#09 ~ 芽吹く①

 世界は、飽いていた。


 地球という星は、そしてこの世界は、あまりにも完成されている。

 数多の種を、命を生み出し、時に淘汰され……今この星の支配者となっているのは人間という種族だった。

 文明を築き、社会を形成し、あまねく地上に蔓延っている。


 そこに善も悪もない。生存競争の中で他者を蹴落とし、淘汰し、時に星そのものを破壊したとして、弱肉強食――野生の動物が他者を喰らうことと何も変わらない。

 彼らの行いによって、他の種が、あるいは彼ら自身が滅びることもまた、自然の摂理の中にしかないのだ。


 ――摂理。

 この世界は、摂理によってまわり、めぐる。

 何を想い、どう行動したとして、人の行いはその摂理の内側にしかない。

 しかし。その日、世界が生じたものは、まさしく摂理の『外』にあるものだった。


 世界は、摂理に飽いていた。変わらぬ世界、変わらぬ現実。ゆえにこそ、ある日突然生じたその『力』を、貪欲に求めた。

 人の価値観をして言うのであれば――それは、あるいは恋焦がれるとすら言えるほど、激しく。


 観察し、学習し、そして取り込んでいく。

 世界は、『魔法』という名の奇跡を識ったのだ。


 ……たった一人の魔法使いの手によって。


 ◆ ◇ ◆


「……?」


「にいさま?」


 不意に足を止めて振り向いた祐真に、雪が首を傾げる。

 何か――視線のようなものを感じた気がしたのだが、何もいない。念の為に探査を飛ばしてみても同じだ。


(気のせい……か?)


 祐真は目を細める。

 まあ、もしストーカーのようなものが居たとしたら、フィノスが確実に気づいているはずだ。

 雪に「なんでもない」と首を振って、祐真は再びその手を引いて歩きだす。


 祐真が小学生になってから、既に三年の時が流れていた。

 時は七月。祐真たちが訪れているのは、市内にある山の中だ。

 地元では有名な山であり、そのハイキングコースは毎週のように人が訪れている。


「二人とも~! 遅いわよ!」


 少し登った先では、父親に手を繋がれた琴羽が嬉しそうに手を振っていた。

 今日ここにいるのは祐真と雪、琴羽と、お互いの両親。

 つまり二家族で、いわゆるハイキングに来ていた。


 こうなった発端は、二週間ほど前にあった遠足だ。

 今年、三年生になった祐真たちは初めての遠足を体験した。それが楽しかったのか、琴羽が雪に大袈裟に思い出を話したことで、雪が「行きたい」と言い出したのである。


 家族会議の結果、まあ雪も今年で小学一年生だし、それならハイキングもいいだろう、ということになった。

 最初は千堂一家だけで行くつもりだったが、琴羽が自分も行きたいとゴネ、向こうの家族もご一緒に……という流れである。


「ぜはー……ぜはー……待ってぇ、ゆうちゃん~ゆきちゃん~」


 荒い息を吐くのは、祐真の母親。千堂木葉だ。

 ……この母親、体力なさすぎでは? 父の夏樹も困り顔だ。「二人は私が守るっ」とか息巻いていたのはどこいった。


「あー、少し休憩します?」


 そう言いだしたのは、琴羽の父親だ。

 その申し出に、祐真の父である夏樹は「すみません」と頭を下げ、言葉に甘えることにしたらしい。


「ねえねえ祐真! 見てこれ!」


 そう言って琴羽が見つけてきたのは、一匹のクワガタだ。


「あ……クワガタさん」


 横から覗き込んだ雪が、興奮するでもなく、むしろ心配そうに言った。

 どうした? と、祐真はクワガタを観察する。すると何やら足の一本がちぎれていた。この傷は、恐らく野生動物にでもやられたのだろう。


「あーったく。貸せ、琴羽」


 琴羽の手からクワガタを奪い取り、首を傾げる彼女を尻目に、両手に包み込んだ。


「見てろよ、雪」


 隣でしゃがみこんだ雪の前で、祐真はふっと両手に息を吹きかける。まあこの行為自体に意味はない。この間テレビで見たマジシャンの真似だ。

 そしてゆっくりと手を開くと――足を完治させたクワガタが、そこにいた。


「わぁ!!」


 雪が歓声を上げる中、クワガタはその羽を蠢動させるや否や、あっという間に飛び立っていった。


「あっ! ちょっと、逃げちゃったじゃない!」


「いいの」


 不満そうにする琴羽を尻目に――祐真は雪に、ひっそりと口元に指をあてた。彼女はぶんぶんと首を縦に振る。

 そして飛び立っていったクワガタに、その可愛らしい手を振った。


 ……よし、マイエンジェルの好感度ゲットだぜ。


「アンタ、その顔してるとき、ろくでもないこと考えてるわね」


「何のことか分からんな」


 祐真はすっとぼけた。

 妹のためなら何でもする。兄としては至極当たり前なのだ。


 ◆ ◇ ◆


「いやあ、祐真くんはお兄ちゃんらしく落ち着いてますねぇ」


 一方、休憩する両家の親たちは、その様子を微笑ましく見つめていた。

 もちろん、子供に危ないことがないようにしっかり見守っている。それが親の務めだからだ。


「ええ。我が息子ながら、しっかりした奴です。たまに変ですけどね」


「ゆうちゃんも、雪ちゃんも、自慢の息子と娘です」


 そう言った琴羽に、夏樹は苦笑する。

 木葉は愛の深い女だ。それゆえに、息子と娘について謙遜するということを一切しない。

 場合によっては所謂『モンスターペアレント』というやつになってもおかしくないが、どういうわけか、子供たちは学校について不満だのを一切言わないので、その気配もない。


 祐真は、生まれながらにして変わった子供だった。

 まず、不満を言うということをしない。ワガママなど聞いたこともない。妹の面倒をよく見て、家事の手伝いもしっかりやる。そして何かやりたいことがあれば、大抵自分でやってしまう。

 これだけの聞けば立派な子供なのだが……どうもちょくちょく、変わったことする節もあった。


 特に妹の雪に関してはそうだ。

 自分たちは何もしてないのに、突然「おとうさま」「おかあさま」と呼ばれた時はどうしようと思った。まあ、今では「パパ」「ママ」に落ち着いているが、あれは絶対祐真の影響だと思っている。

 ……まあ別に悪いことをするわけじゃない。そんな子ではないと、夏樹も木葉も確信していた。


「そうですか……」


 そう返事をする琴羽の父親――綾辻真也の表情に、夏樹はどこか悩みを感じ取る。これは営業マンとして培った勘のようなものだ。


「まあやはり、子育ては大変ですよね」


 お互いに、と。

 これは「相談に乗りますよ」という意思を、婉曲に伝えた形だ。

 それを感じ取ったのか、彼は苦笑して「実は」と切り出した。


「うちは仕事が忙しくて、琴羽を一人にしてしまうことが多くて……ベビーシッターに頼んではいるんですが、寂しい想いをさせてしまっているなぁと……」


 綾辻真也は、見るからに華奢で、どこか弱気で卑屈そうな男性だ。このハイキング中も、妻に何度も小突かれているのを見ていた。

 かといって、夫婦仲が悪いようにはこれっぽちも見えない。実に仲の良さそうな家族だと思っていただけに、真也の言葉は意外だった。


「祐真くんには感謝してるんです。あんなに楽しそうな琴羽を見るのは久しぶりで」


 その言葉に、夏樹は「いえ」と首を振った。


「それは違うと思いますよ。琴羽ちゃんがあんなに楽しそうなのは、お二人と一緒にいられるからじゃないですか?」


「それは……そうなんでしょうか。あまり傍にいてあげられない自分が、あの子の親だって胸を張れるかどうか……」


「真也さんは、琴羽ちゃんの未来のために立派に働いてるじゃないですか。確かに、今はまだ分からないかもしれませんが……その想いさえ忘れなければ、きっと届くと思います」


 真也は、夏樹の言葉にはっと顔を上げ、琴羽を見た。


 何のために、身を粉にして働いているのか。

 問われるまでもない。娘のため、愛する家族のため。あの子が生まれてきてくれたとき、この笑顔を守り抜くためなら、いくらでも働いてやる――そう思った。

 忙しい日々の中で徐々に摩耗しつつあったその想いを、もう一度噛みしめて。


 そして夏樹の顔を見て礼を言おうとしたとき、彼は思わず「ふっ」と噴出した。

 夏樹がひどく恥ずかしそうな顔をしていたからだ。自分でクサいことを言ってしまったと、自覚したからだろうか。


 ロマンチストですね、とからかった真也の言葉に、夏樹はさらに赤面した。


「それなら、家族サービスしないとですよ、今日は」


 夏樹の横から顔を覗かせ、そう言って笑う木葉に「その通りですね」と真也は返事を返し、その腰を上げた。

 まったく、疲れたなんて言っていられない――と。

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