第34話 「伊勢」、玄冥について推測する




 城崎きのさきの夜には、人の吐息がにじんでいる。

 湯気のうわりとした気配、人のさざめき、浮足立った記憶――この城崎という歴史の古い湯場ゆばに根付いた、人間の積み重ねてきた記録が、溜息となって残っているのだ。


「そういうものを感じるね。なんとなくだけど」


 と「伊勢いせ」のおさは歩みを止める事なくつぶやく。そして、隣に立ち並ぶ存在モノから何かを言い返される前に「僕は気に入っているよ」と続けた。


 黒いスーツをまとった「伊勢」の隣には、異風の男が一人ある。いずれの時代から超越してきたのかと、思わず口からついて出んばかりの甲冑姿に、青みを帯びた白髪黒肌の美丈夫だ。



 両者は人型をしているが、いずれも人ではない。

 一方は黄泉よみの国よりきたりし神域の民。

 そして一方は、大陸よりもたらされたしょうが一、玄武神。



 二つの周りに人の気配はない。玄武こと玄冥げんめいが黒々とした闇を垂れこめて遮断しているのである。

 そも、人に神の姿形を視認する事はできない。これはまた鬼であっても同様である。

 鬼神である藤堂とうどうにすら、玄冥の発するものは見えず、また聞こえない。

 しこうして、「伊勢」にはそれができるという事だ。


 県道を直進し続ければ、やがて前方に山が見えてくる。末代山。有するは温泉寺。


「僕はね、昔から色々と推測する事がとても好きだったんだよね」


 のんびりゆったり進みながら、「伊勢いせ」の長は玄冥に言う。

 橙光とうこうは、少しずつその数を減らしてゆく。闇が其処そこ彼処かしこで深くなる。その闇の内にてうごめく何かがあるが、二つの存在におびえて隠れたまま出て来ない。

 「伊勢」は――愉快そうな声を出す。


「玄冥、君という神は、亀と蛇を象徴として描かれるだろう?」

(然り)

黄泉よみの国では君らしょうにあまり馴染みがなくてね。こちらに来てから存在を知ったのだけど、僕は大陸の神話を聞いて大層驚いたんだ。まあ、知る事になった運命のようなものも感じたりしたけれどね」


 ひとつ「伊勢」に、玄冥は(大陸の神話?)と問う。


「そう。りゅうはく国の巨人の伝説だ。龍伯の国民は長命な巨人である。この巨人が東海の海に浮かぶ五座ござせんざんを下から支えるすっぽんを吊り上げて甲羅を焼き卜占ぼくせんをしたという。これつまり亀の事だよね。結果、五座ござの内の二座――たい輿員嶠いんきょうは北の海に流され、そこに暮らす神仙聖人ごと失われてしまった。これが天帝の怒りにふれ、巨人は小さくなったのだという。まあ神性の喪失だろうね」


 すらすらとそらんじる「伊勢」は心持ち愉快そうだ。


「残り三座――えいしゅう蓬莱ほうらい方丈ほうじょうのうち、えいしゅうは日本、蓬莱ほうらいは台湾に比定されるという。方丈ほうじょういずれかに比定されるものなのかどうか、僕は知らない。玄冥、君、知っていたら教えてくれないかい? ずっと気になっているんだ」


 玄冥はこたえなかった。「伊勢」もいらえが返るものとは思っていなかったに違いない。「ふふ」と目を細めて笑った。


「さて、もう一方の蛇だ。蛇は龍とほぼ同一視されているね。インドで生まれた蛇神ナーガは水神であり、この蛇信仰は中国に至って龍となった。これが日本にも持ち込まれ定着した。そして、龍は龍として生まれるのではないんだね。こうりゅうが五百年の歳月を経てようやくなるのが龍だ。蛟竜は水生であるまむし、もしくはウミヘビの事を指す。日本においては、出雲いずもかみありづきに浜辺に打ち上げられるウミヘビが神の先導役たるりゅうへび様として祀られる。あそこに対しては本当に忌避感が募るよ」


 ふわりと生温い風が、玄冥の鼻先を掠めた。

 「伊勢」は反応もまたず続ける。


「さて、大陸の民話に戻ろう。このこうりゅう、もしくはだが、これは池に住まう。そして、池の内の魚が三千六百に増えると、それらを連れて飛び立ってしまうのだという。これを抑えるために池に解き放たれるのがすっぽん――つまり亀だ。蛟竜が増えた魚を連れて飛び去る事を、鼈が封じる」


 ひたり、どこかで湿った音がした。


「玄冥。君は五行においては水を象徴する。自らのじゃりゅうの性質を、れいとしての性質で封じているという事だ。これはね、僕には」


 ぴちょん、と湯の花がどこかにぶつかったような、そんな。



「――不老長寿と子孫繁栄。その両方をあわせ持つものと読めたんだ」



 玄冥はじっと静かに虚空こくうにらむ。「伊勢」の言葉に神たる己が気圧けおされているのを認めざるを得なかった。

 「伊勢」の歩みがひたりと止まる。

 その視線が、ひた、と玄冥のそれと結ばれる。



 逃れるな、と。



「不老長寿は不死であり、これは繁殖の不用を意味する。対して子孫繁栄は個体の滅びと同義だ。先の命が滅び、そして次の命が受け継ぐ。僕はね、数多あまたの魚を連れて旅立つこうりゅうの事を、生命の伝播でんぱになぞらえて見ているんだ。棲家すみか余所よそに移すため旅立つとは、言うなれば開拓者フロンティア精神スピリッツの事だろう? これが子孫繁栄を意味するのだとしたら、それをすっぽんという不老不死が封じる図式となっているんだよ。広がるな、増えるな、旅立つな、とね。――君はね、この両儀りょうぎ性を持っているんだ」

(それは――)

「いいかい玄冥げんめい。この相反する両儀を君が維持できたのは、一つの神でありながら、蛇と亀に分割されていたからだ。これは神と人とを分ける物とは何かという事の説明だからね。同一のままではいられないんだよ。――この視点から紐解けば、異地ちきゅう中の神話の中に類例を見出すのも簡単だ。『リグ・ヴェーダ』に登場する双子のヤマとヤミーのエピソードは兄妹婚の禁忌として有名だが、人類最初の死者となったヤマと人類の始祖である兄のヴィヴァスヴァット・マヌは当初対の存在だった。一方――」


 「伊勢」が一歩、玄冥に近付いた。


「日本においては、木花之このはな佐久さくひめいわながひめがそれにあたるね。あの姉妹もまた、繁栄と長寿の両儀りょうぎであり、これを天孫瓊瓊ににによって分断されたのだから」



 ざわり、と手触りの悪い風が、玄冥と「伊勢」の髪を巻き上げ通り過ぎて行った。



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