三四郎の魂がふわつき出した。講義を聞いていると、遠方に聞こえる。わるくすると肝要な事を書き落とす。はなはだしい時はひとの耳を損料で借りているような気がする。三四郎はばかばかしくてたまらない。かたなしに、与次郎に向かって、どうも近ごろは講義がおもしろくないと言い出した。与次郎の答はいつも同じことであった。

 「講義がおもしろいわけがない。君はいなか者だから、いまに偉い事になると思って、こんにちまでしんぼうして聞いていたんだろう。愚の至りだ。彼らの講義はかいびやく以来こんなものだ。いまさら失望したってしかたがないや」

 「そういうわけでもないが……」三四郎は弁解する。与次郎のへらへら調と、三四郎の重苦しい口のききようが、つりあいではなはだおかしい。

 こういう問答を二、三度繰り返しているうちに、いつのまにかはんつきばかりたった。三四郎の耳はぜんぜん借りものでないようになってきた。すると今度は与次郎のほうから、三四郎に向かって、

 「どうも妙な顔だな。いまにも生活に疲れているような顔だ。世紀末の顔だ」と批評し出した。三四郎は、この批評に対しても依然として、

 「そういうわけでもないが……」を繰り返していた。三四郎は世紀末などという言葉を聞いてうれしがるほどに、まだ人工的の空気に触れていなかった。またこれを興味ある玩具おもちやとして使用しうるほどに、ある社会の消息に通じていなかった。ただ生活に疲れているという句が少し気にいった。なるほど疲れだしたようでもある。三四郎はのためばかりとは思わなかった。けれども大いに疲れた顔をひようぼうするほど、人生観のハイカラでもなかった。それでこの会話はそれぎり発展しずに済んだ。

 そのうち秋は高くなる。食欲は進む。二十三の青年がとうてい人生に疲れていることができない時節が来た。三四郎はよく出る。大学の池の周囲まわりもだいぶん回ってみたが、べつだんの変もない。病院の前も何べんとなく往復したが普通の人間に会うばかりである。また理科大学の穴倉へ行って野々宮君に聞いてみたら、妹はもう病院を出たと言う。玄関で会った女の事を話そうと思ったが、が忙しそうなので、つい遠慮してやめてしまった。今度大久保へ行ってゆっくり話せば、名前もじようもたいてはわかることだから、せかずに引き取った。そうして、ふわふわして方々歩いている。ばただの、どうかんやまだの、そめの墓地だの、がもの監獄だの、こくだの、──三四郎はあらやくまでも行った。新井の薬師の帰りに、大久保へ出て野々宮君の家へ回ろうと思ったら、おちあいの辺で道を間違えて、たかへ出たので、じろから汽車へ乗って帰った。汽車の中でみやげに買ったくりを一人でさんざん食った。その余りはあくる日与次郎が来て、みんな平らげた。

 三四郎はふわふわすればするほど愉快になってきた。初めのうちはあまり講義に念を入れ過ぎたので、耳が遠くなって筆記に困ったが、近ごろはたいていに聞いているからなんともない。講義中にいろいろな事を考える。少しぐらい落としても惜しい気も起こらない。よく観察してみると与次郎はじめみんな同じことである。三四郎はこれくらいでいいものだろうと思い出した。

 三四郎がいろいろ考えるうちに、時々例のリボンが出てくる。そうすると気がかりになる。はなはだ不愉快になる。すぐ大久保へ出かけてみたくなる。しかし想像の連鎖やら、外界の刺激やらで、しばらくするとまぎれてしまう。だからだいたいはのん気である。それで夢を見ている。大久保へはなかなか行かない。

 ある日の午後三四郎は例のごとくぶらついて、だんざかの上から、左へ折れてせんはやしちようの広い通りへ出た。秋晴れといって、このごろは東京の空もいなかのように深く見える。こういう空の下に生きていると思うだけでも頭ははっきりする。そのうえ、野へ出れば申し分はない。気がのびのびして魂が大空ほどの大きさになる。それでいてからだ総体がしまってくる。だらしのない春ののどかさとは違う。三四郎は左右のいけがきをながめながら、生まれてはじめての東京の秋をかぎつつやって来た。

 坂下では菊人形が二、三日前開業したばかりである。坂を曲がる時はのぼりさえ見えた。今はただ声だけ聞こえる。どんちゃんどんちゃん遠くからはやしている。そのはやしの音が、下の方から次第に浮き上がってきて、澄み切った秋の空気の中へ広がり尽くすと、ついにはきわめて稀薄な波になる。そのまた余波が三四郎のまくのそばまで来てしぜんにとまる。騒がしいというよりはかえっていい心持ちである。

 時に突然左の横町から二人あらわれた。その一人が三四郎を見て、「おい」と言う。

 与次郎の声はきょうにかぎって、ちようめんである。その代りつれがある。三四郎はその連を見た時、はたして日ごろの推察どおり、青木堂で茶を飲んでいた人が、広田さんであるということを悟った。この人とはすいみつとう以来妙な関係がある。ことに青木堂で茶を飲んで煙草をのんで、自分を図書館に走らしてよりこのかた、いっそうよく記憶にしみている。いつ見てもかんぬしのような顔に西洋人の鼻をつけている。きょうもこのあいだの夏服で、べつだん寒そうな様子もない。

 三四郎はなんとか言って、あいさつをしようと思ったが、あまり時間がたっているので、どう口をきいていいかわからない。ただ帽子を取って礼をした。与次郎に対しては、あまり丁寧すぎる。広田に対しては、少し簡略すぎる。三四郎はどっちつかずの中間にでた。すると与次郎が、すぐ、

 「この男は私の同級生です。熊本の高等学校からはじめて東京へ出て来た──」と聞かれもしないさきからいなか者をふいちようしておいて、それから三四郎の方を向いて、

 「これが広田先生。高等学校の……」とわけもなくそうほうを紹介してしまった。

 この時広田先生は「知ってる、知ってる」と二へん繰り返して言ったので、与次郎は妙な顔をしている。しかしなぜ知ってるんですかなどとめんどうな事は聞かなかった。ただちに、

 「君、この辺に貸家〔*〕はないか。広くて、きれいな、書生部屋のある」と尋ねだした。

 「貸家はと……ある」

 「どの辺だ。きたなくっちゃいけないぜ」

 「いやきれいなのがある。大きな石の門〔*〕が立っているのがある」

 「そりゃうまい。どこだ。先生、石の門はいいですな。ぜひそれにしようじゃありませんか」と与次郎は大いに進んでいる。

 「石の門はいかん」と先生が言う。

 「いかん? そりゃ困る。なぜいかんです」

 「なぜでもいかん」

 「石の門はいいがな。新しい男爵〔*〕のようでいいじゃないですか、先生」

 与次郎はまじめである。広田先生はにやにや笑っている。とうとうまじめのほうが勝って、ともかくも見ることに相談ができて、三四郎が案内をした。

 横町をあとへ引き返して、裏通りへ出ると、半町ばかり北へ来た所に、突き当りと思われるようなこうがある。その小路の中へ三四郎は二人を連れ込んだ。まっすぐに行くと植木屋の庭へ出てしまう。三人は入口の五、六間手前でとまった。右手にかなり大きなかげの柱が二本立っている。とびらは鉄である。三四郎がこれだと言う。なるほど貸家札がついている。

 「こりゃ恐ろしいもんだ」と言いながら、与次郎は鉄の扉をうんと押したが、錠がおりている。「ちょっとお待ちなさい聞いてくる」と言うやいなや、与次郎は植木屋の奥の方へ駆け込んで行った。広田と三四郎は取り残されたようなものである。二人で話を始めた。

 「東京はどうです」

 「ええ……」

 「広いばかりできたない所でしょう」

 「ええ……」

 「富士山に比較するようなものはなんにもないでしょう」

 三四郎は富士山の事をまるで忘れていた。広田先生の注意によって、汽車の窓からはじめてながめた富士は、考え出すと、なるほど崇高なものである。ただ今自分の頭の中にごたごたしているそうとは、とても比較にならない。三四郎はあの時の印象をいつのまにか取り落していたのを恥ずかしく思った。すると、

 「君、さんを翻訳してみたことがありますか」と意外な質問を放たれた。

 「翻訳とは……」

 「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうからおもしろい。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」

 三四郎は翻訳の意味を了した。

 「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳することのできないものには、自然がごうも人格上の感化を与えていない」

 三四郎はまだあとがあるかと思って、黙って聞いていた。ところが広田さんはそれでやめてしまった。植木屋の奥の方をのぞいて、

 「佐々木は何をしているのかしら。おそいな」とひとりごとのように言う。

 「見てきましょうか」と三四郎が聞いた。

 「なに、見にいったって、それで出てくるような男じゃない。それよりここに待ってるほうが手間がかからないでいい」と言ってからたちの垣根の下にしゃがんで、小石を拾って、土の上へ何かかき出した。のん気なことである。与次郎ののん気とは方角が反対で、程度がほぼ相似ている。

 ところへ植込みの松の向こうから、与次郎が大きな声を出した。

 「先生先生」

 先生は依然として、何かかいている。どうもとうみようだいのようである。返事をしないので、与次郎はしかたなしに出て来た。

 「先生ちょっと見てごらんなさい。いいうちだ。この植木屋で持ってるんです。門をあけさせてもいいが、裏から回ったほうが早い」

 三人は裏から回った。雨戸をあけて、ひとひと見て歩いた。中流の人が住んで恥ずかしくないようにできている。家賃が四十円で、敷金が三か月分だという。三人はまた表へ出た。

 「なんで、あんなりっぱな家を見るのだ」と広田さんが言う。

 「なんで見るって、ただ見るだけだからいいじゃありませんか」と与次郎は言う。

 「借りもしないのに……」

 「なに借りるつもりでいたんです。ところが家賃をどうしても二十五円にしようと言わない……」

 広田先生は「あたりまえさ」と言ったぎりである。すると与次郎が石の門の歴史を話し出した。このあいだまである出入りの屋敷の入口にあったのを、改築のときもらってきて、すぐあすこへ立てたのだと言う。与次郎だけに妙な事を研究してきた。

 それから三人はもとの大通りへ出て、どうざかからばたの谷へ降りたが、降りた時分には三人ともただ歩いている。貸家の事はみんな忘れてしまった。ひとり与次郎が時々石の門のことを言う。こうじまちからあれを千駄木まで引いてくるのに、手間が五円ほどかかったなどと言う。あの植木屋はだいぶ金持ちらしいなどとも言う。あすこへ四十円の貸家を建てて、ぜんたいだれが借りるだろうなどとよけいなことまで言う。ついには、いまに借手がなくなってきっと家賃を下げるに違いないから、その時もう一ぺん談判してぜひ借りようじゃありませんかという結論であった。広田先生はべつに、そういう了見もないとみえて、こう言った。

 「君が、あんまりよけいな話ばかりしているものだから、時間がかかってしかたがない。いいかげんにして出てくるものだ」

 「よほど長くかかりましたか。何か絵をかいていましたね。先生もずいぶんのん気だな」

 「どっちがのんきかわかりゃしない」

 「ありゃなんの絵です」

 先生は黙っている。その時三四郎がまじめな顔をして、

 「燈台じゃないですか」と答えた。かき手と与次郎は笑い出した。

 「燈台は奇抜だな。じゃ野々宮宗八さんをかいていらしったんですね」

 「なぜ」

 「野々宮さんは外国じゃ光っているが、日本じゃまっ暗だから。──だれもまるで知らない。それでわずかばかりの月給をもらって、穴倉へたてこもって、──じつに割に合わない商売だ。野々宮さんの顔を見るたびに気の毒になってたまらない」

 「君なぞは自分のすわっている周囲方二尺ぐらいの所をぼんやり照らすだけだから、まるあんどんのようなものだ」

 丸行燈に比較された与次郎は、突然三四郎の方を向いて、

 「小川君、君は明治何年生まれかな」と聞いた。三四郎は簡単に、

 「ぼくは二十三だ」と答えた。

 「そんなものだろう。──先生ぼくは、丸行燈だの、がんくびだのっていうものが、どうもきらいですがね。明治十五年以後に生まれたせいかもしれないが、なんだか旧式でいやな心持ちがする。君はどうだ」とまた三四郎の方を向く。三四郎は、

 「ぼくはべつだんきらいでもない」と言った。

 「もっとも君は九州のいなかから出たばかりだから、明治元年ぐらいの頭と同じなんだろう」

 三四郎も広田もこれに対してべつだんの挨拶をしなかった。少し行くと古い寺の隣の杉林を切り倒して、きれいに地ならしをした上に、青ペンキ塗りの西洋館を建てている。広田先生は寺とペンキ塗りを等分に見ていた。

 「時代錯誤アナクロニズムだ。日本の物質界も精神界もこのとおりだ。君、九段の燈明台を知っているだろう」とまた燈明台が出た。「あれは古いもので、めいしよに出ている」

 「先生冗談言っちゃいけません。なんぼ九段の燈明台が古いたって、江戸名所図会に出ちゃたいへんだ」

 広田先生は笑い出した。じつは東京名所というにしきの間違いだということがわかった。先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残っているそばに、かいこうしや〔*〕という新式のれん作りができた。二つ並べて見るとじつにばかげている。けれどもだれも気がつかない、平気でいる。これが日本の社会を代表しているんだと言う。

 与次郎も三四郎もなるほどと言ったまま、お寺の前を通り越して、五、六町来ると、大きな黒い門がある。与次郎が、ここを抜けてどうかんやまへ出ようと言い出した。抜けてもいいのかと念を押すと、なにこれはたけしもしきで、だれでも通れるんだからかまわないと主張するので、二人ともその気になって門をくぐって、やぶの下を通って古い池のそばまで来ると、番人が出てきて、たいへん三人をしかりつけた。その時与次郎はへいへいと言って番人にあやまった。

 それからなかへ出て、を回って、夕方に本郷の下宿へ帰った。三四郎は近来にない気楽な半日を暮らしたように感じた。

 翌日学校へ出てみると与次郎がいない。昼から来るかと思ったが来ない。図書館へもはいったがやっぱり見当らなかった。五時から六時まで純文科共通の講義がある。三四郎はこれへ出た。筆記するには暗すぎる。電燈がつくには早すぎる。細長い窓の外に見える大きなけやきの枝の奥が、次第に黒くなる時分だから、の中は講師の顔も聴講生の顔も等しくぼんやりしている。したがってくらやみまんじゆうを食うように、なんとなく神秘的である。三四郎は講義がわからないところが妙だと思った。ほおづえを突いて聞いていると、神経がにぶくなって、気が遠くなる。これでこそ講義の価値があるような心持ちがする。ところへ電燈がぱっとついて、万事がややめいりようになった。すると急に下宿へ帰って飯が食いたくなった。先生もみんなの心を察して、いいかげんに講義を切り上げてくれた。三四郎は早足でおいわけまで帰ってくる。

 着物を脱ぎ換えてぜんに向かうと、膳の上に、ちやわんむしといっしょに手紙が一本載せてある。そのうわふうを見たとき、三四郎はすぐ母から来たものだと悟った。すまんことだがこの半月あまり母の事はまるで忘れていた。きのうからきょうへかけては時代錯誤アナクロニズムだの、不二山の人格だの、神秘的な講義だので、例の女の影もいっこう頭の中へ出てこなかった。三四郎はそれで満足である。母の手紙はあとでゆっくり見ることとして、とりあえず食事を済まして、煙草を吹かした。その煙を見るとさっきの講義を思い出す。

 そこへ与次郎がふらりと現われた。どうして学校を休んだかと聞くと、貸家捜しで学校どころじゃないそうである。

 「そんなに急いで越すのか」と三四郎が聞くと、

 「急ぐって先月中に越すはずのところをあさっての天長節まで待たしたんだから、どうしたってあしたじゅうに捜さなければならない。どこか心当りはないか」と言う。

 こんなに忙しがるくせに、きのうは散歩だか、貸家捜しだかわからないようにぶらぶらつぶしていた。三四郎にはほとんどてんがいかない。与次郎はこれを解釈して、それは先生がいっしょだからさと言った。「元来先生が家を捜すなんて間違っている。けっして捜したことのない男なんだが、きのうはどうかしていたに違いない。おかげで佐竹のやしきでひどい目にしかられていいつらの皮だ。──君どこかないか」と急に催促する。与次郎が来たのはまったくそれが目的らしい。よくよく原因を聞いてみると、今の持ち主が高利貸で、家賃をむやみに上げる〔*〕のが、ごうばらだというので、与次郎がこっちからたちのきを宣告したのだそうだ。それでは与次郎に責任があるわけだ。

 「きょうは大久保まで行ってみたが、やっぱりない。──大久保といえば、ついでに宗八さんの所に寄って、よし子さんに会ってきた。かわいそうにまだいろが悪い。──らつきようせいの美人──おっかさんが君によろしく言ってくれってことだ。しかしその後はあの辺も穏やかなようだ。れきもあれぎりないそうだ」

 与次郎の話はそれから、それへと飛んで行く。平生から締まりのないうえに、きょうは捜しで少しせきこんでいる。話が一段落つくと、相の手のように、どこかないかないかと聞く。しまいには三四郎も笑い出した。

 そのうち与次郎のしりが次第におちついてきて、燈火親しむべしなどという漢語さえ借用してうれしがるようになった。話題ははしなく広田先生の上に落ちた。

 「君の所の先生の名はなんというのか」

 「名はちよう」と指で書いて見せて、「くさかんむりがよけいだ。字引にあるかしらん。妙な名をつけたものだね」と言う。

 「高等学校の先生か」

 「昔からこんにちに至るまで高等学校の先生。えらいものだ。十年一じつのごとしというが、もう十二、三年になるだろう」

 「子供はおるのか」

 「子供どころか、まだひとりだ」

 三四郎は少し驚いた。あの年まで一人でいられるものかとも疑った。

 「なぜ奥さんをもらわないのだろう」

 「そこが先生の先生たるところで、あれでたいへんな理論家なんだ。さいくんをもらってみないさきから、細君はいかんものと理論できまっているんだそうだ。愚だよ。だからしじゅうじゆんばかりしている。先生、東京ほどきたない所はないように言う。それで石の門を見ると恐れをなして、いかんいかんとか、りっぱすぎるとか言うだろう」

 「じゃ細君も試みに持ってみたらよかろう」

 「大いによしとかなんとか言うかもしれない」

 「先生は東京がきたないとか、日本人が醜いとか言うが、洋行でもしたことがあるのか」

 「なにするもんか。ああいう人なんだ。万事頭のほうが事実より発達しているんだからああなるんだね。その代り西洋は写真で研究している。パリのがいせんもんだの、ロンドンの議事堂だの、たくさん持っている。あの写真で日本を律するんだからたまらない。きたないわけさ。それで自分の住んでる所は、いくらきたなくっても存外平気だから不思議だ」

 「三等汽車へ乗っておったぞ」

 「きたないきたないって不平を言やしないか」

 「いやべつに不平も言わなかった」

 「しかし先生は哲学者だね」

 「学校で哲学でも教えているのか」

 「いや学校じゃ英語だけしか受け持っていないがね、あの人間が、おのずから哲学にできあがっているからおもしろい」

 「著述でもあるのか」

 「何もない。時々論文を書く事はあるが、ちっとも反響がない。あれじゃだめだ。まるで世間が知らないんだからしようがない。先生、ぼくの事をまるあんどんだと言ったが、ふう自身は偉大な暗闇だ」

 「どうかして、世の中へ出たらよさそうなものだな」

 「出たらよさそうなものだって、──先生、自分じゃなんにもやらない人だからね。第一ぼくがいなけりゃ三度の飯さえ食えない人なんだ」

 三四郎はまさかといわぬばかりに笑い出した。

 「うそじゃない。気の毒なほどなんにもやらないんでね。なんでも、ぼくが下女に命じて、先生の気にいるように始末をつけるんだが──そんなまつな事はとにかく、これから大いに活動して、先生を一つ大学教授にしてやろうと思う」

 与次郎はまじめである。三四郎はそのたいげんに驚いた。驚いてもかまわない。驚いたままに進行して、しまいに、

 「引っ越しをする時はぜひ手伝いに来てくれ」と頼んだ。まるで約束のできた家がとうからあるごときこうふんである。

 与次郎の帰ったのはかれこれ十時近くである。一人ですわっていると、どことなくはださむの感じがする。ふと気がついたら、机の前の窓がまだたてずにあった。障子をあけると月夜だ。目に触れるたびに不愉快なひのきに、青い光りがさして、黒い影の縁が少し煙って見える。檜に秋が来たのは珍しいと思いながら、雨戸をたてた。

 三四郎はすぐとこへはいった。三四郎は勉強家というよりむしろていかいなので、わりあい書物を読まない。その代りあるきくすべき情景にあうと、何べんもこれを頭の中で新たにして喜んでいる。そのほうが命におくゆきがあるような気がする。きょうも、いつもなら、神秘的講義の最中に、ぱっと電燈がつくところなどを繰り返してうれしがるはずだが、母の手紙があるので、まず、それから片づけ始めた。

 手紙にはしんぞうはちみつをくれたから、しようちゆうを混ぜて、毎晩杯に一杯ずつ飲んでいるとある。新蔵は家の小作人で、毎年冬になるとねんまいを二十俵ずつ持ってくる。いたって正直者だが、かんしやくが強いので、時々女房をまきでなぐることがある。──三四郎は床の中で新蔵が蜂を飼い出した昔の事まで思い浮かべた。それは五年ほどまえである。裏のしいの木に蜜蜂が二、三百匹ぶら下がっていたのを見つけてすぐもみじように酒を吹きかけて、ことごとくいけどりにした。それからこれを箱へ入れて、はいりのできるような穴をあけて、日当りのいい石の上に据えてやった。すると蜂がだんだんふえてくる。箱が一つでは足りなくなる。二つにする。また足りなくなる。三つにする。というふうにふやしていった結果、今ではなんでも六箱か七箱ある。そのうちの一箱を年に一度ずつ石からおろして蜂のために蜜を切り取るといっていた。まいとし夏休みに帰るたびに蜜をあげましょうと言わないことはないが、ついに持ってきたためしがなかった。が、としは物覚えが急によくなって、年来の約束を履行したものであろう。

 へいろうがおやじのせきとうを建てたから見にきてくれろと頼みにきたとある。行ってみると、木も草もはえていない庭の赤土のまん中に、かげいしでできていたそうである。平太郎はその御影石が自慢なのだと書いてある。山から切り出すのにいくとかかかって、それから石屋に頼んだら十円取られた。百姓や何かにはわからないが、あなたのとこのわかだんは大学校へはいっているくらいだから、石のよしあしはきっとわかる。今度手紙のついでに聞いてみてくれ、そうして十円もかけておやじのためにこしらえてやった石塔をほめてもらってくれと言うんだそうだ。──三四郎はひとりでくすくす笑い出した。千駄木の石門よりよほど激しい。

 大学の制服を着た写真をよこせとある。三四郎はいつかってやろうと思いながら、次へ移ると、案のごとく三輪田のお光さんが出てきた。──このあいだお光さんのおっかさんが来て、三四郎さんもきんきん大学を卒業なさることだが、卒業したらうちの娘をもらってくれまいかという相談であった。お光さんは器量もよしだても優しいし、家にでんもだいぶあるし、その上家と家との今までの関係もあることだから、そうしたら双方ともつごうがよいだろうと書いて、そのあとへ但し書きがつけてある。──お光さんもうれしがるだろう。──東京の者はごころが知れないから私はいやじゃ。

 三四郎は手紙を巻き返して、封に入れて、まくらもとへ置いたまま目を眠った。ねずみが急にてんじようであばれだしたが、やがて静まった。

 三四郎には三つの世界ができた。一つは遠くにある。与次郎のいわゆる明治十五年以前のがする。すべてが平穏である代りにすべてが寝ぼけている。もっとも帰るに世話はいらない。もどろうとすれば、すぐにもどれる。ただいざとならない以上はもどる気がしない。いわばたち退のきのようなものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さえここに葬ったかと思うと、急にもったいなくなる。そこで手紙が来た時だけは、しばらくこの世界に低徊して旧歓をあたためる。

 第二の世界のうちには、こけのはえた煉瓦造りがある。片すみから片すみを見渡すと、向こうの人の顔がよくわからないほどに広い閲覧室がある。はしをかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手ずれ、指のあかで、黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もったちりがある。この塵は二、三十年かかってようやく積もった尊い塵である。静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵である。

 第二の世界に動く人の影を見ると、たいていしようひげをはやしている。ある者は空を見て歩いている。ある者はうついて歩いている。は必ずきたない。生計くらしはきっと貧乏である。そうしてあんじよとしている。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸してはばからない。このなかに入る者は、現世を知らないから不幸で、たくをのがれるから幸いである。広田先生はこの内にいる。野々宮君もこの内にいる。三四郎はこの内の空気をほぼしえた所にいる。出れば出られる。しかしせっかく解しかけた趣味を思いきって捨てるのも残念だ。

 第三の世界はさんとして春のごとくうごいている。電燈がある。ぎんさじがある。歓声がある。笑語がある。あわつシャンパンの杯がある。そうしてすべての上の冠として美しいによしようがある。三四郎はその女性の一人ひとりに口をきいた。一人を二へん見た。この世界は三四郎にとって最も深厚な世界である。この世界は鼻の先にある。ただ近づき難い。近づき難い点において、天外のいなずまと一般である。三四郎は遠くからこの世界をながめて、不思議に思う。自分がこの世界のどこかへはいらなければ、その世界のどこかに欠陥ができるような気がする。自分はこの世界のどこかの主人公であるべき資格を有しているらしい。それにもかかわらず、円満の発達をこいねがうべきはずのこの世界がかえってみずからを束縛して、自分が自由に出入すべき通路をふさいでいる。三四郎にはこれが不思議であった。

 三四郎は床のなかで、この三つの世界を並べて、互いに比較してみた。次にこの三つの世界をかき混ぜて、そのなかから一つの結果を得た。──要するに、国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問にゆだねるにこしたことはない。

 結果はすこぶる平凡である。けれどもこの結果に到着するまえにいろいろ考えたのだから、思索の労力を打算して、結論の価値をしようしやすい思索家自身からみると、それほど平凡ではなかった。

 ただこうすると広い第三の世界をびようたる一個の細君で代表させることになる。美しい女性はたくさんある。美しい女性を翻訳するといろいろになる。──三四郎は広田先生にならって、翻訳という字を使ってみた。──いやしくも人格上の言葉に翻訳のできるかぎりは、その翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を全からしむるために、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。細君一人を知って甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にするようなものである。

 三四郎は論理をここまで延長してみて、少し広田さんにかぶれたなと思った。実際のところは、これほど痛切に不足を感じていなかったからである。

 翌日学校へ出ると講義は例によってつまらないが、室内の空気は依然として俗を離れているので、午後三時までのあいだに、すっかり第二の世界の人となりおおせて、さも偉人のような態度をもって、追分の交番の前まで来ると、ばったり与次郎に出会った。

 「アハハハ。アハハハ」

 偉人の態度はこれがためにまったくくずれた。交番の巡査さえ薄笑いをしている。

 「なんだ」

 「なんだもないものだ。もう少し普通の人間らしく歩くがいい。まるでロマンチック・アイロニーだ」

 三四郎にはこの洋語の意味がよくわからなかった。しかたがないから、

 「家はあったか」と聞いた。

 「その事で今君の所へ行ったんだ──あすいよいよ引っ越す。手伝いに来てくれ」

 「どこへ越す」

 「西にしかたまち十番地への三号〔*〕。九時までに向こうへ行ってそうをしてね。待っててくれ。あとから行くから。いいか、九時までだぜ。への三号だよ。失敬」

 与次郎は急いで行き過ぎた。三四郎も急いで下宿へ帰った。その晩取って返して、図書館でロマンチック・アイロニーという句を調べてみたら、ドイツのシュレーゲルが唱えだした言葉で、なんでも天才というものは、目的も努力もなく、終日ぶらぶらぶらついていなくってはだめだという説だと書いてあった。三四郎はようやく安心して、下宿へ帰って、すぐ寝た。

 あくる日は約束だから、天長節にもかかわらず、例刻に起きて、学校へ行くつもりで西片町十番地へはいって、への三号を調べてみると、妙に細い通りの中ほどにある。古い家だ。

 玄関の代りに西洋間が一つ突き出していて、それとかぎの手に座敷がある。座敷のうしろが茶の間で、茶の間の向こうが勝手、下女部屋と順に並んでいる。ほかに二階がある。ただし何畳だかわからない。

 三四郎は掃除を頼まれたのだが、べつに掃除をする必要もないと認めた。むろんきれいじゃない。しかし何といって、取って捨てべきものも見当らない。しいて捨てれば畳建具ぐらいなものだと考えながら、雨戸だけをあけて、座敷のえんがわへ腰をかけて庭をながめていた。

 大きなひやくじつこうがある。しかしこれは根が隣にあるので、幹の半分以上が横にすぎがきから、こっちの領分をおかしているだけである。大きな桜がある。これはたしかに垣根の中にはえている。その代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。菊が一株ある。けれどもかんぎくとみえて、いっこう咲いていない。このほかにはなんにもない。気の毒のような庭である。ただ土だけは平らで、が細かではなはだ美しい。三四郎は土を見ていた。じっさい土を見るようにできた庭である。

 そのうち高等学校で天長節の式の始まるベルが鳴りだした。三四郎はベルを聞きながら九時がきたんだろうと考えた。何もしないでいても悪いから、桜の枯葉でも掃こうかしらんとようやく気がついた時、またほうきがないということを考えだした。また椽側へ腰をかけた。かけて二分もしたかと思うと、庭木戸がすうとあいた。そうして思いもよらぬ池の女が庭の中にあらわれた。

 二方はいけがきで仕切ってある。四角な庭は十坪に足りない。三四郎はこの狭い囲いの中に立った池の女を見るやいなや、たちまち悟った。──花は必ずって、へいにながむべきものである。

 この時三四郎の腰は椽側を離れた。女は折戸を離れた。

 「失礼でございますが……」

 女はこの句を冒頭に置いてしやくした。腰から上を例のとおり前へ浮かしたが、顔はけっして下げない。会釈しながら、三四郎を見つめている。女のが正面から見ると長く延びた。同時にその目が三四郎のひとみに映った。

 二、三日まえ三四郎は美学の教師からグルーズの絵を見せてみらった。その時美学の教師が、この人のかいた女の肖像はことごとくヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した。ヴォラプチュアス! 池の女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。何か訴えている。えんなるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。甘いものにえうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである。しかもこの女にグルーズの絵と似たところは一つもない。目はグルーズのより半分も小さい。

 「広田さんのおになるのは、こちらでございましょうか」

 「はあ、ここです」

 女の声の調子に比べると、三四郎の答はすこぶるぶっきらぼうである。三四郎も気がついている。けれどもほかに言いようがなかった。

 「まだお移りにならないんでございますか」女の言葉ははっきりしている。普通のようにあとを濁さない。

 「まだ来ません。もう来るでしょう」

 女はしばしためらった。手に大きなバスケツトをさげている。女の着物は例によって、わからない。ただいつものように光らないだけが目についた。地がなんだかぶつぶつしている。それにしまだか模様だかある。その模様がいかにもでたらめである。

 上から桜の葉が時々落ちてくる。その一つが籃のふたの上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれていった。風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。

 「あなたは……」

 風が隣へ越した時分、女が三四郎に聞いた。

 「掃除に頼まれて来たのです」と言ったが、現に腰をかけてぽかんとしていたところを見られたのだから、三四郎は自分でおかしくなった。すると女も笑いながら、

 「じゃ私も少しお待ち申しましょうか」と言った。その言い方が三四郎に許諾を求めるように聞こえたので、三四郎は大いに愉快であった。そこで「ああ」と答えた。三四郎の了見では、「ああ、お待ちなさい」と略したつもりである。女はそれでもまだ立っている。三四郎はしかたがないから、

 「あなたは……」と向こうで聞いたようなことをこっちからも聞いた。すると、女は籃を椽の上へ置いて、帯の間から、一枚の名刺を出して、三四郎にくれた。

 名刺にはさととあった。ほんごうさごちようだから谷を越すとすぐ向こうである。三四郎がこの名刺をながめているあいだに、女は椽に腰をおろした。

 「あなたにはお目にかかりましたな」と名刺をたもとへ入れた三四郎が顔をあげた。

 「はあ。いつか病院で……」と言って女もこっちを向いた。

 「まだある」

 「それから池のはたで……」と女はすぐ言った。よく覚えている。三四郎はそれで言う事がなくなった。女は最後に、

 「どうも失礼いたしました」と句切りをつけたので、三四郎は、

 「いいえ」と答えた。すこぶる簡潔である。二人ふたりは桜の枝を見ていた。こずえに虫の食ったような葉がわずかばかり残っている。引っ越しの荷物はなかなかやってこない。

 「なにか先生に御用なんですか」

 三四郎は突然こう聞いた。高い桜の枯枝を余念なくながめていた女は、急に三四郎の方を振り向く。あらびっくしりた、ひどいわ、という顔つきであった。しかし答は尋常である。

 「私もお手伝いに頼まれました」

 三四郎はこの時はじめて気がついて見ると、女の腰をかけている椽に砂がいっぱいたまっている。

 「砂でたいへんだ。着物がよごれます」

 「ええ」と左右をながめたぎりである。腰を上げない。しばらく椽を見回した目を、三四郎に移すやいなや、

 「掃除はもうなすったんですか」と聞いた。笑っている。三四郎はその笑いのなかに慣れやすいあるものを認めた。

 「まだやらんです」

 「お手伝いをして、いっしょに始めましょうか」

 三四郎はすぐに立った。女は動かない。腰をかけたまま、箒やはたきのありかを聞く。三四郎は、ただてぶらで来たのだから、どこにもない、なんなら通りへ行って買ってこようかと聞くと、それはむだだから、隣で借りるほうがよかろうと言う。三四郎はすぐ隣へ行った。さっそく箒とはたきと、それからバケツとぞうきんまで借りて急いで帰ってくると、女は依然としてもとの所へ腰をかけて、高い桜の枝をながめていた。

 「あって……」と一口言っただけである。

 三四郎は箒を肩へかついで、バケツを右の手へぶら下げて「ええありました」とあたりまえのことを答えた。

 女はしろのまま砂だらけの椽側へ上がった。歩くと細い足のあとができる。袂から白い前だれを出して帯の上から締めた。その前だれのふちがレースのようにかがってある。掃除をするにはもったいないほどきれいな色である。女は箒を取った。

 「いったんはき出しましょう」と言いながら、そでの裏から右の手を出して、ぶらつく袂を肩の上へかついだ。きれいな手が二の腕まで出た。かついだ袂のはじからは美しいじゆばんの袖が見える。ぼうぜんとして立っていた三四郎は、突然バケツを鳴らして勝手口へ回った。

 美禰子が掃くあとを、三四郎が雑巾をかける。三四郎が畳をたたくあいだに、美禰子が障子をはたく。どうかこうか掃除がひととおり済んだ時は二人ともだいぶ親しくなった。

 三四郎がバケツの水を取り換えに台所へ行ったあとで、美禰子ははたきと箒を持って二階へ上がった。

 「ちょっと来てください」と上から三四郎を呼ぶ。

 「なんですか」とバケツをさげた三四郎がはしだんの下から言う。女は暗い所に立っている。前だれだけがまっ白だ。三四郎はバケツをさげたまま二、三段上がった。女はじっとしている。三四郎はまた二段上がった。薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺ばかりの距離に来た。

 「なんですか」

 「なんだか暗くってわからないの」

 「なぜ」

 「なぜでも」

 三四郎は追窮する気がなくなった。美禰子のそばをすり抜けて上へ出た。バケツを暗い椽側へ置いて戸をあける。なるほどさんのぐあいがよくわからない。そのうち美禰子も上がってきた。

 「まだあからなくって」

 美禰子は反対の側へ行った。

 「こっちです」

 三四郎は黙って、美禰子の方へ近寄った。もう少しで美禰子の手に自分の手が触れる所で、バケツに蹴つまずいた。大きな音がする。ようやくのことで戸を一枚あけると、強い日がまともにさし込んだ。まぼしいくらいである。二人は顔を見合わせて思わず笑い出した。

 裏の窓もあける。窓には竹のこうがついている。ぬしの庭が見える。鶏を飼っている。美禰子は例のごとく掃き出した。三四郎は四ついになって、あとからき出した。美禰子は箒を両手で持ったまま、三四郎の姿を見て、

 「まあ」と言った。

 やがて、箒を畳の上へなげ出して、裏の窓の所へ行って、立ったままをながめている。そのうち三四郎も拭き終った。ぬれ雑巾をバケツの中へぼちゃんとたたきこんで、美禰子のそばへ来て並んだ。

 「何を見ているんです」

 「あててごらんなさい」

 「とりですか」

 「いいえ」

 「あの大きな木ですか」

 「いいえ」

 「じゃ何を見ているんです。ぼくにはわからない」

 「私さっきからあの白い雲を見ておりますの」

 なるほど白い雲が大きな空を渡っている。空はかぎりなく晴れて、どこまでも青く澄んでいる上を、綿の光ったような濃い雲がしきりに飛んで行く。風の力が激しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、青い地がすいて見えるほどに薄くなる。あるいは吹き散らされながら、塊まって、白く柔かな針を集めたように、ささくれだつ。美禰子はそのかたまりを指さして言った。

 「ちよう襟巻ボーアに似ているでしょう」

 三四郎はボーアという言葉を知らなかった。それで知らないと言った。美禰子はまた、

 「まあ」と言ったが、すぐ丁寧にボーアを説明してくれた。その時三四郎は、

 「うん、あれなら知っとる」と言った。そうして、あの白い雲はみんな雪ので、下から見てあのくらいに動く以上は、ふう以上の速度でなくてはならないと、このあいだ野々宮さんから聞いたとおりを教えた。美禰子は、

 「あらそう」と言いながら三四郎を見たが、

 「雪じゃつまらないわね」と否定を許さぬような調子であった。

 「なぜです」

 「なぜでも、雲は雲でなくっちゃいけないわ。こうして遠くからながめているかいがないじゃありませんか」

 「そうですか」

 「そうですかって、あなたは雪でもかまわなくって」

 「あなたは高い所を見るのが好きなようですな」

 「ええ」

 美禰子は竹の格子の中から、まだ空をながめている。白い雲はあとから、あとから、飛んで来る。

 ところへ遠くから荷車の音が聞こえる。今静かな横町を曲がって、こっちへ近づいて来るのが地響きでよくわかる。三四郎は「来た」と言った。美禰子は「早いのね」と言ったままじっとしている。車の音の動くのが、白い雲の動くのに関係でもあるように耳をすましている。車はおちついた秋の中を容赦なく近づいて来る。やがて門の前へ来てとまった。

 三四郎は美禰子を捨てて二階を駆け降りた。三四郎が玄関へ出るのと、与次郎が門をはいるのとが同時同刻であった。

 「早いな」と与次郎がまず声をかけた。

 「おそいな」と三四郎が答えた。美禰子とは反対である。

 「おそいって、荷物を一度に出したんだからしかたがない。それにぼく一人だから。あとは下女と車屋ばかりでどうすることもできない」

 「先生は」

 「先生は学校」

 二人が話を始めているうちに、車屋が荷物をおろし始めた。下女もはいって来た。台所の方を下女と車屋に頼んで、与次郎と三四郎は書物を西洋間へ入れる。書物がたくさんある。並べるのは一仕事だ。

 「里見のお嬢さんは、まだ来ていないか」

 「来ている」

 「どこに」

 「二階にいる」

 「二階に何をしている」

 「何をしているか、二階にいる」

 「冗談じゃない」

 与次郎は本を一冊持ったまま、廊下伝いに梯子段の下まで行って、例のとおりの声で、

 「里見さん、里見さん。書物をかたづけるから、ちょっと手伝ってください」と言う。

 「ただ今参ります」

 箒とはたきを持って、美禰子は静かに降りて来た。

 「何をしていたんです」と下から与次郎がせきたてるように聞く。

 「二階のお掃除」と上から返事があった。

 降りるのを待ちかねて、与次郎は美禰子を西洋間の戸口の所へ連れて来た。しやりきのおろした書物がいっぱい積んである。三四郎がその中へ、向こうむきにしゃがんで、しきりに何か読み始めている。

 「まあたいへんね。これをどうするの」と美禰子が言った時、三四郎はしゃがみながら振り返った。にやにや笑っている。

 「たいへんもなにもありゃしない。これをの中へ入れて、片づけるんです。いまに先生も帰って来て手伝うはずだからわけはない。──君、しゃがんで本なんぞ読みだしちゃ困る。あとで借りていってゆっくり読むがいい」と与次郎が小言を言う。

 美禰子と三四郎が戸口で本をそろえると、それを与次郎が受け取って部屋の中の書棚へ並べるという役割ができた。

 「そう乱暴に、出しちゃ困る。まだこの続きが一冊あるはずだ」と与次郎が青い平たい本を振り回す。

 「だってないんですもの」

 「なにないことがあるものか」

 「あった、あった」と三四郎が言う。

 「どら、拝見」と美禰子が顔を寄せて来る。「ヒストリー・オフ・インテレクチュアル・デベロップメント。あらあったのね」

 「あらあったもないもんだ。早くお出しなさい」

 三人は約三十分ばかり根気に働いた。しまいにはさすがの与次郎もあまりせっつかなくなった。見ると書棚の方を向いてあぐらをかいて黙っている。美禰子は三四郎の肩をちょっと突っついた。三四郎は笑いながら、

 「おいどうした」と聞く。

 「うん。先生もまあ、こんなにいりもしない本を集めてどうする気かなあ。まったく人泣かせだ。いまこれを売って株でも買っておくともうかるんだが、しかたがない」と嘆息したまま、やはり壁を向いてあぐらをかいている。

 三四郎と美禰子は顔を見合わせて笑った。かんじんの主脳が動かないので、二人とも書物をそろえるのを控えている。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな画帖をひざの上に開いた。勝手の方では臨時雇いの車夫と下女がしきりに論判している。たいへん騒々しい。

 「ちょっと御覧なさい」と美禰子が小さな声で言う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子のあたまで香水のにおいがする。

 絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪をくしですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。

 「人魚マーメイド

 「人魚マーメイド

 頭をすりつけた二人は同じ事をささやいた。この時あぐらをかいていた与次郎がなんと思ったか、

 「なんだ、何を見ているんだ」と言いながら廊下へ出て来た。三人は首をあつめて画帖を一枚ごとに繰っていった。いろいろな批評が出る。みんないいかげんである。

 ところへ広田先生がフロックコートで天長節の式から帰ってきた。三人は挨拶をする時に画帖を伏せてしまった。先生が書物だけはやく片づけようというので、三人がまた根気にやり始めた。今度は主人公がいるので、そう油を売ることもできなかったとみえて、一時間後には、どうか、こうか廊下の書物が書棚の中へ詰まってしまった。四人は立ち並んできれいに片づいた書物を一応ながめた。

 「あとの整理はあしただ」と与次郎が言った。これでがまんなさいといわぬばかりである。

 「だいぶお集めになりましたね」と美禰子が言う。

 「先生これだけみんなお読みになったですか」と最後に三四郎が聞いた。三四郎はじっさい参考のため、この事実を確かめておく必要があったとみえる。

 「みんな読めるものか、佐々木なら読むかもしれないが」

 与次郎は頭をかいている。三四郎はまじめになって、じつはこのあいだから大学の図書館で、少しずつ本を借りて読むが、どんな本を借りても、必ずだれか目を通している。試しにアフラ・ベーンという人の小説を借りてみたが、やっぱりだれか読んだあとがあるので、読書範囲の際限が知りたくなったから聞いてみたと言う。

 「アフラ・ベーンならぼくも読んだ」

 広田先生のこのいちごんには三四郎も驚いた。

 「驚いたな。先生はなんでも人の読まないものを読む癖がある」と与次郎が言った。

 広田は笑って座敷の方へ行く。着物を着換えるためだろう。美禰子もついて出た。あとで与次郎が三四郎にこう言った。

 「あれだから偉大な暗闇だ。なんでも読んでいる。けれどもちっとも光らない。もう少しるものを読んで、もう少し出しゃばってくれるといいがな」

 与次郎の言葉はけっして冷評ではなかった。三四郎は黙って本箱をながめていた。すると座敷から美禰子の声が聞こえた。

 「ごちそうをあげるからお二人ともいらっしゃい」

 二人が書斎から廊下伝いに、座敷へ来てみると、座敷のまん中に美禰子の持って来た、バスケツトが据えてある。ふたが取ってある。中にサンドイッチがたくさんはいっている。美禰子はそのそばにすわって、籃の中のものを小皿へ取り分けている。与次郎と美禰子の問答が始まった。

 「よく忘れずに持ってきましたね」

 「だって、わざわざ御注文ですもの」

 「その籃も買ってきたんですか」

 「いいえ」

 「家にあったんですか」

 「ええ」

 「たいへん大きなものですね。車夫でも連れてきたんですか。ついでに、少しのあいだ置いて働かせればいいのに」

 「車夫はきょうは使いに出ました。女だってこのくらいなものは持てますわ」

 「あなただから持つんです。ほかのお嬢さんなら、まあやめますね」

 「そうでしょうか。それなら私もやめればよかった」

 美禰子は食い物を小皿へ取りながら、与次郎と応対している。言葉に少しもよどみがない。しかもゆっくりおちついている。ほとんど与次郎の顔を見ないくらいである。三四郎は敬服した。

 台所から下女が茶を持って来る。籃を取り巻いた連中は、サンドイッチを食い出した。少しのあいだは静かであったが、思い出したように与次郎がまた広田先生に話しかけた。

 「先生、ついでだからちょっと聞いておきますがさっきのなんとかベーンですね」

 「アフラ・ベーンか」

 「ぜんたいなんです、そのアフラ・ベーンというのは」

 「英国のけいしゆう作家だ。十七世紀の」

 「十七世紀は古すぎる。雑誌の材料にゃなりませんね」

 「古い。しかし職業として小説に従事したはじめての女だから、それで有名だ」

 「有名じゃ困るな。もう少し伺っておこう。どんなものを書いたんですか」

 「ぼくはオルノーコという小説を読んだだけだが、小川さん、そういう名の小説が全集のうちにあったでしょう」

 三四郎はきれいに忘れている。先生にそのこうがいを聞いてみると、オルノーコという黒ん坊の王族が英国の船長にだまされて、れいに売られて、非常に難儀をする事が書いてあるのだそうだ。しかもこれは作家のじつけんだんだとして後世に信ぜられているという話である。

 「おもしろいな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちゃあ」と与次郎はまた美禰子の方へ向かった。

 「書いてもよござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」

 「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でもいいじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」

 「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護するように言ったが、すぐあとから三四郎の方を向いて、

 「書いてもよくって」と聞いた。その目を見た時に、三四郎はけさ籃をさげて、折戸からあらわれた瞬間の女を思い出した。おのずから酔ったここである。けれども酔ってすくんだ心地である。どうぞ願いますなどとはむろん言いえなかった。

 広田先生は例によって煙草をのみ出した。与次郎はこれを評して鼻から哲学の煙の吐くと言った。なるほど煙の出方が少し違う。ゆうぜんとして太くたくましい棒が二本穴を抜けて来る。与次郎はそのえんちゆうをながめて、半分背をからかみに持たしたまま黙っている。三四郎の目はぼんやり庭の上にある。引っ越しではない。まるで小集のていに見える。談話もしたがって気楽なものである。ただ美禰子だけが広田先生の陰で、先生がさっき脱ぎ捨てた洋服を畳み始めた。先生に和服を着せたのも美禰子のしよと見える。

 「今のオルノーコの話だが、君はそそっかしいから間違えるといけないからついでに言うがね」と先生の煙がちょっととぎれた。

 「へえ、伺っておきます」と与次郎がちようめんに言う。

 「あの小説が出てから、サザーンという人がその話を脚本に仕組んだのが別にある。やはり同じ名でね。それをいっしょにしちゃいけない」

 「へえ、いっしょにしやしません」

 洋服を畳んでいた美禰子はちょっと与次郎の顔を見た。

 「その脚本のなかに有名な句がある。Pity'sピチーズ akin to loveアキン ツー ラツブという句だが……」それだけでまた哲学の煙をさかんに吹き出した。

 「日本にもありそうな句ですな」と今度は三四郎が言った。ほかの者も、みんなありそうだと言いだした。けれどもだれにも思い出せない。ではひとつ訳してみたらよかろうということになって、四人がいろいろに試みたがいっこうにまとまらない。しまいに与次郎が、

 「これは、どうしても俗謡でいかなくっちゃだめですよ。句の趣が俗謡だもの」と与次郎らしい意見を提出した。

 そこで三人がぜんぜん翻訳権を与次郎に委任することにした。与次郎はしばらく考えていたが、

 「少しむりですがね、こういうなどうでしょう。かあいそうだたほれたってことよ」

 「いかん、いかん、下劣の極だ」と先生がたちまち苦い顔をした。その言い方がいかにも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑い出した。この笑い声がまだやまないうちに、庭の木戸がぎいと開いて、野々宮さんがはいって来た。

 「もうたいてい片づいたんですか」と言いながら、野々宮さんは椽側の正面の所まで来て、部屋の中にいる四人をのぞくように見渡した。

 「まだ片づきませんよ」と与次郎がさっそく言う。

 「少し手伝っていただきましょうか」と美禰子が与次郎に調子を合わせた。野々宮さんはにやにや笑いながら、

 「だいぶにぎやかなようですね。何かおもしろい事がありますか」と言って、ぐるりと後向きに椽側へ腰をかけた。

 「今ぼくが翻訳をして先生にしかられたところです」

 「翻訳を? どんな翻訳ですか」

 「なにつまらない──かあいそうだたほれたってことよというんです」

 「へえ」と言った野々宮君は椽側ですじかいに向き直った。「いったいそりゃなんですか。ぼくにゃ意味がわからない」

 「だれだってわからんさ」と今度は先生が言った。

 「いや、少し言葉をつめすぎたから──あたりまえにのばすと、こうです。かあいそうだとはほれたということよ」

 「アハハハ。そうしてその原文はなんというのです」

 「Pity'sピチーズ akin to loveアキン ツー ラツブ」と美禰子が繰り返した。美しいきれいな発音であった。

 野々宮さんは、椽側から立って、二、三歩庭の方へ歩き出したが、やがてまたぐるりと向き直って、部屋を正面に留まった。

 「なるほどうまい訳だ」

 三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずにはいられなかった。

 美禰子は台所へ立って、ちやわんを洗って、新しい茶をついで、椽側の端まで持って出る。

 「お茶を」と言ったまま、そこへすわった。「よし子さんは、どうなすって」と聞く。

 「ええ、からだのほうはもう回復しましたが」とまた腰をかけて茶を飲む。それから、少し先生の方へ向いた。

 「先生、せっかく大久保へ越したが、またこっちの方へ出なければならないようになりそうです」

 「なぜ」

 「妹が学校へ行き帰りに、やまの原を通るのがいやだと言いだしましてね。それにぼくが夜実験をやるものですから、おそくまで待っているのがさむしくっていけないんだそうです。もっとも今のうちは母がいるからかまいませんが、もう少しして、母が国へ帰ると、あとは下女だけになるものですからね。おくびようものの二人ではとうていしんぼうしきれないのでしょう。──じつにやっかいだな」と冗談半分の嘆声をもらしたが、「どうです里見さん、あなたの所へでも食客いそうろうに置いてくれませんか」と美禰子の顔を見た。

 「いつでも置いてあげますわ」

 「どっちです。宗八さんのほうをですか、よし子さんのほうをですか」と与次郎が口を出した。

 「どちらでも」

 三四郎だけ黙っていた。広田先生は少しまじめになって、

 「そうして君はどうする気なんだ」

 「妹の始末さえつけば、当分下宿してもいいです。それでなければ、またどこかへ引っ越さなければならない。いっそ学校の寄宿舎へでも入れようかと思うんですがね。なにしろ子供だから、ぼくがしじゅう行けるか、向こうがしじゅう来られる所でないと困るんです」

 「それじゃ里見さんの所に限る」と与次郎がまた注意を与えた。広田さんは与次郎を相手にしない様子で、

 「ぼくの所の二階へ置いてやってもいいが、なにしろ佐々木のような者がいるから」と言う。

 「先生、二階へはぜひ佐々木を置いてやってください」と与次郎自身が依頼した。野々宮君は笑いながら、

 「まあ、どうかしましょう。──ばかり大きくってばかだからじつに弱る。あれで団子坂の菊人形が見たいから、連れていけなんて言うんだから」

 「連れていっておあげなさればいいのに。私だって見たいわ」

 「じゃいっしょに行きましょうか」

 「ええぜひ。小川さんもいらっしゃい」

 「ええ行きましょう」

 「佐々木さんも」

 「菊人形は御免だ。菊人形を見るくらいなら活動写真を見に行きます」

 「菊人形はいいよ」と今度は広田先生が言いだした。「あれほどに人工的なものはおそらく外国にもないだろう。人工的によくこんなものをこしらえたというところを見ておく必要がある。あれが普通の人間にできていたら、おそらく団子坂へ行く者は一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家でも四、五人は必ずいる。団子坂へ出かけるにはあたらない」

 「先生一流の論理だ」と与次郎が評した。

 「昔教場で教わる時にも、よくあれでやられたものだ」と野々宮君が言った。

 「じゃ先生もいらっしゃい」と美禰子が最後に言う。先生は黙っている。みんな笑いだした。

 台所からばあさんが「どなたかちょいと」と言う。与次郎は「おい」とすぐ立った。三四郎はやはりすわっていた。

 「どれぼくも失礼しようか」と野々宮さんが腰を上げる。

 「あらもうお帰り。ずいぶんね」と美禰子が言う。

 「このあいだのものはもう少し待ってくれたまえ」と広田先生が言うのを、「ええ、ようござんす」と受けて、野々宮さんが庭から出ていった。その影が折戸の外へ隠れると、美禰子は急に思い出したように「そうそう」と言いながら、庭先に脱いであった下駄をはいて、野々宮のあとを追いかけた。表で何か話している。

 三四郎は黙ってすわっていた。

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