第72話 お前が憎い

 幾千にも及ぶ闇の果て、ジーナは痛みと共に目を覚ました。正確には目を覚ましつつあった。生きているから痛みがあるのかそれとも死んでも痛みはあるのか?


 混乱した頭のまま、まず思ったのはここがどこであるかだが、知っている匂いが鼻に入りしかもそれが強く濃いことからジーナは呼んだ。


「ヘイム様。そこにいるのですか?」


 返事が無く瞼を開こうとすると、右手で以って遮られた。ヘイムによる闇の形成。


「瞼を開けてはならぬ。今のそなたがそれをやると、死ぬぞ。いいな妾が良いというまで閉じておれ」


 その口調の真剣さからどういうことなのかは聞かないことにし、ジーナはまず気になっていることを尋ねることにした。


「ここは死の世界ですか?」


「そうだとしたら何故妾がいるというのだ?」


「あなたならそこにいると思ったからです」


「するとそなたが死ぬと妾も自動的にあの世に行くというのか、なんとも馬鹿馬鹿しいことを言うのだな。頭でも強く打ったのか?」


「打ちましたけどそれは、うっ」


 胸の痛みはまた一つ増していきジーナは思い出す。自分は自らの胸を刺したということを。


「なぜ自ら胸を刺した?」


 ヘイムは傷口に手をいれながら尋ねる。


「あなたは見ていたのですか?」


「ではそうなのだな。しかし見てはいない、ただの勘だが当たって何よりだ。予兆があってな」


 またひとつ傷を広げるとジーナが軽く呻くもそれ以上の声はあげなかった。


「偵察隊になにか事件が起こるとな。だからこうしてそなたに御守りを渡したのだ。大方こうなるのだろうと思ってな。死なないだけ良かったな」


 傷の深さは限界に達したようでヘイムは今度は傷を縦に広げるようにしてくるが、これはいったいなんであるのか?


「いま妾がしていることをどう思う? そなたを殺すためのものだと思うか?」


「……不思議とそうは思わないです。わけがわからないけれど、これは私を生かすための痛みだと」


「痛いであろうによくそんなことを言えるものだな」


「だってその動きには悪意がない、ぐっ」


 強い痛みが走りそれから徐々にだが痛みが遠ざかっていくようにジーナには感じられた。


「そなたはな、なにもせずにただ刺されれば良かったのだ。そうしたら自動的に御守りが代わりを務めてくれた。それなのにわざわざそれごと刺しおってからに、よくそんな器用なことをしたものだな。おかげで機能に損傷が出て戻すのにこんなに手間がかかっておるのだぞ」


 御守りの機能がなんであるのかよく分からないが、ぶつくさと文句を言う声を聞くとジーナは答えた。


「どうしても刺さなければならなくなりましてね。それなら自分諸共ということで」


「どうしてもとは、それはまた妙なことをしたな。だがそれなら一緒に刺す必要などなかったであろうに、実に分からぬ」


 傷の痛みが少しずつ癒されていく快感に浸りながらジーナの口も開き出していた。


「御守りだけを刺すだなんて、ひどいではないですか。だったら私諸共に」


 ヘイムの失笑の声がし胸を三度叩いてきた、

 激しい痛みの中でジーナはこれはトドメなのではと悲鳴すら上げられなかった。


「心中なぞごめんであるぞ。死ぬのなら一人で死ぬがいい。一人で痛みを抱えてな……」 


 その小さくなっていく声と胸の消えゆく痛みからジーナは治療の終わりが近づいていると思いだすも、どこか腑に落ちないところがあった。一人で痛みを抱えて、とは。


「ヘイム様。瞼を開けてもよろしいでしょうか」 


「絶対に駄目だ。開けたら最後、傷口は再び開かれそなたは血塗れになって出血死するぞ」


「そうではないですよね、あなたが目を開けさせない理由は……どこを怪我されていますか?」


 ヘイムの手と口が止まり思考に費やす時間が少しできたがジーナはそれが固まる前に揺すぶった。


「御守りの機能とかは分かりませんが、身代わりとなってくれますけれど一緒に刺したことによってその機能の一部が故障し、私への深手は命の一歩手前の段階であなた自身に転移し傷がついたのではありませんか。だから声が苦痛を滲ませてそしてその傷を私を見せたくなく目を開けさせないと」


「……だからどうした?」


「あなたはそれを誰にも話しはしませんよね。シオン様にもこの私にも」


「なにが言いたいのだ? それがもし事実だとしても妾は感謝や謝罪など欲しくもなく不必要だ。これは妾の痛みだ」


「いいえ、それは私の傷です。私が持つものだったものをあなたに与える理由などなかった、だから、せめて」


 ジーナは自分の左手を感覚で動かしヘイムの顔の前あたりまであげた。


「その傷に触れさせてください。何の意味もありません、ただその傷を確かめたいだけです」


 間が生まれ、時が止まり言葉も止まり、その時と意識の狭間のなかでヘイムはジーナの手を掴んだ。その瞬間的な間でなければならなかったかのように。


「それに何の意味があるというのだ」


「あなたの痛み苦しみ」


 瞼を閉じたままのジーナは自分の手に強い力が加わるのを闇の中で感じた。加えて伝わって来る感情のなにかも。


「私があなたにつけた傷に触れることによって、また痛みを感じる。どうかそれをさせてもらいたい。私はあなたを苦しめている傷に触れさせてください。その傷は私のものだとしたら私だけはあなたの呻きを聞く権利がある」


 更に強い力が手にかかるもののジーナには痛みは無く、それから手は導かれ覚えている熱から知らない熱へその内へ、もっと熱い中へ指先が触れ入っていくと、呻きが聞こえと指先に抵抗がかかり、そこで止まる。


「痛い……痛いな」


 震えがくるもヘイムはその手を離そうとはしなかった。


「おお痛い……お前のせいだ」


 掌の上に胸になにかが落ちてくる感覚だけがあった。


「お前は妾に傷をつけ、苦しめる」


 それが涙であるのか血であるのか確かめる術はなくジーナはそれをひたすらに受け入れ続けた。


 皮膚に染み込みそれが体内に入ろうとも、全て受け入れなければならなかった。また一滴落ちてくるもジーナは疑問に思う。涙と血の違いとはなんだろうかと。


「お前が憎い」


 いま身体の中に何かが入ったとジーナは感じた。血に涙に言葉に心のどれかかそれとも。


「お前さえいなければ、このような傷がついた身体にはならなかった、お前さえいなければ」


 息が止まりそうなほどの痛みが胸へと迫るも男はそれも受け入れ苦しさを覚え、それからヘイムに今の心を伝えたくなった。


 それはどこか助けを呼ぶ際の気分にも似ていた。その声は必ず届き救いが来ることも、信じることができた。だが男は切なさと苦しいのなかで踏み止まった。私にそんな資格などあるのかと。


 私が私であることを望む限りはその声をあげることは、許されるのか? この痛みを癒さず抱えたまま生きることがこの選んだ生の条件なのではないのか?


 ここが線なのではないか? 限界の線はここであり、互いの息があたり鼻がつくほどの距離、だがその無限の距離。


「憎むけれども、あなたが中央に行くためには私がいなければなりません」


 ジーナが言葉を発すると手の力が緩みどこか遠くへ去っていく感覚があった。


「だからあなたはわざわざ私を助けた。そうですよね」


 指先がヘイムの肉から離れるのが外気に触れた冷たさから分かった。


「そうだ。そうだともお前は敵だ。死を願うが中央につくまでは生きて貰わねばならない」


「生きている限り私は最前線に立ってあなたを中央まで導きますよ。私もあなたが憎いですが、それに関係なくこの身がある限り間違いなく。あなたは中央にて龍となればいいのです。龍となるものよ」


「ではそなたは中央にてそこにいる龍を討てばいいであろう。龍を討つものよ。我々はもとよりそのような関係であったのだ。依然変わらずな」


 手は自分の胸元に戻されヘイムが立ち上がる音がし遠ざかっていく足音が聞こえる。そのいつもの足音。


「妾が扉を閉めたら、瞼をあげよ」


 命令されたことによりジーナはヘイムの音を耳で追いかけ、やがて扉が開きすぐさま閉まる音を聞くと同時に瞼を開くと信じられない光景がそこにあった。


 ここはなんて暗い部屋なのか、と。もっと光が満ち溢れていると瞼を閉じた闇の中において思っていたのに。


 それは傍にヘイムがいたからなのか? あの人と会う時はそういつも昼であり、陽の下の庭園であり、必ず光がそこにあった。


 ただそれだけであり、それ以外にはない、とジーナは首を振り左手を目を凝らして子細に見るも何処にも血などついてはおらず涙の跡もなかった。


 指先は間違いなく傷口に入ったというのにどこにも痕跡が見当たらず、よく見るために目を拭うと指先に涙がついた。


 引かれるように頬にも触れると湿っており涙が通過していたとは分かるも、いつ零れたのかは分からなかった。


 泣いていたのは私であり、あの人は泣いていおらず、また血を流していたのは私でありあの人はどこも血を流してはいなかったのか?


 暗闇の中で起こった全ては私自身の幻覚であり、またもしかしたらあのヘイムすらも夢であったとしたら……傷は? とジーナは右懐に手を入れるもやはりそのようなものはなく手に触れるたのは千切れかけたお守りであり、中から覗かせるのはあの日ヘイムが書き続けていた文書であり、それに血が滲んでいた。


 その血痕は自分のものであるのにジーナにはそうとは思えず、自然と両掌にて包み込み祈りように額をつけ思うは、あの人は来ていたと確信を持ちそして掌を開くとその御守りは消え去っていた。


 それはもとからなかったかのように。

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