第117話 『俺が殺した』

 斬られている龍の悲鳴は聞こえず、また女の声も聞こえない。動いていない。


 すべては凄まじい勢いで流れているはずなのに、男の耳には無音でありまた眼前の光景は一切が停止しあたかも一枚の絵のようにそれらの一瞬がその目に焼き付けられる。


 男はその流れの中へと落ちていくのに抗うように雄叫びをあげ無音を砕き跳びあがりその止った世界を突き破り、女を噛む龍へと向かい左顔を、その眼を斬る。


 男の存在を認め驚いているかのような龍は呻き声を出すも女を口からまだ離さぬまま見えぬものを手で払おうとするも、男は回避し禍々しい輝きを放つ爪がある左手の斬り、今度こそ龍は悲鳴をあげた。

 

 女が口から離れ落ち男も先んじて地へと降り駆けていくその刹那、龍の脚を斬り三度の剣撃で以って地に伏せさせる。


 落下してくる女を追いかけると、印の力か辺りの空間を歪めながら落下速度を制限させていると見た男の頭は不吉なものがよぎった。


 これはあの時と同じことでは? 急いで落下点に入り、腕を広げ女を受け止める、その軽いこと。自分が知っている女の重さではなかった。


 なにかが抜け落ちているような重さ、軽さ……それは……それは……足元が崩れてしまいそうな恐怖のなか、龍が立ち上がり逃げ出そうとする背中を男は眼に入れた。


 脚が斬られさっきのような速さでは駆けられないものの、それでも男が駆けなければ追いつけない速度でこの場から遠ざかろうと必死になっている。


 女に斬られた龍は地に伏せたまま動かず、こちらを睨み、構えている。自ら壁になりあの龍を逃げようとしているのか。


『龍を追いかけろ』


 男の頭の中で声がする。それが誰の声であるのかは、男には分かった。


『ジーナを置いて戦い追え』


 もう一つの声も頭の中で響く。それはいま、ここで、声が起こっているのではなく耳の奥にある残響、心に刻まれた未だ血塗られた傷跡から出た音。


『僕を早く降ろせ』


 今度は女の声も聞こえた。だがそれは想像上の、絶対にそう言うと分かっているからこそ聞こえる空耳。


 父も兄もこの義妹も同じことを言う。それがジーナとジーナに仕えるものの言葉だと男は知っていた。


 だからこそ父と兄の声にあの時は従った。龍を追い、討った。ジーナの命令だから、討てた。


 二人の命を引きかえに、龍を討つ使命に殉ずる栄光に包まれ天へと旅立った。男は自分はそれに続く者だと自負していた。自らの精神には父と兄と同じ血が流れている。


 選ばれなかった父も誰よりもジーナの右腕として戦い抜いた兄と自分は同じなのだと。だからそのような瞬間が訪れたら、自分は同じことを言い、あの時と同じようなこととなったら、自分は二度目に続いて三度目も必ず行うと誓っていた。


 龍の背中がまだ見える今から追いかければ、まず追付ける。いや追付けるもなにも、追わなくてはならない。黒き龍を討ち、紫の龍を討つ。


 その両腕に乗るものを捨て置き、駆ければ。こんなに軽いものを……失いつつあるものを。


『追え!』


 血が叫んだ。男の腕から力が抜け女が地に転がり落ちそうになっていくなかで、顔が目の下に現れその血塗れの表情の中で口元だけが男の眼に入った。


 女の口は笑っていた。そういう形に男には、見えた。微笑んでいるだろう喜んでいるのだろう、それがジーナというものであり、自らの命より使命に優先させるものであり、きっとあの時の父と兄と同じ顔をしているのだろう。


 自分が龍を追ったことに二人も笑っていたはずだと。このような表情で……


「駄目だ」


 男は言いその腕に力を入れ女を抱き戻した。


「駄目だ!」


 同じ言葉を叫び、歯を食いしばりながら頭の中で鳴る声に抗い否定し拒絶した。


「――を死なせてはならない!」


 龍は東を目指し男は西を目指して駆け出した。


 闇の中を男は自分の足音だけを響かせながら西へ村へ疾走する。腕の中の命が次第に萎んでいくのを感じ男はもしも死んだら、と考えると答えた。


「俺が殺した」


 男は心の声を世界に向かって言う。


「俺が願い、殺そうとしている」


 もしも印を自分が欲しがらなかったら、もしも自分がその名を呼べたら、こんなことにはならなかった。失うことにはなかった。


「しっかりしろ――。村は近いぞ」


 幾度となく繰り返す呼びかけには答えずに女はただ腕の中におり、だから男は考えるしかなかった。理解するしかなかった。


 自分にはあれになる資格など、もとよりなかったと。印を継承できるはずがなかった。他の何もかもが正しく、ただ自分のみが間違えていて、間違い続けていると。


 誰よりも業を背負えば、誰よりも強く思えば、誰よりも強くなれば、自分の手に印が宿り継承者になれると信じて疑わなかったが……そうじゃない、そんなことは二の次であり最も必要なものは、自分とは反対の行動を取る精神だということを。


 あの時もしも逆であったら、自分がジーナであり瀕死の重傷を受けたとしたら、女は自分を見て、龍を追うだろう。


 自分はあれの性格をよく知っている。疑いもなく追い使命を果たす。それが絶対の正しさであり、後継者に相応しい魂だ。


 ではこの魂は? 男は夜の坂道であっても脚を一向に緩めずに坂を駆け昇る、脚には痛みも苦しさも感じなかった。男にはそんなことはどうでも良かった。


 女は女で自分の性格を誰よりも分かっている。それはあの選択の前で曝け出したこの魂の弱さを。いつかこのようなことが起こると、予感をしていた。


 今のこの間違えた行為、止らない脚、流れゆく思考、彼女が祈り願ったというのはこの弱さを見抜いていたからでは? そしてそれは印もそこを知っていたから、本当に強い魂を選んで……そうであるのに分からなかったのは自分だけであり、名を呼ばず村を離れこうして帰り印が欲しいと願い、龍を追撃しなかった……


 駆ける男は両の眼から涙を零しだし去っていく後方の闇へと流れ消えていくことにも気が付かない。


 今わかった、と男は女の右手の印に手を当て思う。自分は龍を討つものの資格はなかった、と。だから……だからどうか


「死なないでくれ」


 だが返事はなく、その身体の重みが徐々に軽くなっていくと感じ男は強く引き寄せた。


「――。いや、違う」


 男は言い直すために全身を強張らせ足に力を更に入れ飛ぶようにして、呼び叫ぶ。


「死ぬなジーナ!」


 封印された言葉はいとも簡単に口から出たことで男の身体はどこか軽くなった気がすると同時に、握っている右手の印に熱がこもりだした。


 この言葉で反応をするのなら、男は祈る。印に力が宿るのなら、何度でも叫んでやる、何度でも何度でも何度でも、その命を救えるためになら俺は名を叫びこの命を捧げる。


 決心を新たにした男は名を呼び叫びながら龍の門を目指した。門の柱に手を掛ける見慣れた人影と特徴的なシルエットが目に入り男はそれが誰であるのか一目でわかり、飛跳ねるように最後の直線にかかった。


 ここでようやくこの力が印によるものであると勘付きながら。


「ツィロにアリバさん!」


 門に辿り着くと男は大声で呼び辺りを見る。大丈夫だった。村人はツィロのみであり他はアリバの一団しかいない。それでいい他の村のものにはこれを見られるわけにはいかない。


 呪身がジーナを抱えているところなど、見られてはならない。ツィロは男が腕に抱えているものを見て震え放心し呆然となり口が利けなくなるとアリバが背中を叩いた。


「しっかりしろ! あんたは夫でしょうが! おいジュシ! 容態はどうなんだ!?」


「傷よりも毒にやられている! おいツィロ、この村には薬草は殆どないんだな!」


 卒倒寸前の顔色ながらツィロは倒れまいと踏ん張りながら震え声で答えた。


「ざっ残念ながら有効そうなものはない。だからアリバ氏に頼んだんだ。ううっこのタイミングでこんなことに」


 脇に立っていったアリバと仲間たちは突然箱の中身をひっくり返しその中に自らの上着を入れ出した。


「ツィロさん。とりあえずこちらで運んできた薬草で仮手当てをしてそしてジーナさんをうちの薬房までお運び致します」


 意外な申し出にツィロは即答できない。


「こちらに治癒手段が無いと言うのならうちの他はございませんでしょう。こうなった以上一刻を争います。どうぞご許可を。他のものに見つかると面倒です。ジーナさんというよりも夫であるあなたの妻をお運びする、それでどうかご許可を」


 聞くやすぐさまツィロは上着を脱ぎアリバに手渡した。


「俺のは首元に敷くようにしてくれ。どうか妻を頼む。それと――。女中のシムをそちらに回す。身の周りの世話はあの人に任せるように、いいな」


「連絡は毎日こちらに届けさせるようにする。歩けるようになったら来てくれそれまでは……ジーナを俺達に任せてくれ」


 男がそう言うとツィロの眼は大きく見開かれ無言で男を見た。そして口が開かれ何かを言おうとした瞬間にアリバの大声が聞こえた。


「準備ができたぞ! こちらにお連れしろ」


 ツィロは女の左手を握り額につけ男は右手の印に触れ、名を再び呼ぶ。


「――」

「ジーナ、印よどうか力を」


 言葉を掛け終わるとツィロと男は箱まで運んで行く途中で女の顔を見るとその口はまた微笑んでいるように見え、男には何を言うのかを想像できた。


『言ったね。僕の勝ちだ』


 そうだお前の勝ちで俺の負けだと男は心中で返す。だから、どうかそのまま、勝ち逃げしないでくれと。箱の中に女を入れ蓋をしめると、担ぎ手四人が持ち上げた。


「みんな。こんなこちらの都合に付き合って貰って済まない」


 男が頭を下げるとアリバ達は笑い出した。


「そんな水臭いこと言うなよ。こんなのを見たらやるしかないだろうよ」


「かえって荷が軽くなったんだから楽だぜ」


「この人はジュシにとっちゃ大切な人なんだろ?」


 男は顔を上げみんなに告げる。


「そうだ俺の命よりも大事だ」

「行くぞお前ら!」


 アリバ達は駆け出し男も後に続いて行く。背中にツィロの眼差しを感じながら夜の闇へと向かい山を降りだした。


 その頃、力尽き倒れ伏せた黒い龍を村のものたちが発見するも、紫の龍は行方知れずとなった。

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