第76話 無いと言うとしたら心が無い

 午後となると医師の診察と軍からは調書が行われ、この事件はあっさりと終わりを告げる。


「お前が怪しいと感じて探索に行ったら具合が悪くなって気絶した……ただそれだけだろ?」


 懲罰を覚悟しあわよくば龍の護衛の任が解かれるかもと心のどこかで期待していたジーナはバルツのつまらなそうな態度に失望した。どうしてあなたはそこまで寛大でもの分かりが良いのか、おかしいです。


「罰があったほうが逆に体裁が良いかもしれんし、お前の気も晴れるかもしれんな。では勉強時間を増やすとしよう。学習態度が改善されたことだし、もっと勉強をすればお前も龍への信仰にはやく目覚めるだろうに」


「そのご処置はたいへんにつろうございますから、代わりに違う罰を。たとえば解任とか」


「罰を注文する奴があるか。今は辛いかもしれんがこの先お前には龍の信徒となる幸福が待っておるのだ。いわばこれは罰ではなく御褒美であり俺からの労いだ。羨ましいものだ。目覚める瞬間をその年で覚えることができるとはな」


 そのような瞬間は訪れないしそれを拒絶するための傷がこれであると、ジーナは胸に手を当てて思う。自分はそうなってはならない唯一の存在だと。それと同時に思う。


 あの二人と対峙するときに発する痛みの箇所と、短刀で突き刺そうとした箇所はずれたものの、その二つは近いあるいは同じところであるのは何故かを。


 体力の低下を歩くたびに感じつつも後遺症を感じることはなく、いわゆる退院となった。随分久しぶりのように兵舎に帰った際も慰労の言葉と復帰の喜びに満ちていたのも、昨晩ようやく行われた祝賀会のおかげだろうとジーナは思った。


「隊長もせめて席におられれば良かったのに」


 と道具の整頓中に近づいてきたノイスがそう言うが、その身体からは複雑に染み込んだいくつもの香水の臭いがして、一歩離れた。


「ノイス……凄い臭いがするぞ。昨日は相当派手にやらかしたんだな」


「あっそうですかこれは失礼。自分だと慣れちゃって気づきませんからね。でも隊長のこともありましたから抑えましたよ」


 抑えてそれかとそういえば部屋に入った際にやけに女臭いなと思ったが、祝賀会とはそういうものでもあるとジーナは思い出した。


「惜しかったですね。ですから出席なされれば良かったのですって。隊長なら今回の件もあって女が寄ってきましたよ」


「寄ってくるわけがないだろうに。私はこんなのだし」


「こんなのとは?」


 小首を傾げながらノイスが尋ねるとジーナは左頬を指差した。


「こんな男でしかも顔は傷っ面。不気味がって近づきもしないだろうに。だいたい私は女の人といても話すことが特にないぞ」


 自分の言葉なのに、どこか引っ掛かりがあるとジーナは感じた。なにかとても大きな違和感が、嘘を。


「ほぉ。隊長は女人から離れておられますか。まぁその通りですね。隊長と女が一緒にいるところとかは大変珍しい事ですが」


 ノイスは鼻を鳴らしながらジーナの身体を嗅ぎだした。その手を特に右肩付近を、ハイネが特に接触した箇所を、的確に。


「そう言うにしては隊長のお身体からは女の濃い匂いがしますね」


「違うんだ。あれは看護で」


「肩に頭をうずめる看護とは新治療法でしょうかね。そういった行為は普通は」


「違うんだ。向うが疲れただけで」


「何に疲れたのですかね」


 ドツボに嵌っていく感覚に陥りジーナは自棄のような一言でそこから飛ぶことにした。


「看護で疲れたんだ。それに向うがそうしてきたのに避けるとか、私に鬼にでもなれと言うのか」


 半ば怒るとノイスは笑い出し微笑みを向ける。


「若干鬼だとは思いますが、すみませんちょっとからかいが過ぎたようで。お二人の関係は分かります。臭いが足りませんでしたし」


 若干? ちょっと? 足りないとツッコミどころが多すぎるためにジーナはどこからどう言っていいのか分からないでいるとノイスは話を変えた。


「ハイネ氏は男の仲間たちと共に頑張ってくれましたからね。あんなに良い人と同僚になれるだなんて良い役目に就けましたよ隊長は」


「そこはそう思うな。素晴らしい同僚でな」


「素晴らしい御関係ですよね。肩に頭を埋めながら共に語り合い触れ合うということは」


「頼むからノイス。私達の間にはな」


「間には、なにがないのでしょうか?」


 なにがないのか? そう言うのなら、ではいったいなにがあるというのか、とジーナはハイネとのこの間のことを思い返す。


 指摘された胸から肩にかけてのハイネの頭の重みからその手の熱、息の臭い、瞳の色、頭の固さ、声、声、声、私の名を呼ぶあの声、とある物しか見当たらず、ジーナは一度手で口を拭いノイスの眼がそれを追うのを見て後悔をした。


 そうこの唇も知っている。何度も触れたなんの感情も籠っていないただの手段としてのあれも、そう、ないのだ。私達には。身体との接触による何かは知っているのだけれど、決して知ることのない、無いものをはっきりと見つけノイスに言うことができた。


「無いと言うとしたら心が無い。特に私の、心がな」


 そう答えるとノイスの表情はそれは本当か?と問い質してくるものとなりまたジーナは例の胸の部分に鈍い痛みが湧き起る。


 心などないと言った癖に。


「もしも真実そうだとしましたら隊長は俺よりもずっとずっと、罪深いことをしていますよ」


「あちらだって同じことをしているし」


「男と女では同じ行為でも罪の重さは違いますよ」


 いつになく男に対して多弁なノイスに責められるが、当の本人がそのことで重犯罪者となったものの言なためにジーナはむやみに否定はし辛かった。


「私はそういうことはないしハイネさんだってそんな気はないだろう」


「ではひとつお聞きいたしますが、ハイネ氏とジーナ隊長との間で行われていることを彼女は他の男友達となさっていると思われますか?」


 ノイスの言葉でスイッチが入ったかのようにジーナはハイネとの記憶を出会いのところから、昨日のところまで各場面がランダムに順不同に入れ代わり立ち代わり思い出した。


 ここまでのことを他の男と、知らない男と、行っているとしたら……可能性を考えるまでもなく、そんなことは有り得ないからジーナは言葉を変える、有ってはならないから、そして有らないでくれ、と祈る声をジーナはすぐに撥ね退け、ここで笑う。


 分からないが、笑い、それから力強く首を縦に振った。あの調子じゃあるだろうな、と言うために。


「しているわけがないだろう。なにを言っているんだ」


 口からは心からの声が漏れ出たことにジーナはすぐに閉じるもノイスの顔は驚きに満ち、それから視線を落した。目も合わせられないということか?


「男友達はたくさんおりましてもジーナ隊長は一人しかいない」


「そっそれは当然だろうに」


「ですからどうかご自信をお持ちください。傷っ面と卑下なさいますが、岩に傷がついているように傍から見ればあってもなくても変わりはありません。むしろジーナ隊長の場合は印象づけられるのでプラスなのではないかと」


 これは私が自信がないためにああいうことを言い訳がましく言っていると思われている?違う違うのだと語りかけようとすると察したかのようにノイスは立ち上がる。


「けれども俺は安心しましたよ。隊長が普通にそういう心を持っていることをです。あと俺と全然好みが違うのも凄く安心しましたし」


 お前の好みと合致する男なんかそういて堪るか。むしろ同類の恐れを抱かれていたのかとジーナは衝撃を受ける。


「それと人には到底言えない特殊な趣味を持っているとかでないとか。俺も人のことはあまり言えないし非難する権利も口もありませんが、やはり身近な他人は常識人であってほしいと勝手ながら思っていましてね」


 それはそれで都合のよい誤解であるなと安心しているとジーナはノイスの言葉をもう一度思い返す。臭いは一人、と。もう一つは、まずい。確かめないと。


「待てノイス。あの、女の臭いがするといったが。一つだけなのか?」


 勢いよくノイスは振り返りジーナをまじまじと見て、もう一度嗅いでくる。なんだろうかその反応は。


「もう一人、いるということですね」


「いや身に覚えがないのだが」


「だったらその質問は何です」


「無いけれど念のために」


「無いのに念を押す人はどこにもいません。つまり隊長は……」


 そういうことかとジーナは自ら掘った穴に足を踏み入れるが、落ちていないようにふるまうことにした。


「いいや違うよノイス。お前は私からもう一人の女の存在を嗅ぎ取ってはいないじゃないか。それともその鼻の力ははったりとかであったのか?」


「何をおっしゃられる。男でも女でも俺より嗅覚のある人間に会ったことはありませんよ」


「ではそういうことだ。ノイスが嗅ぎ取れないので二人目なんかいない。はい終了」


「ですからこちらも困惑気味で。だいたい二人目がいないのなら自分から確認するなんてことを聞くなんて」


「世の中そういうこともある。あっ私は忙しいから話はここまででもう結論だ。ではあとで」


 引き留める声を無視してジーナは駈足ではなく恐るべき速度の早歩きで以って兵舎を出た。その脚の運びと同様に心はひどく乱れ取りとめようがなかった。ハイネのことヘイムのこと、自分のこと。


 こんなことは一切考えたくはないのに、自然に頭の中であちこち飛び交ってはその度に胸が痛くなって、頭も重くなって、声も聞こえて……闇が来て、と。


 少しでも考えたくないためにジーナは例の部屋に急いで向かった。全然関係のない話を聞くために、ある意味で救いを求めるために、階段を一段飛ばしで昇り無理に心を弾ませながらいつもの扉を叩くと返事がし開くと、準備をしていた長髪で細身の僧が顔をあげた。


「随分とお早いですね」


「ルーゲン師のご講義をどうしても聞きたくて」


 その言葉に嘘は無く意外な顔をするルーゲンはジーナの様子を見て満足気どある。


「嘘でも嬉しい言葉だ。でもあなたはどうやら真実を言っているようですね。ありがとうジーナ君。はじめる前に座って少しお話でもしましょう。君も病み上がりだ、そう慌てずにゆっくりといこう」


 ジーナは席に座りルーゲンも続いた。いつものように用意されていた茶を注ぎ手に取るといつもよりも熱く、それがいつもと違うことの明確な証でもあるようであった。


 はじまる前の特別な時においてジーナは喉に慣れない熱さを感じているとルーゲンが茶菓子を用意し眼の前に差し出してきて、「どうぞ」という言葉と共に全く同じ響きと高さの声で、聴いてきた。


「龍身様が昨夜お伺いしたようだね」

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