第3章(2)

 病院の内部は二重玄関になっていて、奥の自動扉は黄色いテープで囲われていた。その横に警官が一人立っている。

「状況を説明するわね」

 野沢が言う。

「扉の向こうはすでに階層五まで達している。最初はある病室だけが階層一に降りただけだった。だから、多くの患者やスタッフを避難させることには成功したわ」

「逆を言えば、何人かは取り残されているってことだねえ」

 総一郎の言葉に、野沢もうなずく。

「避難の間に合わなかった子どもたちが四人、取り残されている。年齢は七歳から九歳。私たちの役目は、子どもたちの救出と、階層を元に戻すことの二つ」

 集められた者たちは素早く目配せする。

 英梨が眉をしかめてみせた。

「この数日で、階層が五まで深化して、かつ病院全体まで広がったことを考えると、かなりの加速度。冗談抜きに世界が危険ね」

 野沢が「そう」と同意する。

「だから、あなたたちには、世界を救ってもらいたいの」

 世界を救う。現実感を欠いているはずの言葉が、しばし全員の間を漂っていく。

「それで、この階層は誰の内側なのかねえ」

 総一郎が尋ねる。

「入院していた子どもの一人。あなたたちのように内側へもぐる力は、子ども自身に確認されていない」

「とすると、その子の力が暴走したのではなくて、他者によって階層を下ろされたと考えるのが妥当だねえ」

「そのとおりよ」

 階層五の病院内に入り、子どもたちを救い出す。同時に、階層を下ろした犯人を捕まえて、全てを元どおりにする。それは口で言うほど簡単なものではないはずだ。

 一生が遠慮がちに挙手する。

「あの、犯人から声明か何か出ていないんでしょうか? その、要求みたいな」

 野沢と英梨が答えるよりも先に、桜子が「ないだろうな」と言った。

「連中にとって、階層を下ろすことは政治的手段ではない。階層を下ろすことそのものが目的なのだ。世界の階層を下げてより深いところで生きたいと願い、全人類にとってもそれが有意義であると心の底から信じ込んでいる。その気持ちは分からなくもないがね」

 英梨が呆れたように首を振る。

「そりゃあ、あなたは理解できるかもしれないけれど、私たちからしたら狂信的なテロリストよ。あんな気味悪い世界で生きたいなんて、どうかしているわ」

 それから、野沢に問い掛けた。

「それで、大切な情報が抜けているわ。サカナはいるの?」

「いる。少なくとも二匹は確認されているわ。私たちのような邪魔者を排除するために送り込まれたのね」

 野沢は言いながら、一生を見やった。

「萩野夏実も、サカナの襲撃を受けたと考えられるわ」

 全員の目が、一生へと向けられる。

 萩野夏実は、病院へ向かう途中に階層を下ろされ、そこで命を落とした。

「お前の姉は残念だった」

 桜子が、感情の感じられない声で言う。

 総一郎も、いつになく神妙な面持ちで「若い子が死ぬなんてことは、あったらいかん」と呟いた。

 誰がどこで命を落としてもおかしくない。

 最悪の場合、全滅もありうる。そうなれば、世界は深い階層に呑まれるだろう。

「では、行こうかしら」

 振り切るように、英梨が言った。

 黙って見ていた警視監が、「よろしくお願いします」と頭を下げる。

 野沢も同様だった。

「分かっているだろうけど、ここから先はあなたたち四人しか行けないわ」

 四人がうなずく。

 自動扉に英梨が手を掛け、横に引いた。ギイ、と音が鳴る。

 カーテンの向こうに、深緑色の空間が広がっているのがちらりと見える。

「幸運を」

 それは誰の言葉だっただろうか。

 四人は扉の向こうへと踏み出した。

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