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天瀬智
プロローグ 二年前
福井県営陸上競技場には、『9.98スタジアム』という愛称がある。
これは、日本学生陸上競技対校選手権大会の男子百メートル走決勝において、10.00という巨大な壁を破り、日本人選手で初となる9.98という公式日本記録を樹立したのが同競技場であることを記念に名付けられたことが由来している。
その舞台で開催される、北信越高校総合体育大会陸上競技大会。
女子百メートル走決勝。
風が止んだ。
白いリボンで結ったポニーテールのかすかな揺れが止まったのを感じた私は、出場選手紹介で「一年、吉田さん、春江、福井」と呼ばれたところで前に出て、手を挙げて、観客席に手を振って、頭を下げて、笑顔を浮かべて見せる。
ポニーテールにした髪がおじぎで揺れ、首を撫でる。
続けて「一年、村上さん、春江、福井」と呼ばれ、隣の選手が入れ替わるようにして前に出る。
手を挙げて観客席に手を振るが、その顔はにこりともしない。
首の後ろで黒いリボンをつかって一本にまとめた髪。
北信越の大会にも関わらず、柑奈が前に出た瞬間の拍手は、私や他の選手の比にならないほどに大きなものだった。
それは仕方のないこと。
柑奈は生まれついてのサラブレットで、そしてその実力も申し分ない。
まさに陸上をするために生まれた子。
走る公式の大会では、その年ごとに新記録を更新し、そのすべてを村上柑奈の名前に変えていった。
そして、高校生となった柑奈に、また期待の声が湧き上がる。
高校一年で地方の大会に進むことはできても、全国大会――つまりインターハイにまで進むことは、並大抵のことではない。
だけど、柑奈だけは違う。
中学三年の大会で、柑奈は高校生女子に匹敵する記録をすでに叩き出しているから。
だから、この北信越の大会ですらも、陸上競技関係者たちからすれば、ただの通過点にしか思っていないだろう。
私もそうだ。
柑奈はこんなところで負ける器じゃない。
常に一番で、誰よりも前を走り、そして走り続けてきた。
私は、柑奈よりも前に走った選手を知らない。
タイムは関係ない。
柑奈はただ、常に一番だった。
もうすでに将来が決まっているかのように、柑奈は注目されていた。
期待の星。
高校を卒業して、全日本に出場すれば、そのとき、新たな記録が生まれるだろう。
そして、オリンピックで日本人女子初のメダルも……なんて噂さえ出るほど。
だけど、誰よりも柑奈の走る姿を見てきた私は思ってしまうのだ。
柑奈ならば、と。
『On your marks(位置について)』
後ろに設置されているスピーカーからの合図と同時、会場に流れていた音楽が止まり、観客席からの声も静まった。
直前にセッティングしたスターティングブロックに違和感はなく、片膝と両手をトラックにつけ、スタートの姿勢をとる。
柑奈は速い。
だけど、私だってずっと練習して、走り続けた。
柑奈の背中を、嫌と言うほど追い続けてきた。
中学でも柑奈と一緒に全国まで出場できるほどの実力は身に付けてきた。
一年、二年のころは決勝まで残ることはできなかったけど、三年で決勝にまで残り、そこで柑奈と走ることもできた。
結果は分かりきっていて、柑奈に勝つことはできなかったけど、それでも一緒に走ることはできた。
私は走るのが好き。
そして、その好きな走りで競い合うことは、もっと好き。
タイムは、その結果ついてくるもので、決して記録を出すために走っているわけじゃない。
みんな思っていることはひとつ。
この決勝の場で、一番になること。
(勝つ、勝つ、勝つ!)
二番に甘んじる人なんて、誰もいない。
誰だって一番を目指す。
そのために練習を積み重ねてきたはずだ。
この――たった11秒から12秒のために、青春を懸け、そして駆けているのだ。
『Set(用意)』
決勝に残った私と柑奈を含めた八人の選手が腰を上げ、
――パァァァン!
スターターピストルの合図と同時に走り出した。
静寂を破ったスタート音に続いて観客席から応援の拍手が響き渡る。
スタートからすぐに、ひとりの選手が体ひとつ分前に出ている。
柑奈だ。
陸上の百メートル競走では速く走るための三つのポイントがある。
その最初のひとつはスタートダッシュだ。
スタブロを蹴り出すタイミング、パワー、そして加速力。
それらすべてが柑奈には備わっており、だからこそ柑奈の前を走る人はこれまで誰ひとりとしていないのだ。
柑奈の背中が遠ざかって行くなか、私はなんとか食らいつく。
スタートダッシュで離された以上、ここから追いつくしかない。
だけど、柑奈は二つめのポイントとなる最高速もまた他の選手を圧倒しているため、どんどん置き去りにしていく。
追いつけないどころか離れていく背中に、これまでどれだけの選手が絶望していっただろうか。
あまりの圧倒的な走りに、誰もが打ちのめされ、同じ年代に生まれたことすら後悔してしまう。
柑奈と一緒に走る以上、永遠に一番にはなれない。
そう――私のように。
だけど、私はいつだって追い続けた。
だって、諦めたら終わりだから。
諦めずに追い続けなければ、勝機は万に一つもなくなってしまう。
その万に一つを、練習で詰め続け、千に一つ、百に一つと縮めていくしかない。
だから他の選手が離れていくなか、私は食らいついて行ける。
諦めない。
絶対に柑奈を抜いてやるんだって気持ちがあるから。
たった百メートル、されど百メートル。
自分が出せる最高速にまでどれだけ速く辿り着けるか、そしてその最高速を最後まで維持する力――それが最後のポイント。
柑奈を抜くということは、柑奈が維持できる最高速よりもさらに上をいかなければならない。
柑奈に弱点なんてない。
圧倒的な加速力、他を寄せ付けない最高速、そしてそれを最後まで維持することのできる粘り強さ。
それらすべてがひとつとなり、柑奈を常に高みへと押し上げていく。
だけど、私だって負けられない。
負けない点が、ある!
少しずつ、私と柑奈の差が縮まっていく。
私が柑奈に唯一勝っているのは、ここ最近になって伸びてきた最高速だ。
私が師匠として尊敬している柑奈の父――一功さんが言ってくれた。
『結衣ちゃんなら柑奈に勝てる』
そのひと言が、私を支えた。
何度折れそうになっても、何度足を止めそうになっても、負けると分かっていても、何度だって挑み、負けて、それでも挑み続けた。
だからこそ実感できていた。
少しずつ、少しずつ、柑奈との差が縮まっていることを。
だから私は走り続ける。
一度も手にしたことのない、一番を目指して。
あっという間に終盤に差しかかる。
柑奈にはない、私が持っている一枚多いギア。
私の中にあるそのトップギアを上げ、脚の回転を少しずつ上げていく。
そのとき初めて、私は柑奈と並べた気がした。
柑奈がどんな表情をしているのか、私は見たことがない。
普段の柑奈は、いつもボーっとしていると言うか、のほほんとしていると言うか、とにかく何か本気で挑んでいるような、そんな鬼気迫った表情など見せたことがない。
どれだけ陸上競技で走ろうとも、まるで全力を出していないような、走り終わった後も選手のみんなが全力を出して息を切らし、立っていられないと座り込んだりする中、柑奈だけは息を乱すこともなく、ただゆっくりと歩いていた。
そんな柑奈に、追いついていく。
柑奈の視線が、こっちに向いた気がした。
今日の、しかもこの決勝での私のコンディションは過去にないほど好調で、冗談抜きで、柑奈に勝てるんじゃないか――そう思えるほどだった。
だから、走り終わった後で体が壊れようとも構わないと思えるほどに、私は本気の本気で走った。
血管がブチ切れて、食いしばった歯が砕けて、脚がぶるぶる震えるほどに酷使してしまったとしても構わない。
(柑奈に勝てるなら!)
ゴール直前。
並びかけた肩と肩が、離れていく。
最後の一瞬、柑奈が爆発したかのように前に出たからだ。
フィニッシュ手前——タイムはトルソーで判定される。
最後の一歩、そこから私もトルソーを投げ込んだ。
私と柑奈で、ほぼ同時の横並びのフィニッシュを決める。
歓声が轟き、会場が湧き上がる。
そして、高校女子百メートルにおいて、新記録が樹立されたのだった。
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