第48話 もう一度しません?
ハイネのその行為もその言葉もその表情も異常なものとはジーナには感じられなかった。
そう感じる自分にはなにかが欠けていることなど気づかずに。
それどころかいまの自分の行動と涙への対応として正しいとものと見え、問いに対しそのままの心で以っていつもの声による返事が出た。
なにかを失っていることすら知らず忘れたまま。
「いいや。これはやってはいないな」
「じゃあこれは?」
立ち上がるハイネの手がジーナの肩に乗ると上から顔が近づきそのまま唇に被さり重なった。口の中で何かを差し出されたなとジーナが舌でそれに触れると、知らないのに分かる自分の味がし、涙の欠片をが舌の先で吸い込み消えるとハイネが離れ座り直すと、笑い声をあげ聞いてきた。
「あの人と、これ、やりましたよね」
「こちらだとこれは軽い触れ合いにすぎないものみたいだな」
「へぇ……それでジーナさんはどうしました?」
どうって……とあの日のことをジーナは思い出すとハイネが何故か瞼を閉じた。すると自然に手がハイネの首にかかり固定しジーナは前に出る。唇同士が当たり合うもハイネは無反応でありながらも、微かに唇を開き今度はジーナの中に息を入れそれから一呼吸し、のちに離れた。
いまのハイネの行動にジーナはなにかを盗られたような感覚に襲われた、がそれがなにかはわからない。
「手慣れた動きでしたが、ではこれをヘイム様におやりになられたのですね。ふーん、そうですか。さしずめ報復的な意味合いでやられたのでしょうが、あの人はどんなご反応でしたか?」
ハイネの顔色はどちらかというと青白く冷たさがあり、その表情はあの時のヘイムのに似ていたが、もちろん別人であった。
「ハイネさんのとあまり変わらなかったし、その後もいつも通りだった」
そう返すとハイネの固い表情が崩れ堪えるも止まらずに笑いだしジーナは意味不明なために首を傾げた。そんなに面白いことでも言ったのか?
「なるほど素晴らしいご反応で。それではもうこれに特別深い意味がおありだとは思われないでしょう? 西と東ではこの行為の意味が異なるというところですよ。こんなのは手を繋いだり身を寄せ合ったりした次の段階にあるソグだとちょっと上ぐらいのスキンシップですよ。その程度のことです」
頬に手を当てて撫でて来たハイネに向かってジーナは問うた。
「そう言うのなら、ハイネさんは他の男達とこういうことをしているわけか」
手が止まり一瞬怯むような震えをジーナは頬に触れる指先で感じたが、すぐに手はまた動きだし間をおいてからハイネは答えた。
「はい、あまり致しませんが一部の友達とたまにですかね。私はそういう類の女ですので……」
右頬を撫でる指の動きをまだやめずにハイネは続ける。何か書いているのか? そうだとしたら右頬で良かった。
「しかしやはりそうですか。ヘイム様のご様子が変わっていましたので道理で……まっあの人は兎も角としてあなたですね、あなた」
ハイネはジーナの頬に今度は掌を押し当てた。
「よくルーゲン師の講義を受けられましたね。悪いとは思ったりしませんか?」
「私は常々自分は善くないものものだとは自覚しているけれど」
「でもそれはこの件以外のものな気がしますから、こっちのでもっとその意識を持ってください。まぁこれでお分かりでしょうがルーゲン師は薄々とこの事に気が付いており、負の方向へ傾いてしまっているわけです。それですからこれはヘイム様のお遊戯だと申したのです。あの行為のこちらでの意味は私が身を以て証明しましたので、信じてくれますよね? あんなのは大したことではないと」
論理は重ねられるもまだ何か引っ掛かりのあるとジーナは返事に少しの躊躇を示すとハイネは頬に当てていた掌が額に移動しそれから顔を近づけ、畳みかけて来た。
「それとも私はあなたのことを実は想っていて結婚したいからああいうことをしたと? 同時にヘイム様のあれもあなたのことを想って結婚したいが故の行為といった幸せな解釈に浸りたいとでも?」
からかいの言葉にジーナは首を振った。
「まさか。そんなことがあっては」
「なりませんよね。それは私もヘイム様もおんなじこと、それで正解です。三人の心は等しく成立しているのです。ジーナさんはヘイム様にそんな感情を向けることはあってもなりませんし、その逆も然り。私もあなたについてそんな心を抱いてはおらず、そして」
「私もハイネさんのことについては何もない」
ジーナが言うとハイネは表情を変えずに額に当てた手の甲に自分の額を当て息を吐いた。さっきのと同じハイネの濃い臭いがし鼻と鼻が当たる距離にあった。
「もう一度しません?」
ジーナはハイネの右手を左横から抜くと唇が落ちてきてまた触れ、空虚さをここにはなにも無いということをジーナは確認するも、さっきよりハイネが離れるのが数秒遅かった気がし、離れると尋ねてきた。
「聞きそびれましたが西だとこれはどんな意味がおありで?」
「夫婦が行うものだがそれ以外だと子供が大人の真似をしてのお遊びで」
そう言うとハイネは皮肉げに微笑み自らの唇を人差し指で拭った。
「それです、これは遊びですよ遊びで。ソグでもそうです。そういったものですが……そちらの大人は夫婦以外の違う人とはしないのですか?」
「しないが」
「したじゃないですか」
ハイネは拭ったその人差し指をジーナの唇に押し当ててまた笑う。
「そういえば私も間接的にヘイム様の唇に触れましたね。私あの人とは今までこういうのは一度も無かったんですよね。それなのにあなたは、しかも私とも」
「それは二人が」
「やり返した癖に」
指はジーナの口の前に一本立ちとなり言葉を封じさせた。
「いいんですか西の男がそんなことをしても。
相手が東の女だとしてもあなたは西の男であり、こういった場合はあなたの地元では如何なさるのですか?」
一本立ちの指が横に倒れた。なんだこの混乱しそうな会話は。
「……事故だとする。あるいは結んだりもしくは片方追放して」
「ヘイム様は駄目です」
「分かった。ハイネさんならいい、そういうことにしよう」
指は立たず横になったまま、つまりその言葉を受け入れたということか。
「ふーん別にそう扱いたいならそうして構いませんよ。そうですよ私はそういう最低な女ですし」
「最低だなんて。そうじゃなくて……さっき言っていた一つの触れ合いとして」
「そういうのいいですから。そう、いいんですってば。ヘイム様は昔はそういう風に男を弄んで遊んでいたとか、今もジーナさんを使ってルーゲン師を苦しめているとかを、これをお節介にもわざわざあなたに話したり、身を以て教えたりとか、人として最低でなかったらなんです? あなたは倫理観というが薄いのでは? 最低ですねぇ」
「いや、それは一つの忠義の発露じゃないのか?ハイネさん以外にこんなことを出来る人はいないと私は思う」
そう言うと横を向いていたハイネの顔がこちらを向くがそこにあったのか奇妙な感情の表現だった。
歓喜にも嘆きにも見え、怒りにも慈しみにも見え、愛にも見え憎しみにも見え、全ての両方が矛盾なくその顔に同居し、ハイネとして統一していた。
「ええそうですね。善悪を問わずに超越すれば、私以外にはこんなことはできませんよ。だから私はあなたに聞きます。ジーナさん、あなたはルーゲン師とヘイム様の将来に異論なんてありませんよね?」
「私にあるはずも、ない」
ハイネの茜色の瞳が問い掛けられジーナは元よりある言葉をわだかまりなく言うことができた。
「では協力できますよね?あの二人のことを」
「できるが協力とは具体的になんだ? 護衛を辞めることか」
そう言うとハイネが突然慌ててジーナの手を取りにきた。あまりのことにジーナが固まるとハイネはぎこちない笑顔でゆっくりと喋る。
この人は挙動不審だなとジーナは思った。
「そこまでする必要はありませんよ。ただそういう意識のもとで考え動いて欲しい、それだけです。話す時も手を繋ぐ時も、ときたまルーゲン師のことを思ってください。そうすれば自然に離れます。心と体が、です。けど私は悪いことを要請しているわけではありません。あなたもそれを望んでおられる、そうですよね?」
手が強く握られハイネは距離を息がかかるほどまた詰めてきた。
「そうだ。私はそれを望んでいる」
ハイネが微笑み頷くと同時にジーナも頷くと互いの額がぶつかった。痛みばかりが、私の間にあるなとジーナは思った。
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