第132話 好きだな

 シアフィル草原の砦を落してからしばらくの時が経つものの、中央からの反撃はその噂すらなかった。


「中央の軍はどうやらこちらに構っているほど余裕は無いようですよ。西から東ついでに北とあちこちに火の手が上がって防戦一方だということで」


 ジーナの隣に立つハイネが歌うような調子で世間話を続けている。


「西はムネ将軍の勢力に東はオシリー将軍の勢力といわば挟み撃ちの形となりそれぞれ中央を目指しているとのことです。ここに我々南の勢力が北進をすれば三方向からの攻勢によって中央崩壊! 絵に描いた勝利のシナリオではそうなりますね、はい書きましたかどれどれ」


 ハイネはジーナが無言で書いた古紙を取り上げて採点に入った。誤字脱字綴り間違いとしつこくぐらいに目を通すと笑顔でジーナに返した。


「いいですね。誤りはありませんってどうしましたジーナ? 今日は随分と賢いじゃないですか」


 そのぶん無口だとハイネは思いながらも聞くと返事が来た。 


「ハイネもハイネで今日はどうしたんだ? 賢いなとか褒めたり、どこかそわそわしたり、なにかあったのか?」


 何の気もなくジーナは尋ねるとハイネの身体が反応し考えだす、なにかが、あるんですよ、けれど勘付かれたのか?


 いいやそんなことは無い。あの例の人がここを訪問するだなんて、まだ知るはずはないのだから。


 手紙だってそう。返信は何故か西方の文字で私には読めなくして……いいやそうじゃない、まさかそんなことはしないし、これは自意識過剰であって、私が読めないだけであって代わりにジーナに音読してもらえば少しもおかしいところのない返事であり、その際に彼も彼で誤魔化したり嘘をついたりはしてはいない。


 この私が間近で目を見て息遣いを聞いているのだから、そこは絶対に確実で大丈夫。彼はそんな誤魔化しはしないし私の眼も節穴であるはずもない。


 それにしてもとハイネは心中ため息をついた。どうして私はこんなに気を遣っているのだろうか。


 こんなことをするのはよくないことで、複雑にこんがらせずにもっとかんたんにまっすぐにする方法だってあるのでは?


 ここまで拗らせた感情が果たして……無言のままハイネはジーナの両肩の上に左右両手を置く。重さを感じさせるよう力を込めて精一杯に。ジーナが振り返りハイネを不思議そうに見上げるも、その瞳に暗い陰はなく美しさを感じた。


 いいえ、それは違うのよ私兼ハイネさん、と自問自答する。これはすごく簡単な話。とても単純な話。何の問題のない、正しさだけがある話。


 あなたは守りたいだけなのよ。世界の秩序とこの関係をね。この人と一緒にいることにあなたはときたま不快感もあるけれど、概ね心地良さがあるからこの関係を大切にしたい。けれどもあの人が現れるとこの関係に変化が生まれ、心乱され、もしかしたら壊れてしまうかもしれない。そしてそれは世界の危機に直結するかもしれない。だからあなたはそれを防ぐために頑張っている……偉い!


 そうですよ。私はただあの人のわがままで気まぐれな感情による過ちを未然に防ごうとしているだけ。


 時に人は魔が差しそういうことをしちゃうってことは私は重々承知しておりますが、人には立場というものがあります。あなたは自分というものをお考えになられた方がよろしいかと。


 だってそうじゃないですか。あなたみたいな御方がこんな男と間違いがあったら世界が迷惑します。あってはなりません。断じてあってはいけません。あなたは違う男と、もっときちんとした立場のある御方と関係を結ぶべきであり、それが理性であり正しさというもの。


 そのために私がこの関係を維持しなければならないとしたら、致し方がありませんので、致しましょう。そうです私が身を挺してでもこちらの関係進展は止めましょう、止めてみせます。


 それこそが真の龍への忠心であり、龍の側近兼女官というものの使命です。このハイネ容赦はせん。


「なんだ、どうした? 肩に手をついて、疲れたとか?」


 一人妄想に耽って涙ぐんでいるハイネにジーナは不思議そうに尋ねた。ハイネはたまにこんな状態になるが、どういうことだろうか? とジーナは時々疑問に思ったりもした。


「あっいいえ、その、肩を揉んであげようかと」

「ほんとうに何があったんだ」


 ジーナはその優しさを不気味がった。


「もしかして香水を変えたからとかか?」

「へぇ分かります?」

「こんなに近くにいたら分かるだろうに」

「分かったのなら言えばいいじゃないですか」

「私が良い香りといってなにかあるのか?」


 へぇ、とまた感心しているのかよく分からない声をジーナは頭上から聞いていると、肩から手が離れ少しすると、首に手が回り掴まれた。


 なんだ! 私は何か激怒ボタンを押してしまったのか!? とジーナの恐怖をよそにハイネの声が耳元でする。


「そう言ったのなら、こういうことがありますよ。ほら良い匂いがしますよね?」


 その手は首に何かを塗り込ませ染み込ませる動きであり、濃厚な香りが首から昇ってきた。ハイネの香り、ではなく香水の、ハーブ系な何かが。


「なかなか良いものですよねこれ。この前に出入りの商人から買ったものですけれど」


「それはそうだが、こういうのは男もつけるものなのか?」


「まさかジーナは自分が良い匂いを出しているとでも言うのですか?」


 振り返るとそこにハイネの顔があり瞳は夕陽の色となっていた。いつも何かが起こる色。


「もしかして問題のある臭いがするとか?」


 ジーナが聞くとハイネの顔が近づいてきた。瞳よりも鼻が前に見えたと思ったら鼻頭同士がぶつかりそれから額までのぼり吸い頭へ髪まで上がっていく。


 そこにあるものとは一体何か? ジーナはわけのわからぬままに吸い込まていくに任せ、終わったのかハイネはジーナの髪に手を撫でつけながら失笑した。


「つけた方が良いですね。これだと世間一般的にはちょっと」

「なんだその言い方は。だったらハイネが臭いと言えばいいじゃないか」

「私は優しい女なのでそんなことは言いませんよ。私なら耐えられますし」

「女は俺によくそう言うな」


 薄笑いから真顔へと変わるハイネを見ながら男はおかしな気分となった。なんでいま、こんなことを言ったのかと。すると後頭部に手が添えられ引き込まれると頭頂部に何かが当たる。


 呼吸によってそれが鼻と口でであることが分かり同時に熱が吐かれ吸い込んでいく。何度も静かに熱く。


「良い匂いですよジーナ」


 囁きであるのに天からの降りてきた声のように頭から心に直接聞こえた。


「うっ嘘だ」

「はい嘘です」


 だが呼吸は再び大きく吸われ、吐かれなかった。


「けどこう言わないとあなたは怒るんでしょ?」

「怒りはしない」


 後頭部を支えるのが手から腕へと変わり強く力をいれながら頭頂部の顔も深く入ってきた。一つになるようとするように


「いいえ。怒って困らせて我慢させて、あなたっていつもそういうことを相手の女にさせてきたのではありません?」

「そう、かもしれない」


 言うと腕が緩み顔が離れ同じ目線に位置にハイネが降りてきた。


「嫌でしたよね? お返しに私を吸いますか?」


 濃い夕陽をジーナは見ながら誘いに無意識のまま応じ、ハイネの頭を抱き呼吸をした。長く息を吸い込み、ハイネを肺で満たし膨らみきってもまだ吸い込もうとしていた。


「アハハッ吸い込んで食べる気ですか?」


 口と鼻を離し宙に向かって息を吐いた。可能な限りに静かにゆっくりと長く終わりなく。


「あんなに嫌がっていたのにじっくりとやりましたね。ご感想は、まぁ聞くまでもありませんか」


 髪を手で整えながらハイネが尋ねるも聞くまでもないとはなんだろうかとジーナは疑問を抱く。


「ハーブの匂いがしたな」

「だから、なんですか」


 ハイネは横目で見ながら言った。


「そんなのは分かっていますよ。そんな分かり切ったことなんかはあなたが言うことでも私の知りたいことでもありません」


 横目で見ていた瞳が逸らされ前を向いたように見え、ジーナは怒りにも似た感情が腹に湧いた。


「感想をですね、心を語り合うのが、会話ですよ。でもあなたはそうは言わない。知っています。だから、聞くまでもありまえせんと言ったんですよ。分かりましたか?」


 分からない、と男は思い、だから分かっていることを言った。


「好きだな」


 ジーナがそう言うとハイネの身体は固まった。動かない。動くのを堪えているように微動だにせずに佇んでいた。


 聞こえなかったのかなとジーナは考え間をおいてから今一度同じ言葉を伝えた。


「うん、好きだ」

「ハーブの……」


 小さな声で返事が来た。そうハーブのことでとジーナは思うと、またハイネが黙った。


 このハーブの香水は好きですね、と頭の中で途切れた言葉を繋げていると、ハイネがいつもの声で言った。


「私も、好きですよ」


 そうだな、とジーナは心のなかで呟くと、どうして聞こえたのかのようにハイネが引き取った。


「そうですよ……そうだジーナ!」


 ハイネは声をあげながら身体をターンさせジーナに接近する。顔が上気しているように見えた。


「あのですね、せっかくなので好きと言う単語を教えてあげます。いいですか、こう書きましてね……」


 教えられるもしかしジーナの頭はぼやけてその字が頭の中に入っていかなかった。

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