみたくなった。一番に到着した者が、紫のさるまたをはいて婦人席の方を向いて立っている。よく見ると昨夜のしんぼくかいで演説をした学生に似ている。ああ背が高くては一番になるはずである。計測係りが黒板に二十五秒七四と書いた。書き終って、余りの白墨を向こうへなげて、こっちを向いたところを見ると野々宮さんであった。野々宮さんはいつになくまっ黒なフロックを着て、胸に係り員のしようをつけて、だいぶ人品がいい。ハンケチを出して、洋服のそでを二、三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切って来た。ちょうど美禰子とよし子のすわっているまん前の所へ出た。低い柵の向こう側から首を婦人席の中へ延ばして、何か言っている。美禰子は立った。野々宮さんの所まで歩いてゆく。柵の向こうとこちらで話を始めたように見える。美禰子は急に振り返った。うれしそうな笑いにみちた顔である。三四郎は遠くから一生懸命に二人を見守っていた。すると、よし子が立った。また柵のそばへ寄って行く。二人が三人になった。芝生の中では砲丸投げが始まった。

 砲丸投げほど力のいるものはなかろう。力のいるわりにこれほどおもしろくないものもたんとない。ただ文字どおり砲丸を投げるのである。芸でもなんでもない。野々宮さんは柵の所で、ちょっとこの様子を見て笑っていた。けれども見物のじゃまになると悪いと思ったのであろう。柵を離れて芝生の中へ引き取った。二人の女も、もとの席へ復した。砲丸は時々投げられている。第一どのくらい遠くまでゆくんだか、ほとんど三四郎にはわからない。三四郎はばかばかしくなった。それでも我慢して立っていた。ようやくのことで片がついたとみえて、野々宮さんはまた黒板へ十一メートル三八と書いた。

 それからまた競走があって、長飛びがあって、その次にはつち投げが始まった。三四郎はこの槌投げにいたって、とうとうしんぼうがしきれなくなった。運動会はめいめいかってに開くべきものである。人に見せべきものではない。あんなものを熱心に見物する女はことごとく間違っているとまで思い込んで、会場を抜けだして、裏の築山の所まで来た。幕が張ってあって通れない。引き返してじやの敷いてある所を少し来ると、会場から逃げた人がちらほら歩いている。盛装した婦人も見える。三四郎はまた右へ折れて、つまさきのぼりを丘のてっぺんまで来た。道はてっぺんで尽きている。大きな石がある。三四郎はその上へ腰をかけて、高いがけの下にある池をながめた。下の運動会場でわあというおおぜいの声がする。

 三四郎はおよそ五分ばかり石へ腰をかけたままぼんやりしていた。やがてまた動く気になったので腰を上げて、立ちながらくつかかとを向け直すと、丘の上りぎわの、薄く色づいた紅葉もみじの間に、さっきの女の影が見えた。並んで丘のすそを通る。

 三四郎は上から、二人を見おろしていた。二人は枝のすきから明らかな日向ひなたへ出て来た。黙っていると、前を通り抜けてしまう。三四郎は声をかけようかと考えた。距離があまり遠すぎる。急いで二、三歩芝の上を裾の方へ降りた。降り出すといいぐあいに女の一人がこっちを向いてくれた。三四郎はそれでとまった。じつはこちらからあまりごきげんをとりたくない。運動会が少ししやくにさわっている。

 「あんな所に……」とよし子が言いだした。驚いて笑っている。この女はどんなちんなものを見ても珍しそうな目つきをするように思われる。その代り、いかな珍しいものに出会っても、やはり待ち受けていたような目つきで迎えるかと想像される。だからこの女に会うと重苦しいところが少しもなくって、しかもおちついた感じが起こる。三四郎は立ったまま、これはまったく、この大きな、常にぬれている、黒いひとみのおかげだと考えた。

 美禰子も留まった。三四郎を見た。しかしその目はこの時にかぎって何物をも訴えていなかった。まるで高い木をながめるような目であった。三四郎は心のうちで、火の消えたランプを見る心持ちがした。もとの所に立ちすくんでいる。美禰子も動かない。

 「なぜ競技を御覧にならないの」とよし子が下から聞いた。

 「今まで見ていたんですが、つまらないからやめて来たのです」

 よし子は美禰子を顧みた。美禰子はやはり顔色を動かさない。三四郎は、

 「それより、あなたがたこそなぜ出て来たんです。たいへん熱心に見ていたじゃありませんか」と当てたような当てないようなことを大きな声で言った。美禰子はこの時はじめて、少し笑った。三四郎にはその笑いの意味がよくわからない。二歩ばかり女の方に近づいた。

 「もううちへ帰るんですか」

 女は二人とも答えなかった。三四郎はまた二歩ばかり女の方へ近づいた。

 「どこかへ行くんですか」

 「ええ、ちょっと」と美禰子が小さな声で言う。よく聞こえない。三四郎はとうとう女の前まで降りて来た。しかしどこへ行くとも追窮もしないで立っている。会場の方で喝采の声が聞こえる。

 「高飛びよ」とよし子が言う。「今度は何メートルになったでしょう」

 美禰子は軽く笑ったばかりである。三四郎も黙っている。三四郎は高飛びに口を出すのをいさぎよしとしないつもりである。すると美禰子が聞いた。

 「この上には何かおもしろいものがあって?」

 この上には石があって、崖があるばかりである。おもしろいものがありようはずがない。

 「なんにもないです」

 「そう」と疑いを残したように言った。

 「ちょいと上がってみましょうか」よし子が、快く言う。

 「あなた、まだここを御存じないの」と相手の女はおちついて出た。

 「いいからいらっしゃいよ」

 よし子は先へ上る。二人はまたついて行った。よし子は足を芝生のはしまで出して、振り向きながら、

 「絶壁ね」と大げさな言葉を使った。「サッフォーでも飛び込みそうな所じゃありませんか」

 美禰子と三四郎は声を出して笑った。そのくせ三四郎はサッフォーがどんな所から飛び込んだかよくわからなかった。

 「あなたも飛び込んでごらんなさい」と美禰子が言う。

 「私? 飛び込みましょうか。でもあんまり水がきたないわね」と言いながら、こっちへ帰って来た。

 やがて女二人のあいだに用談が始まった。

 「あなた、いらしって」と美禰子が言う。

 「ええ。あなたは」とよし子が言う。

 「どうしましょう」

 「どうでも。なんならわたしちょっと行ってくるから、ここに待っていらっしゃい」

 「そうね」

 なかなか片づかない。三四郎が聞いてみると、よし子が病院の看護婦のところへ、ついでだから、ちょっと礼に行ってくるんだと言う。美禰子はこの夏自分のしんせきが入院していた時近づきになった看護婦を尋ねれば尋ねるのだが、これは必要でもなんでもないのだそうだ。

 よし子は、すなおに気の軽い女だから、しまいに、すぐ帰って来ますと言い捨てて、はやあしに一人丘を降りて行った。止めるほどの必要もなし、いっしょに行くほどの事件でもないので、二人はしぜん後にのこるわけになった。二人の消極な態度からいえば、のこるというより、のこされたかたちにもなる。

 三四郎はまた石に腰をかけた。女は立っている。秋の日は鏡のように濁った池の上に落ちた。中に小さな島がある。島にはただ二本の木がはえている。青いまつと薄い紅葉がぐあいよく枝をかわし合って、箱庭の趣がある。島を越して向こう側の突き当りがこんもりとどす黒く光っている。女は丘の上からその暗いかげを指さした。

 「あの木を知っていらしって」と言う。

 「あれはしい

 女は笑い出した。

 「よく覚えていらっしゃること」

 「あの時の看護婦ですか、あなたが今尋ねようと言ったのは」

 「ええ」

 「よし子さんの看護婦とは違うんですか」

 「違います。これは椎──といった看護婦です」

 今度は三四郎が笑い出した。

 「あすこですね。あなたがあの看護婦といっしょに団扇うちわを持って立っていたのは」

 二人のいる所は高く池の中に突き出している。この丘とはまるで縁のない小山が一段低く、右側を走っている。大きな松と御殿のひとかどと、運動会の幕の一部と、なだらかな芝生が見える。

 「熱い日でしたね。病院があんまり暑いものだから、とうとうこらえきれないで出てきたの。──あなたはまたなんであんな所でしゃがんでいらしったんです」

 「熱いからです。あの日ははじめて野々宮さんに会って、それから、あすこへ来てぼんやりしていたのです。なんだか心細くなって」

 「野々宮さんにお会いになってから、心細くおなりになったの」

 「いいえ、そういうわけじゃない」と言いかけて、美禰子の顔を見たが、急に話頭を転じた。

 「野々宮さんといえば、きょうはたいへん働いていますね」

 「ええ、珍しくフロックコートをお着になって──ずいぶん御迷惑でしょう。朝から晩までですから」

 「だってだいぶ得意のようじゃありませんか」

 「だれが、野々宮さんが。──あなたもずいぶんね」

 「なぜですか」

 「だって、まさか運動会の計測係りになって得意になるようなかたでもないでしょう」

 三四郎はまた話頭を転じた。

 「さっきあなたの所へ来て何か話していましたね」

 「会場で?」

 「ええ、運動会の柵の所で」と言ったが、三四郎はこの問を急に撤回したくなった。女は「ええ」と言ったまま男の顔をじっと見ている。少ししたくちびるをそらして笑いかけている。三四郎はたまらなくなった。何か言ってまぎらそうとした時に、女は口を開いた。

 「あなたはまだこのあいだの絵はがきの返事をくださらないのね」

 三四郎はまごつきながら「あげます」と答えた。女はくれともなんとも言わない。

 「あなた、はらぐちさんという画工えかきを御存じ?」と聞き直した。

 「知りません」

 「そう」

 「どうかしましたか」

 「なに、その原口さんが、きょう見に来ていらしってね、みんなを写生しているから、私たちも用心しないと、ポンチにかかれるからって、野々宮さんがわざわざ注意してくだすったんです」

 美禰子はそばへ来て腰をかけた。三四郎は自分がいかにも愚物のような気がした。

 「よし子さんはにいさんといっしょに帰らないんですか」

 「いっしょに帰ろうったって帰れないわ。よし子さんは、きのうから私の家にいるんですもの」

 三四郎はその時はじめて美禰子から野々宮のおっかさんが国へ帰ったということを聞いた。おっかさんが帰ると同時に、大久保を引き払って、野々宮さんは下宿をする、よし子は当分美禰子のうちから学校へ通うことに、相談がきまったんだそうである。

 三四郎はむしろ野々宮さんの気楽なのに驚いた。そうたやすく下宿生活にもどるくらいなら、はじめから家を持たないほうがよかろう。第一鍋、かまおけなどというしよたい道具の始末はどうつけたろうと、よけいなことまで考えたが、口に出して言うほどのことでもないから、べつだんの批評は加えなかった。そのうえ、野々宮さんが一家の主人あるじから、あともどりをして、ふたたび純書生と同様な生活状態に復するのは、とりもなおさず家族制度から一歩遠のいたと同じことで、自分にとっては、目前の迷惑を少し長距離へ引き移したような好都合にもなる。その代りよし子が美禰子の家へ同居してしまった。このきようだいは絶えず往来していないと治まらないようにできあがっている。絶えず往来しているうちには野々宮さんと美禰子との関係も次第次第に移ってくる。すると野々宮さんがまたいつなんどき下宿生活を永久にやめる時機がこないともかぎらない。

 三四郎は頭のなかに、こういう疑いある未来を、描きながら、美禰子と応対をしている。いっこうに気が乗らない。それを外部の態度だけでも普通のごとくつくろおうとすると苦痛になってくる。そこへうまいぐあいによし子が帰ってきてくれた。女同志のあいだには、もう一ぺん競技を見に行こうかという相談があったが、短くなりかけた秋の日がだいぶ回ったのと、回るにつれて、広い戸外のはださむがようやく増してくるので、帰ることに話がきまる。

 三四郎も女れんに別れて下宿へもどろうと思ったが、三人が話しながら、ずるずるべったりに歩き出したものだから、きわだったあいさつをする機会がない。二人は自分を引っ張ってゆくようにみえる。自分もまた引っ張られてゆきたいような気がする。それで二人にくっついて池のはたを図書館の横から、方角違いの赤門の方へ向いてきた。そのとき三四郎は、よし子に向かって、

 「おあにいさんは下宿をなすったそうですね」と聞いたら、よし子は、すぐ、

 「ええ。とうとう。ひとを美禰子さんの所へ押しつけておいて。ひどいでしょう」と同意を求めるように言った。三四郎は何か返事をしようとした。そのまえに美禰子が口を開いた。

 「宗八さんのようなかたは、我々の考えじゃわかりませんよ。ずっと高い所にいて、大きな事を考えていらっしゃるんだから」と大いに野々宮さんをほめだした。よし子は黙って聞いている。

 学問をする人がうるさい俗用を避けて、なるべく単純な生活にがまんするのは、みんな研究のためやむをえないんだからしかたがない。野々宮のような外国にまで聞こえるほどの仕事をする人が、普通の学生同様な下宿にはいっているのもひつきよう野々宮が偉いからのことで、下宿がきたなければきたないほど尊敬しなくってはならない。──美禰子の野々宮に対する賛辞のつづきは、ざっとこうである。

 三四郎は赤門の所で二人に別れた。おいわけの方へ足を向けながら考えだした。──なるほど美禰子の言ったとおりである。自分と野々宮を比較してみるとだいぶ段が違う。自分は田舎から出て大学へはいったばかりである。学問という学問もなければ、見識という見識もない。自分が、野々宮に対するほどな尊敬を美禰子から受けえないのは当然である。そういえばなんだか、あの女からばかにされているようでもある。さっき、運動会はつまらないから、ここにいると、丘の上で答えた時に、美禰子はまじめな顔をして、この上には何かおもしろいものがありますかと聞いた。あの時は気がつかなかったが、いま解釈してみると、故意に自分をろうした言葉かもしれない。──三四郎は気がついて、きょうまで美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返してみると、どれもこれもみんな悪い意味がつけられる。三四郎は往来のまん中でまっ赤になってうつむいた。ふと、顔を上げると向こうから、与次郎とゆうべの会で演説をした学生が並んで来た。与次郎は首を縦に振ったぎり黙っている。学生は帽子をとって礼をしながら、

 「昨夜は。どうですか。とらわれちゃいけませんよ」と笑って行き過ぎた。

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