第96話 『お前ではなかったのだ』
薪が爆ぜる音が二度大きく鳴るも一同のものは誰もそれには反応をしなかった。沈黙で以て待機している。
会場の中心に鎮座する篝火だけが辺りを照らしだし、その傍らには長身の翁が正装で以って立っている。何かを待っている。
今一度薪が爆ぜ、砕ける音が響く。翁は音を気にしなかったが火の質が気になった。炎の揺らめきがどこか暗く粘っこい感じがこの場には相応しくないと。
これから行われることに対して炎の性質は逆ではないかと。それでも翁はそれは己の気の迷いであり、これ以上考えるな、もう頃合いであると判断し口を開く前に、それでも眼の端にてある方向を見てしまう。
そこには依然としてうなだれている男がおり、翁は思う。そうだこの炎はお前には似合っているな、と。
だがお前は選ばれなかったのだ。
不憫とは思うがお前ではなかったのだ。
お前はそういう存在では無かった、それだけのことだ。
心中にてそう言い捨てると翁はそのことについてはやっと見切りをつけ、ようやく口を開いた。
「印が現れなかった以上――は継ぐものではない。異論はあるか?」
事前に決定済みでありこれは確認のための儀式であるためにその場から異論が出るわけもなく一同は沈黙で以て肯定と答えた。
ただ一人を除いて。
いや、この時点ではまだ二人を除いて。翁はもはや一人の方を微塵にも思いもせずにそのもう一人のものを呼ぶために尋ねた。
「そして印が現れた以上――を継ぐものとする。異論はあるか」
これもまた一同は沈黙で以って答えるが、その沈黙は先ほどのとは質の違うものであった。
異を唱える気が一つ減り、それどころかそこから強い決心の力が先に立ち上がりこちらに向かってくることを翁は感じた。
風が吹いたのか、篝火の炎が大きく揺れ、色が変化したように見えた。そうだこの色だ。執念に燃えるかのような黒い煤を舞わせる炎の揺めきではなく、煌々と輝く黄金を帯びた炎が燃え盛るのを見た翁はこれを啓示だとし逃すまいと急いでそれを呼んだ。
「これより継承の儀を行う――よ、来い!」
「はい!」
気持ちいいぐらいに心が弾む返事と共にそれは跳ねるように立ち上がり、その緑色の瞳を翁に向けながら進んだ。
その瞳の色はあの男と同じ色だと、翁は切り捨てたというのにどうしても連想せずにはいられなかった。
継ぐものが近づいてくるその間に、幾度となく考えたことを蒸し返した。どうしてこうなったのか?
もしもあれに印が現れたのなら、どれだけ簡単で何もかもうまくいったというのに……だがもう、こんなことは考えてはならぬのだ、と翁は自身に喝を入れる。印は絶対でありなにものにも変えることはできない。
現れたことを肯定しなければならない。このものを認めなければならない。
近づきつつある翠色の眼に長い紫髪の少女を。昨日までいやさっきまで少女であると思っていたのに、もうそのような幼さは一歩こちら進むごとに消え去っているようにも見えていた。
その成長は、印の力かという思うほどに。これに翁は頼り甲斐を覚え先ほどのは気の迷いなど今度こそ切り捨てることができた気がした。それから二人は篝火のもとで相対峙する。
「印を見せよ」
翁の指示に――は右手をあげる。その手の甲に浮かぶ痣のような薄色の線、証ともいうべき聖なる印。
「では、耐えよ」
それから篝火の中から翁は鉄串を取りだしその印の線に沿って焼きを入れ出した。
静寂の中で篝火の爆ぜる音に風の音そして肌と肉を焼く音だけが辺りの空白を埋め満たせていく。
印を持つものは呻き声を漏らすことなくこの世にはっきりとした形となって現れる刻印を痛みと共に受け入れていた。
その儀式の経緯を一同のものたちは見守っているも、やはり一人だけは違う心でその景色を眺めていた。
間違いであり偽者であるのなら、と男は邪心を抱きながら見る。そのうちに耐え切れなくなって呻き声をあげるはずだ。
あいつは痛みに弱いということは自分が他の誰よりも知っている。そうなれば自分の手に印が浮かぶのかもしれない。
これはなにかの誤りであって印は自分に、元から望まれていた自分に、降される。
最後にそう望みをかけてきたが、女は苦しみの声どころか苦悶の表情さえも一切浮べずに自らの右手に印が刻まれていくのを正視しているのを男ははっきりと確認し、耐えきれず逆に目を逸らしてしまった。
あれは俺に対しての返事だと。男は心中で悶えた。自分が正統な後継者であることを示すためにああやって極限の我慢をしているのだ。
俺を全否定するために、完全にあきらめさせるために、ああしている。そういうのもまた優しさであるのかもしれないが、俺は、俺は……男の惨めな邪念は金色の炎に遮られたように届かずに刻印の儀は終わった。
印を刻まれた女は最後まで変わらず眉ひとつ動かさずに満足気に自らの手を眺めながら頷き、男は眉を潜ませながら身体を手を震わせながら自らの手の甲を見る。
そのなにも刻まれてはいない手の甲を。なぜ自分ではないのか? と思いながら。
「これで継承の儀を終了とする。ここに始祖以来の『ジーナ』が誕生する」
ここでようやく一同は立ち上がり祝福の声をあげると『ジーナ』は手を振り辺りを見渡し淡い緑色が混じった金色の光を示し、みなはその柔らかな輝きを見つめ、自然に頭を下げた。
一人を除き。ただ一人が座ったままなにも口に出さず語らずなにも見ずに虚ろな眼差しで以て自らの甲を眺めているだけであった。
その名もその印も自分のものだったのに。
そのことのみを思い、この世界を憎み怨むためにあるような暗く粘りつく炎を身にまとった故に男はこの世界から追放される。
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