第24話 なにゆえ苦しみをもたらす元凶にこんなことを言われないといけないのか

「優しく、だぞ。そなたの力だとせっかくのものが粉みじんになってしまうからな」


「分かっています」


 二本の指で抓み受け取り掌に乗せる、その一欠けらのもの。形を崩さぬよう慎重に口に運び入れ噛むと脆く砕け溶け儚さのように消えた。


 甘味は感じられず雑穀の苦味だけが口中に広がる。苦行の味。僧が修行のために食べていそうな代物であり、殆どの欲望を捨て去ることを目的としたこの味。


 そうだというのに、ジーナは自分の目頭が熱くなっていくことに気づき指先で拭った何故涙が出るのか、それはきっと、これのせいだと、それ以外にはない、何もないはずだ。


「うまいですね、これ」

「なぬ?旨いというのか?」


 驚き困惑しつつヘイムが問うとジーナは頷く。


「はい。旨いです。ちょっと感動するレベルで」


「おっおぉそうかそうか。よほど腹が減っていたのか」


「そういうわけでは……いえ、そうです」


「そのな、妾はもういらん。そこまで食べたいのなら、ほれ食え」


 ヘイムは自分の手に持っていたそれをジーナに渡した。ヘイムはどこか気まずそうな顔でジーナが食べているところを見ている。


 涙が落ちぬよう顔をあげながらジーナは自分の咀嚼音だけを聞きながら考え続けている。私はとてつもなく腹が減っていたのだろう。


 自覚がないだけでそういえば昼は過ぎているし、仕事も頑張ったうえにこんなストレスフルな残業も苦労しつつだいたいこなしきったことによる解放感も手伝って私は、泣いているのだ。


 この焼き菓子がこんなに旨いのもそれのせいだ。絶対にそうだ。いいやそうでなければならない。


 結論と共に焼き菓子を呑み込み、素早く涙を拭って顔を向き直すとどうしてかヘイムの顔が恥ずかしげであった。自らの悪に恥じ入っているのだろうか?


「たいへんに美味しゅうございました」

「そうか……よかったな」

「はい良かったです」


 何だ急におとなしくなっているがこの人は躁鬱気味なのかなともジーナは訝しむ。


「それで今のはなんというものですか? 食べたことのないものでしたが」


「ああそれはな、その、ソグの家庭料理というか、簡単な菓子でな、茶請け用というもので、

そのまま食べてもそう旨いものでも何でもないが……旨いというのか……そうか」


 こんなもので感激するとはこいつどんだけ貧しい出自なのだという声が聞こえてきそうだがジーナは無視した。


「私の舌が貧しいのでこれで十分旨いのです。いやとても良いものでした。今度街で買うことにします」

「待て」


 声より早く先にヘイムの右手がジーナの左手に被さり押し付けられ、その眼は大きく見開いている。なんて大きな瞳だろうか。


「これは店で売るようなものではないから、ないぞ。だからそのな、ここで龍の館で食べるがいい。この味はここでしか食べられないものだからそうするがよい、そうしろ。次は多めに焼いておくから……あっ女官がだぞ、女官が焼くから安心しろ」


「それは楽しみですが、そこまでして頂くことも」


 ジーナは正気を取り戻しつつあった。菓子に釣られてこんな仕事をしていいのかと? 駄目に決まっている。駄菓子で釣るとは子供だましであり、私は子供ではないのだから、騙されてはならない。


「気にするなどうせ苦しい思いをするなら、少しでも良いことがあった方が良いであろうに。これもまた慈悲心だ」


 なにゆえ苦しみをもたらす元凶にこんなことを言われないといけないのか? 分からないもののジーナは思うしかなかった。思わなければやっていけない。


「その慈悲心で今日の苦労が報われた、と思うこととします。嫌なことばかりでしたからね」


「一言多いが、それもまた許してやる」


 その時、半端な空模様が割れちょうど陽射しがヘイムの周辺に降り注ぎ、その瞬間の表情をジーナは見ることができなかったが、きっと笑っていたのだなと察した。よく笑う女だ。この人はいま自分が笑っているという自覚はあるのかな、とジーナは思い、そのうえで自らを思う。


 こっちはずっと苦しい顔をしているというのに……うん? とジーナはいまの自分の考えに違和感を覚える。本当に? 見えてはいないのにどうして分かる? そう、自分の顔は見えないがヘイムの顔は見える、笑顔だけ、見える。 


 もしかして自分はいま微笑んでいるのでは?  

だからあっちは笑っているのでは?

 そうだとしたらまさか今日私が見たこの人の笑顔とはつまり、その可能性があるとしたら……だがそれは問うてはならない、とジーナは息を呑んだ。


「龍身様?」


 不意の声に驚き一呼吸ズレながら反応し振り向くとそこにはルーゲン師が立っていた。


「ルーゲンか。そろそろ時間だというのか?」


 誰の声? と低く重々しい声の方をジーナはまた慌てて振り返るとヘイムが立ち上がっていた。なんだ急に調子を変えて、やはり躁鬱症気味なのだなとジーナは認識を深めた。


「そのためにお迎えに参りました。龍の間におられませんでしたので探しましたところ……このようなところにおられるとは意外なことで」


 そう言いながらルーゲンはジーナの方を視線を向け目が合うとルーゲンの方が目を逸らした。見たこともない暗い瞳だった。


 おかしい、とジーナは何故か焦燥感に駆られた。ルーゲン師のこんなよそよそしくバツの悪そうな態度は、なんだ?


 この人のこんな姿は初めて見た。あれか? ヘイムが近くにいるから、こうなのか?ああそうか、それならそうだし、もしかして私が外に連れ回したと誤解して怒っているのかも……それは違う、とジーナは立ち上がる。


「あっルーゲン師、これはですね、その」


 ジーナが話し出すとヘイムが手でそれを制した。


「歩かぬと体力が落ちる一方であるからな。だからこうして昼に運動したわけだが、龍の騎士が多忙なためにこの龍の護衛を代理にしたまでのことだ。それともこの程度のこともそちらに連絡せねば具合が悪いとでもいうつもりか?」


 声どころか人が変わったようなその言葉と姿にジーナは戸惑った。この人は……ヘイムではないのでは、と。いや、半分はそうなのだが。


「いえ。敷地内を歩くというぐらいのならなんら連絡の必要がございません。ただ二人だけでの外出は危険でありまして」


「龍の騎士と龍の護衛がいれば十分では無いのか?」


「……そこは龍身様のご判断にお委ね致します。もう儀式のお時間ですのでどうかご準備を」


 ルーゲンは右手を差し出し龍身は左手を出しその手を取り、立った。


 待ちに待った解放の時が来た、とジーナは歩き出す二人のその後姿を見ていると、ヘイムの右腕に自分の上着が掛かっている。盗人、いつの間に! 「あっ!」と小さな叫び声を出すとその声を待っていたようにヘイムは上着を揺すった。


 為す術もなく見送り遠ざかる中でジーナは次回もまためんどくさいなと不安を覚えるもこれで今日は終わりだと息を吐いた。


「ああ良かった」と声に出して言うと不快の破片が身体のどこかにあるのか鈍い痛みを感じた。

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