第142話 私が説得して彼を塔から引っ張り出す
車輪が跳ねたせいで馬車が大きく上下運動をした。大きめの石を踏んだのか段差が激しかったのかは不明。
そのせいで馬車の中にいる女官は悲鳴をあげ転んでいるなかで二人の女は姿勢を崩さず対峙したままでにいた。
右目を閉じ瞑想に耽るヘイムと炒り豆をひたすらに齧り続けるシオン。
二人の女は女官たちの動揺などには目を向けず耳も傾けずに己の世界に閉じこもっていた。
長年連れ添って来た夫婦のような関係でもあるヘイムとシオンの間には、二人だけにしか知らずに通じないルールというものがいくつかある。
どれも他愛のないものであるも話合いをして生まれたものや自然の習慣が生み出したものもあり、それがいつ始まったのかは記憶が朧げになるも、どれも破られたことは一度としてもなかった。
この今の状況もその二人の関係から生まれたものでありシオンは忌々しそうに目を細め睨み付け際限なく干し豆を食べている。
ルールというものは豆袋を手にしている時のシオンには話しかけない、というものでは決してなく、睡眠時以外の時にうつむき瞼を閉じている状態のヘイムに話しかけてはならない、これである。
いわば会話の拒絶を示したものであるためにシオンは苦々しい気持ちでその瞼が上がるのを待つほかない、豆でも齧っている他ない。普段のヘイムは決してこういうことはしない。疲れている時でもいかなる時でも人を前にしている時に微睡むなどするはずもない。
するとしたらそれはそうこのシオンの前ぐらいであり二人の関係であればこそ起こる珍事であり、女官たちも異変を察して緊張した面持ちで待機していた。
気に喰わない、とシオンは豆を喰らいながらこの一念だけが頭が一杯であった。馬車内では不自然なほどに豆が砕ける音が断続的に響いている。
いや響かせている、シオンが意図的に豆を粉砕させ音を立てているのだ。
聞こえている癖に目を開けないなんて……ちょっとなんなんですかね、とこれはシオンにとっての声を出す代わりの催促であった。もういい加減にそれをやめてというメッセージ、二人だけにしか分からない合図。
こういう状態は、とシオンは記憶を探り思い出そうとする。そうだ私はヘイムの昔話を思い出さなくてはならない。
最近では龍身化の影響によってヘイムという存在を巡る記憶障害が起こるも、シオンの心の中は未だにその影響をあまり受けることは無く記憶を取り出すことができた。
前回を思い出すと昔も昔、戦争前のあの恋人たちとの遊びの際に起こったひと悶着で、当時ヘイムがお気に入りだった青年が他の女と仲が良くなっていると知った時にこうやって瞼を閉じて何も聞きたくない時に……
でも今はそんな時じゃない、とシオンはその記憶を奥に仕舞い込んだ。これは違う件による違う何かである。
それはひょっとして私自身が原因では? とここでようやくシオンは普通の人らしい思考の地点へと到達し口の中が乾きを覚えた。焦ると喉が乾く、そんな体質。
最近……そうだ私はヘイムに無理をさせているのかもしれない。ここのところの公務で忙しい中であっても彼女は私に文句一つ吐いていない。これも珍しいことだ。いつもなら私に対して愚痴の一つや二つ、いいや百つを投げかけてくるのが普通であるのに、一つもなかった。
もしかしてこれは抗議だったのでは? もはや私は愚痴を吐くにも値しない人物であるということで。
そう思うとシオンは息苦しくなり胸が痛みだしたが、閃光が走るように記憶の棚が突然開き、ある景色が眼前へと浮かんだ。「私に話しかけないでシオン」「お姉さんでしょ」とシオンはその時に返した言葉を心の中で呟き少女時代のヘイムの姿を見つめていた。
「明日すごく楽しみなの、それを想像しながらこうやっている時がすごく楽しいの。だからね、こういう時の私には話しかけないでね」
うむ、記憶が見事に再生されたのは良いがこれもあまりあり得ないのでは、とシオンは箪笥の棚を押し戻し記憶に封をした。
このあとそこまで楽しい事があるというのか、と。それはいまここにいるとき、つまりは公務から解放されているこの時が既に楽しい時なのでは? しかしヘイムはそれをこうやって放棄し想像の世界で遊んでいる。心を高揚させながら一人で遠くへと。
シオンは今度は腹が立ってきた。一人でどこに行っているのやらと、それは自分よりも大切な何かであり独り占めするなにかであり、そうしてその腹を探られたくないばかりに瞼を閉じ半分眠ってこちらを拒否しているとは、気に喰わない、だから豆を食う。そうだ投げつける代わりに豆を食べるのだ。
しかし両案を出したものの、このうちのどちらだ? とシオンは息苦しくなりながら考える。
どちらでもなくその両方だとしたら……なんて苦しいことを考えるのだと自分に言いきかせているとシオンは随分と息苦しさを覚えて来て、手の豆袋を落した。あれ? 私はなにかに閃いた? ヘウレーカしちゃった?
その音に驚いたのかヘイムの瞼が開き呆然としながら見ている姿をシオンは斜めの角度から見つめた。どうしてヘイムは反転しているのだろう、床が目の前にあるのだろう?
「おいどうしたシオン! あっ水だ水! 早く水を出せ」
大慌てのヘイムの声を聴きながらシオンはどこか安堵感を覚えそのまま意識が闇の底へと沈んでいった。
豆を喉に詰まらせ気を失ったシオンを乗せて馬車は野を越え山越え谷を越えるその手前にあるシアフィル砦に到着した。シオンは病に倒れたという設定で医務室に運ばれて治療を受けることとなった。そういう体裁にしなければならない。
「そのようにおやつれになられるぐらいに急いできていただき感謝いたします」
ベットの脇でバルツが慇懃に頭を下げシオンは恭しい動作で返礼をする。若干弱々しい演技を添えながら。
「こちらこそ将軍自らお越し下さり恐縮しております。それにこのようなことは大したことではございません。
よくあることですからどうぞご心配なく」
その言葉に人の好いバルツはシオンの思惑通りに、連日連夜の激務で疲労困憊なのであろうと勝手に推測をしたであろう表情を顔に浮かべた。
まさか豆の食い過ぎで倒れただなんて生涯気づくこともなく、また気づく必要もないだろうし。だがシオンにはなんとしてでも隠す理由だけがあった。
気怠そうに溜息をわざと流すとバルツはまた頷いた。よしこれでもう大丈夫だ、とシオンは安心し以後普通に接することとした。疲れるふりをするのは疲れるものであるのだからもう必要以上には、しない。最初に印象づけたのだからあとはその瞳に私は自動的にそう見えるのである。
「会談の件は申し訳ございません。私がもっとしっかりしていれば予定通り行えたのに」
「いやいやお構いなく。龍身様らも長旅の疲れから今日は軽い視察を行うと予定の変更と致しましたので順番の前後を変えれば問題はありません。それよりもシオン殿のことが龍身様もとてもお気に掛けていらしまして。重い病でなければいいのだがと心配なされておられて」
あの女……何もかも全部知っている癖に白々しいことをしてからに。シオンは憂鬱そうに首を振るとバルツはまた心配が募った。
いつも気力に溢れているシオン殿がこのように疲れているとはお気の毒に……また人の好い勘違いをしながらシオンの様子を見ていると、視線が窓へと移り例の塔へと目が向いたのが分かった。それを見ては駄目だ、とバルツは心の中で叫んだために声が漏れた。
「あっ!」
むっ、とシオンはバルツの間の抜けた声を聞き考える。
今のはなにか不味いものを見つけられたなという声に違いない、たまに自分が出す声に似ているからまず間違いないだろう。
「……バルツ将軍」
低く小さな声による問い掛けで揺さぶってみるとバルツの動揺が背中越しで伝わってきた。何ひとつわかっていないというのに。
「いや、そのことは、その」
「小耳に挟んだ程度です。事が大きくなる前にどうぞ私にお話しください」
その特には小さくもない耳は何も挟んでいないしその事が小さいのか大きいのかすら分からないものの、こうわかったふりをしつつハッタリをかましたらどうなるのかなとシオンの心は躍り始めた。
「しっしかし、いくらシオン様が関係者であられましてもあのようなことをお話するのも」
ほら釣れた、結構でかそうな案件そうですねとシオンは窓ガラスに朧げに写る自分の笑顔が不気味だなと自らおののきながらバルツの言葉を聞く。
「そうであるのなら、私は是非ともそれに関わらなければなりませんね。これも何かの縁、というよりかは私のこの失神もこの問題を解決せよとの龍のお導きかもしれませんよ」
「おお!」
篤信家のバルツなら絶対に嵌るであろう論法を用いたら赤子の手を捻るよりも簡単に信じるだろうという目論み通りの感嘆の声が聞こえた。
戦争によって全身が血塗れであるのにその中身は純白なそのものだとシオンはバルツのことをそう見ていた。
「けっけれどもこのようなことを果たしてご相談しても良いのかと」
「良いのですよ。どうぞ私をお頼りになってください」
そう私は無様に豆を喉に詰まらせ失神した女じゃないことをはやく証明させなさい、とシオンの心のそのことでいっぱいであった。
「……なにとぞご内密にお願い致します」
「もちろん口外いたしません」
豆は口から出しましたが……そうではなくヘイム以外には伝えませんのでどうぞご安心をとシオンは心の中で言い訳をした。
「ご存じでありましょうが、あの塔にはいまジーナが謹慎処分中でございまして」
ご存じではないけれど知っているように相槌を打ちながらシオンは心中でげんなりする。またあれがなにかやったのかと。
「問題を起こしたのですね」
「そうなのです。奴は表彰式に出たくないと駄々を捏ねましてそれで処罰のためにあの塔の一室に閉じ込めまして」
問題もなければここまで言い淀むことは無いだろうとシオンはそう考えつつ今度は頭を振った。なんという面倒なことを、と。
「頭が痛い問題ですね。それで最近の彼に変化はございましたか?」
「一向に出る気配を見せません。自分は受勲するに値しないとの一点張りで埒があきません」
あなたのその考えはどうでもいいことなのですよジーナ、とシオンはまずそれを思った。問題というのはそういやって閉じこもっているとあなたはヘイムに会えないでしょう、と。
そこに閉じこもってはいけない理由の筆頭はヘイムがつまらない思いをするから。それは私にとってあなたのどうでもいい意地とかプライドなんかよりも比べものにならないぐらいに大切なこと。
「よく分かりました。私が説得して彼を塔から引っ張り出して表彰式に出席させます」
塔などこれ以上みても仕方がないため頭を振り返りながらそう伝えるとバルツの顔が喜びでいっぱいとなった。
「それは助かります。こうなってしまうともう我々の方ではお手上げで。力づくだとあいつは絶対耐えるし脅しには屈しないしで、シオン殿のように理性的な説得をしてくださればあいつもきっと転ぶでしょう」
理性的ではないでしょうが、とシオンは勢いよくベットから飛び起きた。自分はいま過労で倒れた華奢な娘さん、な設定などもういいやとばかりに床の上に立ち背伸びをしながら首を捻った。
「そういえばハイネとルーゲン師はここにいてそのことを知っているのですよね? あの二人はなにをしているのですか?」
凄い元気になっているシオンの動作にバルツは不思議な思いをするが同じく首を傾げた。
「それがそのですね、こちらも依頼したのですけどルーゲン師は難しいですねと投げられてしまい、ハイネ殿は頑張りますが欠席の可能性も考えてくださいともう半ばあきらめ気味で」
二人そろってどうしたのか? とシオンは訝し気に思った。そもそも手紙にはそのようなことは一切書かれていないし、今日この時にこの場に自分が居なかったらその情報は得られなかったのでは、とも。
実際会ったら話したか? そういうことはなさそうだとしたらあの二人はこのことを伏せて当日に望もうとしたのでは? では何故そのようなことを? ジーナは表彰式のある意味では花形の一人となるのだということ分かっているというのに。
バルツの行動は理解できる。身内の恥を隠そうとするも欠席ということが現実的となってくることに耐えられずにこちらに助けを求めてきた。だがあの二人は隠し通していったい何をしたいのか?
一つの疑惑が次の疑惑に繋がり大きくなり暗雲のように心の中で立ち込めるとシオンの心は引き締まった。
「まぁ各々の思惑やら事情があるのでしょうが、何よりも優先しなければならないことは儀礼的なことです。だいたいそんなことを言って出席しないなんて龍身様に失礼ですよ。あなたは龍よりもお偉いとでもいうおつもりですかと」
「その通りです! 龍身様に申し訳が立ちません」
シオンのシンプルかつストレートな言葉にバルツは大いに同意する。
「夕方まで時間があるのですからこれは彼の説得へ用いましょう。私が倒れたのも将軍がお見舞いに伺ったのもふと窓から塔を見たのも、全ては龍の御導き。そうことなのです」
バルツは感激しきりに頷きシオンもそう語れば語るほどに自己暗示っぽくなり自分でも豆袋の失態はむしろ善きことであったと思い込み始めていた。
このジーナが出ないという問題を解決できればあの醜態の意味が変化する。そうと決まればとシオンは足早に塔へと向かい出した。
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