46.天才の迷い
(優花は、来ていないのか……)
いつの間にか大勢の観客で溢れてしまった開盛大学の競技館。休日なのにたくさんの学生、一般人、そして複数の取材クルーの姿も見られる。それほどまでに柔道界における一条家のステータスは高かった。
しかしタケルの心は晴れない。どれだけ探しても優花の姿がなかったからだ。
(やっぱ、まだ怒ってんのかな……)
父重蔵が皆の前でマイクを持ち、熱く柔道について語り始める。タケルは姉の茜の姿は見つけられたが優花がいないことに少なからずショックを受けた。
「おい」
重蔵の挨拶を腕を組んで見ていた開盛大学の主将である剛力が部員に言った。
「俺は裏で集中してくる。出番が来たら呼んでくれ」
「はい!」
剛力はそう言い残すと来る決戦に備えてひとり姿を消した。
依然続く重蔵の話。
その中で今日、最初の盛り上がりを迎えた。
「……で、今日は怪我をした慎太郎の代わりに、その弟であるタケルを今日ここに連れて来た。タケル、ここへ!」
「おおーーーーっ!!」
一条重蔵の次男タケルと言えば、年少期に『天才柔道少年』と呼ばれながらも突如姿を消した逸材。一部の柔道マニアにはその美しき投げの軌跡が今の頭に残っている。
「あ、どうも……」
呼ばれたタケルが顔を引きつらせながら重蔵の隣へと行く。再び重蔵が話し始めたのだが、皆の視線は自然とタケルへと集まる。
「へえ~、タケル君って本当に有名な柔道家の子だったんだね」
遠くから見ていた優花の姉の茜が、足を組み替えながらタケルを見つめて言う。
「先輩、さすがです!!」
ちゃっかり一条家と一緒に観戦し始めた雫が目を輝かせて言う。
「一条君、カッコいい……」
同じく雫と一緒に観戦しているこのみも顔を赤くして言う。
「では、始めましょうか」
長い重蔵の挨拶が終わった後、和やかな雰囲気で柔道の公開練習が始まった。
最初は近所の幼稚園児と重蔵やタケルが一緒に柔道を楽しむ。専ら大人が一方的に、大袈裟に負けるのは無論お約束である。
その後、開盛大学柔道部員数名と父重蔵が対戦した後、いよいよタケルの名が呼ばれた。そして現れたその人物を見た部員たちがようやくそのことに気付く。
「あ、あれ? おい、あの人ってさあ、この間総館大の柔道部と練習やった時にいた人じゃね?」
「あ、本当だ!! 剛力さんを投げ飛ばした奴……、でもあいつ確か『青葉』って名前じゃなかったっけ?」
部員たちはようやく自分達が戦った相手があの一条家の柔道家だと気付いた。その事実を知り、それならば剛力が敗れたとしてもおかしくないと頷く。
一方のタケルは全く別のことで頭がいっぱいであった。
(優花、優花……、会いたいけど、俺……)
目の前の柔道のことなど頭に入らない。
とにかく優花に会って謝りたい、話がしたい。そう思う一方、今の関係が壊れてしまう恐怖もある。
「始めっ!!」
(え?)
突如響いた掛け声。
タケルは胸元に強い衝撃を感じると、そのまま体が舞う感覚を覚える。
ドン!!!
「それまで!!」
気付けば競技館の天井が目に映っていた。
「タ、タケル!!!!!!」
少し離れた場所で父重蔵が叫ぶ声が聞こえる。タケルは天井を見つめながら思った。
(ああ、俺は優花が居ないと本当ダメ人間になっちゃうんだな……、いや、元からか……)
タケルが自虐した笑みを浮かべながら起き上る。
会場からは『一条家がわざと負けてやった』といった温かい拍手が沸き起こる。しかしタケルがその後も次々と柔道部員たちに投げ飛ばされ始めると、その空気も徐々に変化していった。
「おい、あの次男ってもしかして弱いんじゃね?」
「お兄さんは強いのに、弟は弱かったんだ。可愛そうに……」
一時は『一条ブランド』に恐れをなしていた開盛大学の柔道部員たちもすっかりタケルを見下した雰囲気となる。
「俺も勝っちゃったよ! あの一条家に!! きゃはははっ!!!」
公開練習とは言え独特の雰囲気となる会場。
腕を組み真っ赤な顔をして怒る重蔵。
意外な展開に全く仕事にならずただ試合を見つめる取材陣。
雫とこのみは両手を胸の前で合わせひたすらタケルの無事を祈る。
タケルの頭は優花のことでいっぱいになり混乱を極める。
そしてこの男が登場した。
「剛力さん、出番です!!」
開盛大学柔道部主将であり、全国大会で決勝リーグまで登り詰めた実力者の剛力。その実力は折り紙付きであり、更に前回タケルに破れた後山籠もりを行い、精神気合共に十分である。優花のことで何も手につかないタケルと違い、愛する女を目の前に気迫十分。
剛力がゆっくりと畳の上で青い顔をするタケルの前へと歩き出す。
「おお……」
会場からは開盛大学の真打とも言える剛力の登場に静かな歓声が上がる。公開練習とは言え誰もが一番のメインイベントと考える『剛力対一条家』の試合。しかし会場からは既に哀れんだ視線が負け続けるタケルに向けられていた。
「可哀そうに。また投げられるだけだぞ、あれ……」
「一条家って大したことないの、今は?」
会場からは呆然とするタケルにからかいにも似た笑い声が起こる。重蔵は怒りでゆでだこの様に真っ赤になり今にも破裂しそうである。剛力が少し離れた場所からタケルを指差し大声で言う。
「ここで対するのはもはや運命!! 今日は負けぬ、絶対に負けぬっ!! 勝って、俺が佐倉を奪い返す!!! いいか、青葉っ!!!」
「おおおおおーーーーーっ!!!」
会場は突然の剛力の勝利宣言に一気に盛り上がる。剛力自体、今日のタケルの不甲斐ない試合を全く見ていないので、未だ頭には『強者青葉』がある。
一方、再び名指しされた青葉雫は、困惑した表情となる。隣に座っているこのみが言う。
「雫ちゃん、何かあの人に悪いことでもしたの?」
「し、知らないです!! 前から何か因縁つけられていて……、正直怖いと言うか気持ち悪いです……」
雫は青い髪同様、顔を青くして答える。
「うーん、なんか面白い展開にはなって来たけど、タケル君、あれで大丈夫なのかな~?」
優花の姉、茜は再び足を組み替えながら負け続けるタケルを少し心配そうな表情で見つめる。そして手にした時計を見て思う。
(そろそろ出発だね、優花……)
本日のお昼、結城家での昼食に誘われている優花。間もなく父親の車で結城家に向かう予定である。
「早く乗れ、優花」
桐島家、車に向かった父親が戸惑う優花に言う。
「はい……」
優花が小さな声で答える。後部座席に乗った優花が窓の外を見ながら思う。
(怖い、怖いよ……、でも私が行って、ちゃんと断って……)
不安げな表情の優花。その目から自然と涙がこぼれる。
このみとのキスを目撃してから、全く連絡を取っていないタケル。携帯の電源を切っているのだから当然なのだが、今更ながら優花の心の中でタケルが大きな存在であることに気付く。
(怖い、タケル君がもし、知らないタケル君になっていたら……)
車の後部座席で体を震わせながら携帯を握る優花。その時、頭に声が響く。
――代わりなさい、私と。
(え?)
そして直ぐに意識がぼやける優花。
綺麗な水色だった優花の瞳が、徐々に黒に染まり始める。
ピッ
スマホに電源が入れられる。
再び息をし始めた機械がたくさんのタケルからの連絡を受信し始める。黒目の優花はそれをすべて無視し、一言だけタケルにメッセージを送る。
『助けて。優花を、お願い……』
それだけ入力し終えると、その目が再び水色へと変わる。不思議な体験にぼうっとしていると運転してる父親が優花に言った。
「着いたぞ。さあ、降りろ」
優花は緊張してそれに頷き、ゆっくり車を降りた。
「始めっ!!!」
気合十分の剛力が、青い顔をするタケルに向かって突進した。
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