#06 ~ 小学一年生
日本には、義務教育というものがある。
この義務とは子ではなく親に課されるものである。要は、親は子供を学校に通わせなくてはならない、という義務だ。
この制度を知った祐真は、最初、それを歓迎した。
国民皆学、全国民に教育を学ばせるなんて、なんと裕福な国だと。
だが今。
「……嫌だ。俺は行きたくないぞ……!」
祐真は、明らかにゴネていた。
今年、祐真は幼稚園を卒業して小学校に入学した。
そのことに文句はない。
日本は非常に豊かな国で、学問の発達している国だということは既に分かっている。この国の施す教育にも、多少の興味はあった。
だが、問題はそこではないのだ。
「俺も幼稚園に行く! 雪と一緒に行くんだ……!」
そう。妹の雪は、祐真の二つ下なのだ。
祐真の通っていた幼稚園は三年保育制。去年、ようやく雪と同じ幼稚園に通うことになった祐真は、その素晴らしさを実感した。
何せ同じ幼稚園に通ったことで、ほぼ四六時中、妹のすぐ傍にいれたのだ。その幸福たるや筆舌に尽くしがたし。
だがその幸福が、たった一年で終わってしまった。
現実は何と無情なのだろう……。
「バカ言ってんじゃないの」
べし、と頭をはたかれて祐真がつんのめる。
背後を振り向くと、手をチョップの形にしたまま、憮然とした面持ちで彼を睨む一人の少女がいた。
赤いランドセルを背負った琴羽だ。
「何をする」
「あんたがバカ言ってるからよ。雪を見なさい」
琴羽に言われて雪を見ると、彼女は少し困った顔で祐真を見ていた。
「途中まではいっしょなんだから、ガマンしなさいよ」
「むむむ……」
「にいさま。だいじょうぶです。雪もすぐに大きくなるので!」
ぐっと拳を握る妹の健気さに、ついに観念したのか、祐真はため息を吐いてランドセルを背負った。
――なおこの後、バス停で別れた雪の「いってらっしゃい」に口角をあげ、祐真の機嫌はV字回復した。その光景に、琴羽がまた呆れたようにため息を吐いたのは、言うまでもなかった。
「へぇ、ここが私たちのきょーしつかぁ」
指定された席に座った琴羽は、自分の机に「えへへ」と笑う。
何がそんなに楽しいのかと祐真が聞くと、彼女は「べつに」とそっぽを向いた。ちなみに祐真の机は、琴羽の隣である。
二人の席が並んだのは、何というか偶然の産物だ。
並び順はいわゆる「あいうえお順」であり、綾辻と千堂という二つの名前が、偶然となり合う可能性もなくはない。
祐真としては、か行とさ行にもう少し頑張れよと言いたい。だってうるさいから。
「あっ、デカ女だ!」
小学校の教室に、一際大きな少年の声が響いた。
デカ女、という言葉に、祐真の隣で琴羽が柳眉を逆立てる。
だがそんな彼女にお構いなし、というかのように、大きな声をあげた少年がどかどかと歩み寄る。
「おいデカ女。オマエでかいんだから、うしろの席いけよ」
「嫌」
たった一言で切り捨てた琴羽は、まるで眼中にないとばかりに、席に座り直して前を向く。
「なんだと!」
「あたしの席はここなの。あんたはさっさと自分のとこ行きなさいよ」
少年が激高する。小学一年生となれば、当然まだ未成熟だ。足蹴にされて我慢できるほど、寛容な精神を持つはずもない。
だが少年は、その隣に座る祐真に目を向けると、にやっと笑みを浮かべた。
「わかった! おまえ、コイツが好きなんだろ!」
「――はぁ!?」
それは実に子供らしいからかいだった。
琴羽が冷静に返せていれば、それで終わった程度の。
だが琴羽が大声で動揺を見せてしまったことで、その騒ぎは大きくなっていった。
やれ「夫婦」だ「カップル」だ「イチャイチャしてる」だの、一体どこで覚えてきたんだと思えるからかいに、琴羽が顔を赤くして否定する。
気がつけば彼ら三人は、クラス中の注目を集めていた。それがさらに琴羽の羞恥心に火をつけ、彼女の顔を赤く染める。それが面白くなってさらに少年が騒ぐ、という悪循環。
――それを断ち斬ったのは。
「うるさい」
という、祐真の一言だった。
一瞬、空気がピリつく。
祐真の言葉に身を固くしたのは、クラスに座っていた一部の生徒――彼と同じ幼稚園に通っていた子供たちだ。
「……おいチビ、今なんていった?」
「うるさいと言ったが。騒ぐなら外でやれ」
「っ」
祐真の目線に、少年は一瞬たじろぐ。
だがどうでもいいと言わんばかりに、祐真は視線を正面に向ける。少年はそれに激高したのか、「おまえっ」とつかみかかろうと手を伸ばす。
だが、その手は宙を切った。さらに椅子に足をぶつけてつんのめり、床の上に転倒する。さらに机の脚に頭をぶつけ、激痛にのたうち
涙目で振り返り、祐真をにらみつけた少年は――固まった。
自分を見下ろす、冷たい目に。
まるで羽虫を見下ろすような無感情な目。それでいて、根源的な恐怖を思い起こさせるような――。
だが少年がそれを自覚する前に、祐真は再び視線を正面に戻す。
まるで興味がない、とでも言わんばかりに。
ちょうどそのタイミングだった。教師が扉をスライドさせて、教室に姿を見せたのは。
声を荒げようとした少年は、結局何もできず、そのまま自分の席へと戻っていった。
「……ありがとね、祐真」
「何がだ?」
本気で分からない、という顔をする祐真に、琴羽は小さく笑った。
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