第56話 妾にはどうしても欲しいものは特に無い
それはバザーの匂いや雰囲気といったものか、人間同士がごたまぜとなった生活臭に雑踏によって生まれる騒音と聞き取れない言葉たち。その非日常的な混沌さで以てバザーは入り口にて二人を歓迎していた。
男はその足を止めてもの珍しそうにその光景を見まわしていると女が手を引っ張っぱり促し、人混みの中を縫って歩いて行く。
「どうした御亭主役殿? ぼおっとして。妻に手を引っ張られていくのが西における男らしさだというのかえ?」
「もの珍しさで見ていただけだし私がリードするから大丈夫、任せて」
「任せてとは、な。だいたい行く先々の店の場所とか把握しておるのか?」
「それはもう昨日の会議後にルートを頭に全部叩き込んでおきました。まぁ簡単な直進路ですし」
「その頭ではさぞかし苦労しただろうな。そこは感心だが他の店のことはどうだ?」
「どうだとは? 覚えておりませんが」
「では駄目だな。当然のことだが当初のルートと変更しながら行く。よってまぁ妾が行くといった店にいくということだ」
「あのちょっとヘイム様?」
私の昨晩までの努力は? 女は返事をせずにその場で立ち止まる。真顔のまま。男はすぐに誤りに気づき、訂正する。
「あのちょっとナギ。そんな勝手なことを」
女は笑顔で返した。
「勝手もなにもあるか。これは妾のためのイベントなのだから、妾の好きなところに行くのだ。なんのために歩く訓練をしたと思うておる、え? 文句を言うでない」
反論しようとすると男はシオンの言葉が頭の中で響き、口に出た。これが最後……
「いえ文句は言いません。ナギが楽しめればそれでいいんです」
ほぉ、と女は感心しながら男の顔を見上げ大人しくなった。
「まぁ基本は予定通りにするが、妾が入りたい場所は入る。そのつもりでな。大丈夫だ。出口は一つしかないしそこに辿り着けばあとはなんだっていいはずであろう? 寄り道をしても誰と歩いてもな。そこに最後に立っているのなら」
「それは同意します」
こうして男は女の気紛れに任せてあちらへ行ったりこちらに行ったりと右往左往し、主な任務である荷物持ちの役を存分にこなすこととなった。
「いま背嚢が半分近くなのですか、このペースで持ちこたえられるのでしょうか?」
「うん? なにを言うておるのだ。左手があるではないか。それに安心せよ。背嚢と手提げ鞄が一杯になったら終了だし、それまで止めはせぬから心配はいらんぞ」
なにが安心せよでなにが心配はいらないのだと文句の言葉を口内で繰り返しながら男は女が購入する、札や石にアクセサリーを次々と背嚢に入れていくものの、段々と男はあることに気づきはじめていた。
「ナギ、あまり吟味せずに買っていないか? なんだか手あたり次第といった感じを受けるが」
無造作という表現が合うように女は綺麗な石を男の背嚢に入れながら微笑む。
「まぁな。妾にはどうしても欲しいものは特に無いからちょっといいなと感じたら買うのだ。そうしないと何も買えない。おっいいなと感じるその一瞬の高揚が肝心だ。そこを捕えて買う気持ち良さ。ある意味で妾は物と心を同時に買っておるといえるだろうな」
そう語る女の恍惚てした表情に男は強い空虚さを感じるも、自らのなかで否定する。闇を感じそこに触れてはならない。
「私にはその感覚は分からないが、金があったら散財するかもしれないな」
「いやいや、そなたみたいなケチそうな男はそんな買い物などせぬだろうが、妾はこんな買い物しかしたことが無い。これが虚無的に思えるだろうな。まったまには儀式に必要そうなものを買う。その時は手提げの鞄に入れているから、そこは勘違いしないように」
そうしてまた歪な形をした人形を鞄の中に押し込み次の店へと入っていき、また小物を次々と入れていく。
これはどうだとか? あれはどうだとか? 女は男に軽く聞いては返事など関係なく即買いしていく。そんななかで男は思う、楽しいことなのだろうかと?
夢中になっているのその様子は無理に熱をあげているようにしか見えず男はシオンのあの言葉を再度思い出す。これが最後だから、これが最後だから……この熱狂は虚無に対する抗いだというのか?
懐に入れた例の財布は不安と共に重さを増していく。まだこれの出番はない。
「どれほど使ったか?」
次の店を物色中な女が少し高揚気味に尋ねた。その熱にのみ価値があるように。
「だいたい半分ちょっとほどですね。鞄は半分ほど入りましたが」
「なんだまだそれっぽっちか。小物はだいたい満足したから今度はなにか大物が欲しいな。こう、ドーンと大きな台座とか」
「どうやって持ち帰るつもりですかね……」
「そなたならできる。何のためにその身体があるというのだ。自信を持て。そなたなら必ずや可能であるぞ……あぁそうだ。そちらはなにか買い物はないのか? こちらは休憩がてら付き合ってやるから武器とかを見てもいいぞ」
このタイミングだ、と男はハイネとの約束の件を思い起こした。指先に刺さった棘のように取らないといつまでたっても気になるどころかじわじわと鈍い痛みが継続するかのようなあの約束。棘の誓い、刺々な呪い、あの荊姫。
それをここで取ってやろうと男は誰と同行しどんな設定であるのかを忘れて、言った。
「では装飾品店で指輪を買おうと思います。よろしいでしょうか?」
すると女の右顔は青白くなり繋いでいる手から力どころか生気が抜けていくのを男は見て感じ焦る。まさか死ぬのか!? と慌てて声を掛けようとしたところ、突然その手は異常な強さで握り直され血の戻りが分かるほどの熱さが甦り、それからやけに甲高い声がきた。
「いっいいぞ、行こう、行くぞ!」
おっそうか良かったと男は安堵する。やはりどの女も指輪が好きなんだなと男は思いながら歩き出した。迷いや悩みのない軽快かつ呑気な男の歩調に合わせるかのように女の速足はそれと同じ速さでであった。
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