第101話 私じゃ嫌なのですか?

 その口から放たれるあの名前を聞くとハイネには反発心しか起こらなかった。


「あったとしたら、それがなんだと言うのですか」


 ハイネは睨み付けた。その二つに対して。


「あなたには関係のない事ですよ」


「……そうだな」


 撥ね付けた分だけジーナが遠くに行くのが動いていないのにハイネには分かった。だから手を掴んだ。


 しかしジーナが遠くに離れていく感覚に襲われ強く握ろうが引っ張ろうが、彼方へ行こうとしている。


 下唇を噛みながらハイネは頭上から降りてくる声にやっと気づいた。


「ちょっとハイネ? なにが何がしたいんだ」


「あなたが会話中なのにどっかに行きそうになるからこうしているのですよ。分かりません?」


 ジーナの混乱が手に伝わってきたのをハイネは笑った。自分でも何を言っているのかよく分からない感覚的なことなのにと。


 だからハイネは一つ試してみた。


「手紙の件ですけどぉ」


 するとジーナがこっちに近づいてくるのが分かった。そうだやはり対峙するしかないのだとハイネは半ば観念する。


 今覚えた喜びと悔しさの感情。その間で戦う他ないのだと。自分達はそういうものだと、この人もあの人は意識しないだろうが、私はそう意識する他ないのだと、ハイネは握っていた手を緩め、離す。より戻り近づくために。戦うために。


「内容はですね、まぁ大したことではありませんよ」


 いつもの癖で微笑みを向けるがジーナの表情は強張っている。


「大したことでないのにそこまで抵抗したのはいったいなぜ?」


「善悪の話をしたから私ちょっと混乱しちゃっただけですよ。それともジーナは私が何か悪い事とかやましいことをしていると思っちゃったりしていますか?」


 また意味不明な問答を持ちかけられジーナは視線を斜め上にあげほんの少し考えてから答えた。


「私に対しては、よく分からぬことを言ってきて困らせて来るのが悪いと言えば悪いかと」


「もうイヤですねジーナったら。男女の会話はたまに意思疎通が通らなくなるなんて普通ですって。だって男女ですよ、違いますよね? 別に困らせているわけでもなく悪い事でもありません。それとも私は不快で傍にいない方が良いのですか?」


 こう言えば必ずジーナの返事は決まっている、だからこそこう上目遣いで聞くと答えは起こったような声で帰ってきた。


「そんなことない。だったら前線になど呼ぶはずがない」


 その本気の声にハイネは自尊心が回復し自信を深める。


「そうですよジーナ。あなたが呼んだから私は来たのですよ」


 不安のため手紙の話をする前にこうやってくどいくらい強調させることにしたハイネはとりあえず安心した。


 準備は整ったのでそろそろと乱れっぱなしの呼吸を落ち着かせるため咳をする。


「ウフッ、オホン、ウフッ、オホン」


「ハイネ? あの、手紙の話はどこに?」


「オホンッ。あーいま調子を出しているのですから慌てないでください。いやいやそんなに大事ではないのでご心配なく。エホンッ。ええっとジーナは中央の字を覚えたいとか思ったりしたことありますか?」


 また意味不明な質問が来たなと思いつつジーナは真っ直ぐに答えた。今回はどんなめんぐさい罠なのだろうか。


「一度も思ったことはないが、手紙だと覚えろと書いているのか? けどなあ」


「いいえ。書けた方が絶対にいいですよ。今までどこかで不便なことがあったはずですって。特にあなたは読めるけど書けない人ですから、歯がゆいと思ったことが多々あるはず。それでシオン様からの要請はこうです。情報分析のために前線のリアルな様子を伝えて欲しい、と。けれどもこちらは西の字は分からないために中央の字で頼む、などなど」


 こうハイネは手紙の内容を誤魔化すというよりかは意図的に部分的に伏せながらジーナの表情が変化するのを、ワクワクしながら手紙の隙間から眺めていた。そうだ不都合な内容であったら都合よく変えればいい。ジーナは手紙を見せろとか言う人でないから上手くいける、と。そもそも読んでもわからないもの。よって確実に勝てる。


「そうか、だけど困ったな。シオン様は私が中央の字を書けないことを知らないんだよな。なまじっか字だけは多少は読めたからそんな要請をしてきて」


「おまけに中央の言葉も硬いながらもほぼできていますから、それはもう深い付き合いが無い限りはそこは分かるはずはありませんよね。しかし、いったいどうしてそんな中途半端に?」


「いや前に話した仕事先の商人の親分から教育してもらったんだが、本格的に字を習う段階で戦争になってな……そこはともかく私には文章が書けない。申し訳ないがこの件は断るということで返事をしてもらえないか」


 絶対にそう言うと思っていましたよ、と既に予想済みであったために、ハイネは自信なさげにうつむくジーナの肩を掴み顎を手であげさせ自分の方へ顔を無理矢理見させた。


「そんなに簡単に諦めてしまって……情けないことを言っていると思いませんか? なにもシオン様は後方にいて暇だから前線の話を聞きたいなといったことではありませんよ。誰よりも最前線にいて活躍をするあなたの目を頼りにしてこのような依頼を出したのです。他のものではなく、あなたにだけ。これは言うまでもなく戦争に勝つためなのですよ。あなたの報告が後方のシオン様たちの状況判断の材料となるのです」


 演技だとハイネは認識をしているが語るうちに自然にうちから熱いものが湧きでると、あの冷めがちであったジーナの眼にも熱のようなものが浮かび出てそれに魅せられたハイネはいま演技をしているということを忘れた。


「私じゃ嫌なのですか?」


 口どころか心までもが滑って本音が本当に聞くべきことが出てしまったと、ジーナがその言葉の意味を理解しかける寸前の表情が目に入った瞬間にハイネは正気に戻った。


「そういうことじゃないです。いえっ違うんですよ、違う。つまりはです、つまり、中央の字なら私が教えられますが、先生が私じゃ嫌ですか? と聞いたのですよ、いいですか勘違いしないでくださいよ」


 あぁ成る程とジーナは言いながら納得していく表情を見るとハイネの心は安堵感が広がるもその片隅に微かに後悔の念が滲んだ。


 もしかしていま誤魔化さなかったら……いやそんなことはない、と二度心の中で繰り返し否定した。この男はかなりめんどくさいひねくれものだから、簡単にいくはずがない。


「ハイネで嫌ではないけれど忙しいのに悪いと思うから、だからこれはその」


 拒否の流れに反発心を覚えたハイネはまた頭に血が上り演技などしていられなくなった。低い声が出る。


「私の他に良い人でもいるのですか?」


 ジーナが近づいてきた、のではなく自分が近づいたのだろう。いまハイネの鼻はジーナの鼻に触れそうなほどの距離となっていた。


 自然に自分から。それは焦りか、危機感か、もしくは好機だったのか、どっちにせよハイネは苦笑いしながら自ら壊した。


「まぁいませんよね。この砦内だと文官はごく一部ですしあなたと交流があるのは私だけですから。だったら選択の余地はありませんよ。忙しいと言いますが、いまこうやって休憩している時間を使えば良いのですし、私も別にあなたのためにほとんどの時間を費やすのではありませんから、ね?」


 抑えているのにどうしても懇願調となり、しつこくなり、くどくなるのを自覚しながらの訴えをジーナは神妙な表情で聞いていた。


 こういうのを笑わないタイプの男で本当に良かったとハイネはまた感心をした。


「あなたはそこまで重く考えることはありませんよ。重く考えられるとこっちも重くなります。重いのは嫌なんですから、もっと軽く考えてください。そうですよ、ただあなたはですね、あなたは」


 ハイネはどうしてか言葉に詰まり、間が生まれた。見つめ合っているジーナはハイネの瞳の色があの色に変わるのをみた。


 ハイネもまたジーナの瞳の光りの変化に導かれるように、心を伝える。


「私を選べばそれでいいのです」


 言った途端に口が完全に閉ざされ言い訳も誤魔化しもハイネにはできなくなった。


 ただ相手の返事を待つ形となり、時も思考も心も停止しただ見つめただ呼吸をするだけとなり、それ以外のことはなにもできずまた許されないものとなる。


 ジーナは異様さを感じながらもハイネの心を知ることも共感することもあるはずもないのに、最も欲しがっていた言葉がその口から出て贈られた。


「他にではなくハイネにお願いしたい」


 こう言うとハイネの表情が和らぎ頷くとジーナの心には温かさに満ちた。


「あなたがそこまで言うのなら応じてあげますよ。忙しいのに困りますけど勝利のためですからね。では早速始めましょうか」


 机の上を片付けだしたハイネにジーナは驚いた。


「今からって、あの仕事の方は?」


「そんなもの、猫にでも食べさせてやればいいんですよ」


 新しい苦難が始まる。

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