禍の詰合せ

洞見多琴果

第1話『姪が悪魔(職場仲間)を召喚する』 

 呼び出された場所で、人が死んでいた。

 夕刻の、薄く闇が張った礼拝堂の中だった。

 取り壊される予定の礼拝堂には、柱から天上まで鉄骨が張り巡らされており、その鉄骨にロープをかけて、制服姿の首吊り死体が揺れていた。


 授業が終わり、学校の校門を出て友達と別れて、塾へ向かおうとバス停でバスを待っていたら、メールを受信したのだ。

 差出相手は『メルヘン女』だった。

 嫌な予感がしたが、メールの内容は予感を超えて悪ふざけも超え、非常に胸の悪くなるものだった。


 頭の中が瞬間凍結を起こして爆発し、学校に引き返した。

 燃え上がる怒りのあまり、さっき別れた友達二人に、このメルヘン女のメールを転送して、一緒に憤慨してもらうことすら忘れてしまっていた。

 罵るだけでは足りない。こうなったら、一発くらい殴っても良いくらいだと全身を震わせながら「待っている」と指定されたこの場所にやってきた。


 それが、死んでいた。

 ふざけた内容で人を呼び出しておいて、その場所で首を吊って死んでいた。

 体中の血管が一気に凍り、逆流した。これがこの女の目的だったのだ。罠だったのだと気が付いた。


 第一発見者という烙印を押すために、そのためにここに呼び出したのだ。

 だが、死体発見者、それ以上の何かを背負わされるという恐怖にも貫かれて、それ以上のことを考えられなかった。

 この女の自殺の原因を、皆は詮索するだろう。

 必ず私のことが出てくるに違いない。


 両親は何というだろう? これから、周りにどんな目で見られるのか。

 優等生の栄光と、平和な生活はこれで終わる。それどころか退学かもしれない。それだけは分かった。

 どうしよう。

 力が抜けた。へたり込もうとした時、針のような声が耳に突き刺さった。


「ぼさっとしないで、下ろしなさいよ!」


 ここで鉢合わせした彼女だった。

 彼女も、この女から呼び出されたという。


 そうだ、この人がいたのだと今更気が付く。

 どうすればいいのかと、答えを求めて彼女を見た。

 頬をぶたれた。


「……」


 頬の痛みすら感じないほど、脳みそは、絶望とショックでぐしゃぐしゃに潰されていた。

 それなのに、うええぇ、と泣き声が出た。

 だけど、相手は容赦しなかった。


「泣くんじゃないわよ! これ、あんたのせいじゃないの!」


 イヤイヤと頭を振った。

 ちがう、私は呼び出されただけ。

 こんな結果になるだなんて、想像出来るほうがおかしい。

 目の前の全てを否定したかった。ここから逃げ出したい。

 助けを乞おうと声を振り絞った。


「……せ……」

「泣きたいのはこっちよ! この馬鹿」


 憎悪が叩きつけられた。

 助けの手はない。首吊りと憎悪の間に立たされていた。出来ることは呼吸だけ。


「こいつもこいつだわ! 人を呼びつけて、何かと思えば……ああもう!」


 もう、式は直前なのにと髪をかきむしる彼女は、いつも教室で優しくほほ笑んでいる人ではなかった。


「あんたが元凶なんだからね! なんでこの娘があんたをここに呼びつけたのか、分かっているでしょう! こんな姿を見せつけるためだったんだ! 私は巻き込まれた被害者だわ! この首吊り女といい、あんたといい、こっちは迷惑どころか……ああ、もおっ」


 廃墟のような空間で、彼女の眼だけが燃えたぎっていた。

 言い訳も謝罪も、すべて焼けつくされそうな声で、命令が放たれた。


「それ、下ろしなさいよ!」


 死体に触れ、という命令にぶるっと身が震えた。

 祭壇がある。マリア像が幼子を抱いている。

 頭上に張り巡らされた鉄の骨組みに、ロープをかけて、チャーチ椅子を踏み台にして、この女は首を吊ったのだ。

 マリア様にも、己の死を見せつけたのだと改めて気が付いたとき、闇が背中をぞわりと撫でた。


「何をぼさっとしてるのよ! こいつが首吊ったの、あんたへの当てつけじゃない! 自分がやったことの後始末はしなさいよ! その足持ちなさい、このバカ!」 


 この場所は、本校舎からもグラウンドからも離れた場所にある。

 教師も生徒も来ないし、工事時間も終了している。

 誰にも見られる心配はない、それでも罵声は容赦なかった。

 いつも教室で聞いている優しい声は、毒と憎悪で変質した魔女の声だった。


「さっさと動け! このノロマ! 愚図!」


 思い切って捕まえた身体には、まだ体温が残っていた。そして嫌な重みだった。

 ただ必死で、この死体を目の前から消したい一心で踏み台を使ってロープから下ろした。


「足を持って、ここに引きずってきなさい」


 床下の取っ手を持ち上げて、待っている相手の言うとおりに死体を引きずって行く。

 蝋燭があちこちに落ちていた。床に奇妙な落書きがあった。

 黒い布が落ちていた。首のない鳩があった。


 床下の穴は、地下室へ続く階段につながっている。地下室は狭く、せいぜい六畳間ほどの広さで、一時は非常用の水や食料などの備品置き場に使われていたが、建物を取り壊したら、この地下室も埋めてしまうだろう。

 その時にこの死体が見つかったらとか、どうなるかだなんて、考えもしない。

 ただ、このおぞましい物体を目の前から消したかった。


 早くしろと怒鳴る相手の罵声と汚い言葉から逃れたかった。

 ……死体を下り階段へ押し出した。それは鈍い動きで、真っ暗な穴へと続く階段を転がり落ちていった。

 下は真っ暗で、死体はもう見えない。


 心臓は冷たいのに、激しい爆発を何度も繰り返していた。粘つく汗で肌にブラウスがへばりつき、顔は涙と鼻水で汚れていた。

 この後、どうすればいい?

 どうなるの?


 使い魔だの精霊だのと、教室の中でいつも現実から逃避したことばかり垂れ流す、ムカつく女だった。だからいつものように、友達と一緒になってあざ笑い、言葉でつつき回していたのが数時間前、それが今、こんな事態に寝返るなんて、結末が待ち受けているなんて想像もしなかった。


 こんな最悪な姿で、こんなおぞましい形で追い詰められるなんて。


「……まえ……せ……」


 名前を呼んだ。

 どんなに怒り狂っても罵ってきても、彼女も立場上、この事態と今後を何とかしてくれると思ったのだ。

 だが、振り返りざまに目に入ったのは、自分へ向かって大きく振りかぶられた、木製の堅いチャーチ椅子だった。


 顔面を砕かれたのが分かった。

 そして、そのまま死体の後を追うように階段から転がり落ちていったことも。床板を閉められて、地下室の闇に埋められたことも。


                     ※


 大久百貨店の催事場では、明日から「世界のステーショナリー」というイベントが始まる。

 どこの百貨店も、物産展やマルシェの催事は大きな集客の目玉であり、催事の内容が百貨店の人気を左右するといっても良い。


 今回大久百貨店で催されるイベント「世界のステーショナリー」は、メールやパソコンで手書きは少なくなってきたはものの、根強いペーパー雑貨好きや、密かに多い筆記用具愛好家やマニアをターゲットにしたもので、今回の開催で五回目だが、毎回堅実な集客と、売り上げが見込めるものだった。


 そして、国内はもとより、海外の珍しいメーカーの商品が出るとなって、ネットやニュースの話題にも上り、この店の、一つの目玉催事になりつつある。


 当然、百貨店の一角に、筆記用品売り場を構える『筆記ラボ』にとっては、まさに自分たちが主体となるイベントで、この百貨店の社員としては、率先して会場へ手伝いに出なくてはならないと西城輝美には分かっていたし、今日の終業後に始まるイベントの設置準備作業は、出入りの業者も多くやり取りの必要もある。


 当然、以前から予定されていた残業だった。

 それでも輝美は、手伝いに出る当日の朝に頭を下げて、上役に残業の免除を乞うた。

 母の急病で、定時に上がらせて欲しいと頭を下げた輝美に、 店長の大北香澄は紅唇を曲げて、ふてくされた声を出した。


「お母様、そんなにお悪いの?」


 ええ、まあと輝美は言葉を濁した。

 母ではなく、大変なのは実は姪だった。両親はとうの昔に離婚し、それぞれの家庭を持っている今、輝美にとっての家族は姉とその家族だった。

 姉の娘、姪の知佳は大事な存在だ。


 だけどこの場合、母親の病の方が、有無を言わさぬ緊急性があるという方便で使ったが、それは偽りだ。多少気がとがめる。

 よりによって……と吐き捨てる店長の小声が聞こえた。


「大事なご家族のことだもん。イベントなんかどうでもいいわよね」

「店長」


 見かねたのか、傍で聞いていた後輩が割り込んだ。


「私が西城先輩の代わりに残ります」

「それなら、まあいいわ」


 どんなことがあっても、私が代わりに出るわ、とは言わない人である。

 予定していた部下が残業出来ず、さりとて代役がいないのならば、店長たる自分が手伝いに出る……というのが筋だと思ったが、今はどうでもいい。


「ごめんね、ツシマ」

「良いですよお、いっつもテル先輩には世話かけていますから。ところで、お隣の文具品は宮前店長がお休み返上で出てくるそうです。それから派遣の印布さん」


 ちらりと後輩は大北店長を見た。怒っている。しかしここで店長の機嫌を損ねるのも得とは言えないので、輝美は大北店長にも頭を下げることにした。


「すみません、店長」


 三度目になる頭を下げた。


「ありがとうございます」

「あたしもね、今日はとーっても大事な、何より優先の用事があるのよ」


 イベントなんかどうでもいいわよね、と嫌味を言った相手に、大北店長は堂々言い放った。


 定時きっかりに、輝美はわき目もふらず職場を飛び出した。

 地下鉄駅の階段を駆け下り、到着した電車に飛び込む。

 これから向かう姉の一家が住む家は、ここから電車を二回乗り継いで一時間半。


 駅から徒歩一五分の、きっちり区画された新興住宅地だった。整列した小ぎれいな新築の家と街路樹の間を歩き、小さな一戸建ての前に到着する。

 インタホンを押すと同時にドアが開いた。


「いらっしゃい。お仕事忙しいのに、ごめんねテルちゃん」

「陽子姉ちゃん、謝らなくったって良いよ。知佳の事なんだから」

「ごめんね、本当に……啓介もいないし、気兼ねなく知佳のこと相談できるのは、テルちゃんなのよ」


 靴を脱ぎながら、輝美は聞いた……彼の顔も、ずいぶん長く見ていない。


「啓義兄さん、まだ上海?」

「こないだ辞令が出て、次は天津に飛ばされた。日本に戻れるのがまた数年延びちゃった……マイホーム購入したら、文字通り自宅に帰れなくなるって、銀行員の噂は本当よ……テルちゃん、夕ご飯まだでしょ。エビフライでいい?」


 とぼとぼとカウンターキッチンへ入る姉の後ろ姿は、疲れている。


 ――この間、知佳と同じクラスの子が二人、同時に行方不明になったのよ、と陽子が言った。

 輝美は食後のお茶を飲む手を止めた。


「なにそれ。友達同士で一緒に家出?」

「それもまた、事情が分からないの。二人がどこに行ったのか、どうして同時にいなくなったのか、犯罪に巻き込まれた可能性もあるんだけど……学校側は、体面を気にするのか、ちゃんとした説明もないし、二人のご両親もおろおろするばかりでね」


 一人は、学校を出てそのまま塾へ行く途中で消えてしまい、もう一人は学校から帰宅しないまま、行方不明だという。


「行方不明になった内の一人は、知佳の友達で金子さんって子なの。彼女と最後に別れたのが、知佳と小夜子ちゃんて子でね。知佳も物凄くショック受けてるの。先生方に呼び出しを受けて、最後に別れた時どうたったのかとか、小夜子ちゃんと二人で色々聞かれたらしいのよ」


「ああ、金子愛ちゃんに野木小夜子ちゃんか。知佳から、仲良し三人で写した写メを見せてもらったことがあるわ。あともう一人は、仲良しじゃないの?」

「金子さんと行方不明になったのは、佐野さんって子だけど……知佳が言うには、仲良くなんかないって」


「はあ……それが一緒に行方不明?」


「警察も、二人で示し合わせて行方をくらませたのか、それとも実は別々の行動なのか、犯罪に巻き込まれたのか、それすらも分かっていないのね。うちにも警察が聞き込みに来たのよ」


 ふう、と陽子は一息ついた。


「おまけに、知佳とはもう一人、仲良しの小夜子ちゃんが、先日、わき見運転の車にはねられて亡くなったの。おとついはそのお葬式で、それから、知佳は家から一歩も出ないの。部屋にこもって出てこないのよ」

「それ……大変だ」


 輝美は嘆いた。15才の女の子にとって、友達とは世界の大半を占める存在で、その友情の在り方も、自分自身とシンクロしている。

 自分の傍で、行方不明に交通事故と、偶然なのかどうかはとにかく、立て続けに三人のクラスメイトが消えた。

 しかも、そのうちの二人は友達で……落ち込むなんてものではない。

 知佳にとっては世界を奪われたも同然で、自分の横で見えない不吉な口が開いている、そんな不安を抱えているに違いない。


「テルちゃん。あの子、物凄くショック受けているの。でも、ずっとこのままでもいられないでしょう。何とか慰めてやってちょうだい。食事に呼んでも来ないし、私を部屋に入れないのよ……でも、テルちゃんならって思うの。母親とお姉さんは、やっぱり感覚が違うでしょう」


 輝美と陽子は八才年が離れた姉妹で、知佳は輝美が中学生の時に生まれた姪だった。

 輝美は知佳のおむつを替えて、お風呂にいれたこともあるし、一時は保育園の送迎もしていた。

 血縁上は叔母でも、立場は姉である。


「わかった。知佳と話してみる」


 輝美は椅子を立ち、二階の階段を上がる。

 新築一年目の家は、まだあちこちに「若さ」が残っていて、新しい木材に築材の匂いが残っている。


 ショックなのは、輝美にも容易に想像がつく。

 だけど、そのままいつまでも引きこもっちゃいけない。

 特に、陽子に心配をかけてはいけない。陽子は一度大病を患った。手術もしたし、再発の可能性はもうない。でも、余計な負担をかけてはいけない。


 輝美は、階段を上がってすぐにある、知佳の部屋のドアの前に立った。


「知佳、輝美だよ」


 中を伺うが、返事はない。

 輝美はドアに耳を押し付けた。

 この家に入る前に、知佳の部屋の窓を見上げたが、明かりは点いていなかった。寝ているのかもしれない。


 いや、だけど。

 妙なことに気が付いた。二階の廊下に、強い風が吹いているのだ。

 家長の啓介の不在中、母と娘だけの二人の家は防犯上物騒だからと、外が暗くなれば家中の窓を全て施錠するのが、この家の習慣だった。陽子は几帳面だから閉め忘れるはずはないし、それに目の前の窓は全て閉まっている。それなのに、風が吹いてくる。


 足元が大きく揺れた。


「!」


 一瞬とはいえ、体制を崩すほどの大きな揺れ。怪物が地盤を家ごとを突き上げてくるような揺れに、輝美は知佳の部屋のドアの取っ手を引っ張りながら叫んだ。


「知佳! 地震よ! 出てきなさい!」


 子供部屋だからという理由で、この部屋に鍵は取り付けられていないはずだったが、なぜか開かない。

 寝ていて地震に気が付かないのかと、輝美は力を込めて、思い切り取っ手を引っ張った。メリメリ、と音がした。


「ちかあっ」


 部屋に飛び込んだ。

 照明は消されていた。

 だが、黒に包まれた部屋の中は、黄色い光によってぼんやりと浮かび上がっていた。

 光源は、床にじかに置かれた複数の蝋燭の灯だった。


 本棚も机もベッドも、家具はすべて壁に寄せられて、しかもその上を黒い布ですっぽりと覆っている。

 家具移動で面積を広げた床の上に、知佳は背中を向けていた。

 頭に黒い布をかぶり、床に大きく描かれた円陣の中、五芒星の下に座り込んでいる。


 円陣を囲むように、等間隔に蝋燭の炎が置かれていた。その揺れる炎に向かって、知佳がぶつぶつと小声で何か唱えている。その様子は、明らかに異様な儀式だった。

 知佳、あんたナニやってんの、思わず輝美は口を動かした。

 知佳は、振り向こうともしない。


 部屋に知佳の声がぶつぶつと蠢いている。


「こら知佳! 何やってんの!」


 輝美は円陣の中にずかずかと入り、背後から知佳の頭から黒い布を剥ぎ取った。


「テルお姉ちゃん!」

「部屋の中で蝋燭なんか燃やして! 地震に気が付かなかった? 火事になったらどうするのよ!」

「やめて、邪魔しないで!」


「しかも何、せっかくの新築なのに、フローリングに落書きを……」

「だめ! 火を消しちゃだめ!」


 知佳が掴みかかってくる、普段と違う姪に面喰いつつも、輝美はそれでも声をあげようとしたと気だった。

 また、ぐらりと部屋が傾くように揺れた。

 フローリングの上に、火のついた蝋燭が次々と転がる。火事の危険性に、輝美は悲鳴を上げた。その時だった。


 ごおっと部屋の中の空気が渦巻いた。


「きゃっ」


 家具にかけられていた黒い布が舞い上がった。本棚から次々と本が飛び出し、空中の竜巻に乗ってグルグル回る。

 窓が閉められた部屋の中で突然出現した竜巻に、蝋燭を忘れて輝美は目を疑う。

 鼓膜を切るような、高い破裂音。


 輝美は、思わず耳を抑えて頭を下げた。

 そして、そろそろと顔を上げた。

 目に入ってきたものに、言語外で声を出してしまった。


「……」


 だれ、何よあんた。

 知佳も、呆然とその相手を見ている。

 さっきまで、二人しかいなかったはずの部屋に、一人増えている。

 すぐに思ったのは「ドロボー」だった。


 そして、知佳の友達かとも思いなおした。

 だが、知佳の表情は「友達を見る目」ではなく「驚愕」「動揺」であり、何故かわずかに「歓喜」がある。


 異様な風体だった。


 黒い布をすっぽりとかぶり、全身に巻きつけたようなデザインで、しかも頭につけたアクセサリーは、まるでねじ曲がった動物の角だった。

 まるで悪魔のコスプレだ。輝美は頭を傾けた。そうなると、この二人は黒魔術ごっことか、儀式モドキとか、何かの真似とかして遊んでいたのか?


「いやちょっと待て……」


 自分が今見ている風景に、現実的な理由や状況を当てはめようにも、どこかが過剰で何かが足りない。

 相手は女だった。

 小柄で自分より背が低い。輝美は正体不明の黒衣に、とりあえず声をかける。


「ええと、こんばんは……あなたはどちら……」


 暗いはずの部屋に、ぼうっとした光が浮かぶ。

 黒い布をまとい、頭にねじ曲がった二本の角を生やしている、相手の顔がはっきりと見えた。

 輝美は目を疑った。


 いんぷさん?


 その顔は、間違いなく今日、イベント準備の手伝いに出ているはずの文具品フロア、紙雑貨メーカーの契約社員、印布だった。

「あれま」相手は輝美を見つめ、明らかにそう言った。


 ……部屋の外から「二人とも、何をしているの?」という姉の声が、輝美の聴覚の外で聞こえてきた。


 そのあとの輝美の記憶は、途切れ途切れになっている。


 心配した姉の陽子が、様子を見に部屋にやってきた。奇妙な部屋の模様替えと、散乱した本や転がる蝋燭に、姉は「知佳、あなたってば部屋で何やってんの!」と声を上げたが、知佳はベットの上で眠りこけていた。


 印布は消えていた。

 ひどく奇妙なのは、陽子はあの大地震にも、鼓膜を破るような破裂音にも、全く気が付いていなかったという点だった。

 出社前の朝一番に、輝美は知佳にメールした。

 しかし、返信はこない。


 知佳の心配に専念しようにも、今日は『世界のステーショナリー』特別催事初日だった。

 平日だが客が多く、会計レジは午前中、早いうちから順番待ちの列が伸び、ギフト包装と宅配受付の係員が文字通り走り回っている。


 輝美に向かって、客が商品説明を求めて怒涛のように押し寄せてくる。

 会社から抜けてきたらしいサラリーマンに、珍しい海外メーカーの万年筆をショーケースから取り出して見せ、孫の就職祝いを買いに来た老夫婦に、ネーム入れのサービス付き、手に馴染むと評判のボールペンを勧める。


 自分だけではない、他の店員たちも、客たちに引き裂かれるように応対しているのは同じだった。仲間たちと心のスクラムを組んで、輝美は客の群れに立ち向かう。

 一時間が、一五分の長さだった。時間は早送りのように過ぎていく。


 手が足りない。店長はどこだと目で探すと、店長の大北はフロアの隅で、ずっと同じ男性客と話し込んでいる。

 カウンターの中で、商品のケースを点検しながら輝美の後輩がぼやいた。


「さっき、あの横を通った時、店長があの客に『あそこのジェラートって、インスタ映えするの~連れて行ってぇ』なんて笑っていましたよ。買い物客ですか、アレ」

「あの人の手は、猫の手だと思いましょう。使いたいけど使えない」


 ショーケースの周囲を忙しく立ち回り、接客に立つ仲間たちの姿と、一点に立ち止まったままで客と立ち話を楽しむ店長とは、正に対照的だった。

 輝美はそっとため息をつき、紙雑貨の方を見た。


 レターセットやグリーティングカード、そして雑誌で評判の雑貨屋オリジナルの商品に群がる客たちと、その相手をしている印布の姿が見える。

 盛況だった。そしてどうみても、いつも自分が相手にしている現実の光景で、そして印布も普通の販売員だ。


 印布が若い女に呼び止められ、何事か聞かれている。ふむふむと頷く印布が顔を動かした。目と目が合い、輝美は一瞬呼吸が止まった。

 女性客と一緒に印布がこちらに歩いてくる。

 印布は輝美の前にやってきた。角はなく、若草色の販売員の制服を着ているが、やはり間違いなく、昨夜の女だった。


「すみません、今回の催事限定で出ている、東京の文具メーカーの万年筆をお探しのお客様です。ご案内をお願いできますか」


 ……その声に、輝美は絶句する。

 印布ではない、知佳の声だ。

 はい、そう何とか口を動かせたのは、客の前だからだ。


『昨夜はどうも』


 頭に声が響いた。

 輝美を見て、印布はにんまりと笑った。


 印布は、輝美の売り場と同じ階、文具売り場の販売員である。

 百貨店が取り扱う紙雑貨のメーカーから、この百貨店に派遣されている社員だった。

 同じフロアにいて顔は知っていても、すれ違うだけで会話も挨拶程度。


 たまに社員食堂で一人食事をしているのを見かけるだけの、輝美にとってほとんど風景のような存在である。

 小柄で、けして美人ではない。タヌキを思わせる風情だった。輝美にとってはそれだけだった。過去も今後も、関わりは薄い相手。


 しかし、その認識は裏返った。

 午後を過ぎて、催事のフロアの客がようやく引いた時、輝美は休憩と称して印布をバックヤードに連れ込んだ。

 灰色の壁に、商品の段ボールが積み重なる中で、輝美は印布に向き直る。


「どういうこと?」


 視線を印布へ突き刺した。


「どうして昨夜、姉の家にいたの? 印布さん、催事の手伝いに出ていたんじゃないの? 知佳と貴方はどういう知り合い?」

「催事の手伝いなら、心配しないで下さい。ちゃんと仕事が終わってから向かいましたよ」


「んなはずないでしょ! 催事の準備なんか、どう考えても終わりは二十三時超えるわよ! それから電車乗り継いで姉の家に来たら、日付変わるわ!」

「……どうしてそれが可能なのか、お会いした時の、私のあの格好で察せないもんですかね? 普通の想像力なら、一番分かりやすいコスチュームだと思うのですが」


 あの黒衣と妙な角かと、輝美は鼻白んだ。

 確かに、あの服装は悪魔そのものだ。

 しかし、今ここで目の前にいる、文具売り場の派遣社員、印布を見ていると、もしかしたら知佳と一緒の悪ふざけかとも思えてくる。


 輝美ににらまれ、印布は天を仰いだ。

 そして、ふと何かに気が付いた。

 輝美に向かって手招きし「ほらあれ」横を指さす。

 バックヤードの壁に、人間三人の全身、すべて映るほどの大きな鏡が取り付けられている。


 販売員の身だしなみチェックや、立ち振る舞いの練習に使われる鏡でもあった。


「何よ」


 輝美は、印布の指さす方向を見た。

 そのまま、咽喉が凍結した。鏡の中には、自分しか映っていない。

 目の前には、間違いなく印布が立っている。だが、鏡の中にはいない。

 輝美は手を上げた。鏡の中の虚像も同じ動きをする。


 片足になった。虚像も同時に片足を上げる。頭に手をやる。やはり同様。


「テルお姉ちゃん、何を変な踊りをしているんですか?」


 気が狂いましたか? と、印布の質問。

 思わず怒鳴った。


「気が狂う余裕なんかない! なにこの鏡? 何であんたが映らないのよ!」

「はーい、じゃあ映りまーす」


 鏡の中に、突然印布の虚像が出現した。しかも、頭にあのねじくれた角が二本生えている。

 ぐらりと視界がゆれた。輝美を支えながら、印布が提案した。


「さ、食堂へお昼ご飯食べに行きましょうか」


 ――中途半端なお昼時の社員食堂に、人はまばらだった。

 場所を変えたことがリセットに繋がったのか、輝美は少し落ち着いた。

 何があろうと、事態の収拾のためには対処は必要なのだ。そうなると、いくら相手が悪魔といえども、物事は受け入れるしかないと腹をくくる。


 だが何も食べる気が起きず、自動販売機からブラックコーヒーを買った。

 印布は席に着き、トッピングはネギだけの素うどんだった。そういえば、食堂で見かける彼女はいつも素うどんだったと、輝美はどうでも良いことを思いだした。


「言っておきますけど」


 うどんをすすりながら、印布は言った。


「コトの起こり、昨夜に私を呼び出したのは、あなたの姪御さんですからね」


 分かっているわよ、と輝美は嘆いた。


「知佳ってば……なんで悪魔なんか呼ぶなんか思いついたの……しかも本当に出てくるなんて……おまけに同じフロアで働いている人がその悪魔だったって、何よそれ。意味分からない。信じたくない」


「なんか、とは何ですか。それにね、私はお宅の姪御のクソ下手な呪文と適当極まりない様式の、お粗末でいい加減な召喚儀式に、今回はお情けで顔を出してやったんですからね。お越し頂き有難うございますと、頭下げて感謝して欲しいくらいです」

「……」


「どうせネットか安っぺらいマニュアル本で調べたんでしょうよ。魔法陣の描き方はデタラメで防御力ゼロ、呪文は棒読み、しかも発音もなってないから、聞き苦しいったらありゃしない。小道具も代用品ばっかり。親殺しの頭蓋骨とか血で溺れ死んだコウモリまでとは言いませんが、黒い鶏すら揃えられないなら、諦めりゃいいのにずうずうしい」


 叔母として、頭が垂れてきた。だが、輝美は一番重要なことに気が付いた。


「あの、知佳とはそれで……あなたと魂とか契約とか、その……」

「契約も何も、途中で邪魔が入って中断したでしょ」


 姉が入ってきて、部屋の電気をつけた途端に印布は消えた。

 すると、知佳は魂を差し出すという、悪魔との禍々しい契約を回避できたわけだ。

 胸を撫でおろす輝美へ、こっちは無駄足ですと、印布はじめっとした視線を向けた。


「例えるなら、長時間にわたって商品説明をさせられて、ショーケースの商品はもちろん、色違いはないのとか同じシリーズ全部見せてとか、さんざん在庫を検索させられ、予算がどうとかどーでもいい財布事情を聞かされた挙句『また今度にするわ』と、客に言われた気分ですね」


 息が詰まった。

 販売業にとって、切れば血が滲み出る程リアルな例えだった。


「……ご……ごめ……」

「まあ、良いですよ」


 ふん、と印布はうどんをすする。


「お宅の姪御の魂なんか、契約の見返りにしても、大した報酬じゃないもん。通っている学校はカトリック系のくせに、正月は初詣に行って、ハロウィンで仮装してクリスマスにはツリー飾ってケーキ食べる、それで悪魔召喚の儀式なんて、神への信仰どころか、精神に深みもない」


 魂をけなされる怒りと、悪魔の接近の回避、愛する姪にとって、叔母としてどちらに感情を流せばいいのか、輝美は引き裂かれる。


「どうせ契約するならね、今まで敬虔な信仰を持っていた信者がいいな。己の信じていた神に裏切られた絶望と、憤怒によって己の神を捨て、聖なる部分は憎しみにより邪に染まった、それでいて気高さを持つそんな魂。まあ、そんなの滅多にないけど」


「……ところで、知佳はなぜあなたを召喚したの? あの子は悪魔と何の契約をしようとしたのか、分かる?」

「私を呼び出して、自分の命を狙う悪魔と戦わせようとでもしたんでしょ」


 またも、輝美にとっては理解不能のパーツだった。

 印布はうどんをたいらげ、だし汁を飲み干して言った。


「姪御がクラスのいじめの加害者だって、叔母さんは知っていましたか?」


 頭を殴られた気がした。


「姪御がいじめていた相手っていうのが、いわゆる現実逃避タイプの不思議ちゃん。それがリーダー格の姪御の友達の気に障って、仲良し三人組で一緒になっていじめていたんですよ。陰口叩いて無視して、物を隠して、実に定番で陰険な手口で」


 まさか、と否定しようとした。印布が続けた。


「相手が真っ向から反撃してこないのを良いことに、嘲笑っていじめを続けていたら、いじめられっこが黒魔術で悪魔を召喚して、姪御グループに復讐しようとしてるって噂がたったんですよ。その噂を無視していたら、いじめっ子のリーダーがいじめられっ子と謎の失踪を遂げて、もう一人が交通事故で死んじゃった」


 陽子の話が蘇った。

 仲良しだった金子さんが、佐野さんと行方不明。

 もう一人、仲の良かった子が交通事故で……


「姪御は、加害者三人のうち、最後の生き残りですよ。何せ許しを乞おうにも、被害者はオトモダチと一緒に行方不明。そりゃあ死ぬのが怖くて、家から出られないでしょうよ。でも助けを求めようにも、親には理由は言えない。思いつめた挙句、悪魔に対抗するには悪魔だと、私を助っ人として呼ぼうとしたんですよ」


「……」

「別に、姪御の召喚を無視しても良かったんだけど、つい最近似たような召喚があって、面倒だからって無視したら、悪魔が来ないのに絶望して、そいつ死んじゃいましたから。まあ今回は行ってやろうかってね」


 印布の軽い口調に、輝美は腹立ちすら忘れていた。


 その日、輝美のシフトは早番だった。 

 催事に押し寄せてくる客の応対に引きずられ、退店が引き延ばされる事態を巧妙に回避して、輝美は今日も定時に店を飛び出し、地下鉄を駆け下る。

 姉の家に着いた。やはり、知佳は部屋にこもっていた。


「お姉ちゃんは来ないで」と陽子を制止し、知佳の部屋へ。

 印布の話を、知佳にぶつけた。

 知佳は泣き出した。悪魔の言った事は、すべて真実だった。


「泣いている場合じゃないでしょ!」


 輝美は知佳を叱咤した。


「佐野さんが、金子さんやあんたたちにいじめられていたって、先生は知っているの?」


 涙で汚れた顔を歪ませて、知佳は頭を振った。


「わかん、ない……でも、しらないとおもう……」


 いじめられっ子が、自分の家族にもそのことを話さないケースはよくある。

 いじめられた記憶を、人に話すことによって蘇らせるのが辛いのだ。だから押し黙ってしまい、教師ばかりか家族も知らないということは、よくある話だった。

 どういう経緯で、女子生徒二人が消えたのかは分からない。


 だが、いじめの加害者と被害者が、行動を共にするとは、不吉な予感しかない。


「知佳。明日、担任の先生にそれを話しなさい」


 知佳が咽喉から「ひぐぅ」と声を出した。


「もしかしたら、二人を見つける何かのヒントになるかもしれない」

「……どうしても……?」


 その顔は、紛れもない自己保身の顔だった。


「知佳! あんた、自分のしたこと分かってんの!」


 知佳の泣き顔が固まった。


「もう高校生よ! どんなことをしたらいじめなのか、違うのか、その線引きくらいつけられる年でしょう! 過ちは許せないけど、責任取らずに逃げようなんて、最低の中の最下層! やったことは後戻りできないんだから、せめて責任を取りなさい!」


 怒りよりも、悲しかった。そして情けなかった。

 小学生の頃、テレビの番組コーナーで、体を張った芸のタレントが叩かれたりするのを見て、芸人さんが痛いから可哀そうだと言った優しい子だった。


 母親の陽子が入院した時、「ママをたすけてください、ぜったいにわがまま言わない、いい子になります」毎晩泣きながら神さまにお祈りしていた。

 そんな子が、三人がかりで一人をいじめるような、卑劣なことをする子になったのだ。


 いじめを率先して行おうが、追従する形で加わろうが、加担してしまえば一緒だ。

 いじめられっ子にとっては、愛も知佳も、死んだ小夜子という子も、同一線上にいる加害者である。


 ――知佳の仲良し三人組のリーダー格は、金子愛だった。

 知佳の通う女子学院の小学部から在籍している「生粋」だった。写メでしか見たことはないが、綺麗な子だった。凛とした風情を漂わせていた。

 高等部から学院に入学した知佳にとって、愛は友達以上に心酔と憧憬が混じっていた存在だったらしい。


 金子愛は、十代の少女にしてはひどく現実的で、曖昧模糊とした「オカルト的」なものを毛嫌いしていた。

 いじめられていた佐野理世は、まさに愛が毛嫌いするタイプそのもので、現実世界より幻想世界、自分が作った物語の中で遊び、見えない精霊を召喚して彼らと戯れ、妖精との交流や、前世の恋人との生活など、周囲に吹聴している子だった。


 変わり者だとしても、人を傷つけるわけじゃない。でも目障りだと、言動や振る舞いに腹が立つと、愛は理世を嫌った。

 やがてそれを態度に出し、それがエスカレートしていじめへとつながり、それを知佳と、小夜子は愛に追従した。愛が嫌うものは、知佳にとっても嫌悪の対象だった。


「いま、そんなこと話しても、せんせい、結婚して、来週には、がっこうやめちゃう……」

「知佳!」


「もしかして、あいはもう、悪魔に……たべられていたら、どうしよう……」

「それは、どうなのか分からないわよ。でも、何度でも言う。あんたのしたことは最低で、そのせいで二人が行方不明だっていうのは、しっかりと認識しなさい。そして、今はあんたが動かない限り、この事態の決着はつかない事」


「……」

「逆の立場で考えてごらん。あんたはどこかで閉じ込められて、家に帰れない。愛ちゃんは、あんたを見つけるヒントを持ちながら、それを人に話さずに知らん顔。どう思うよ。最悪なのは、自分の保身のために、出来ることをせずに人を見捨てる事。今でもこうしている間に、時間は経っているんだからね。あんたは最低なままよ」


 ぐずぐずと、また知佳は泣き始めた。


「……わたしも……ころされる……」

「あんたにはお姉ちゃんが付いてるでしょ! それにね、先生が辞めた後は後任の先生がいるでしょう。話を引き継いでもらえばいいの」


 知佳は、しゃくりあげながら言った。


「お母さんには、言わないで」


 ぐずぐずと泣いた。


「すごく、びっくりする……しんぱい、かける……」

「私の口からは言わない。でも、あんたたちが佐野さんに対して行ったこと、いじめのことを明日学校へ行って、担任の先生に全部正直にお話ししなさい。それが条件」


 怯える知佳へ向けて、輝美は言い添えた。


「大丈夫。知佳独りにはやらせない。明日の金曜日は仕事休みだから、お姉ちゃんが知佳と一緒に学校に行って、先生と会うわ」



 知佳が通っている光星女子学院の設立は戦後。この地を訪れたフランシスコ会の宣教師によって開かれた女子の教育機関だった。

 今では『家庭の光に、そして世の星となるよう』を教育理念として掲げた、小学校から大学院まで併設のカトリック系の女子学院である

 駅から出るとすぐに、学院まで十五分以上、ゆるやかな坂道が続く。

 山手から見える海の風景は美しく、敷地に建てられた白壁に青い屋根の校舎は、良家の少女たちが集うに清廉な場所の一言に尽きた。


 当時、公立の中学に通っていた知佳は、ここの制服だった白いブラウスに白い大きな胸元のリボン、紺色のボレロと同色のスカートに一目ぼれし、猛勉強して入学合格を勝ち取った。

 合格発表のその晩、知佳を囲んで姉一家で大騒ぎしたことを、輝美は思い出す。


 校門に入り、詰所の受付を通って敷地に入ると、今から下校し始める制服の少女たちが、輝美とすれ違うたびに「こんにちは」と挨拶してきた。

 初々しい笑顔と良家の子女独特の清楚さに、輝美は何故か気圧されつつ、場違いを感じつつ挨拶を返す。


 本校舎のロビーで、知佳が待っていた。

 中央の台座に、種類は違うが白で統一された花々が、青磁の壺に生けられている。


「前田先生……応接で、私たちを待ってる」

「そう」


 輝美は、血の気の無い知佳の頬を軽く叩いた。

「勇気の出るおまじない」


 ――応接室は、本校舎の一階奥にあった。

 輝美と知佳は、並んでソファに座る。

 二人の前に座る、知佳の担任の教師は前田和恵という女性だった。白いブラウスに紺色のスカート姿は、ここの生徒たちと溶け込んでしまう程若い。


 育ちの良いお嬢さんが、成人してからもそのまま良家の子女が通う学び舎に、教師として戻った印象だった。

 輝美の挨拶と自己紹介を受けた和恵は、知佳の付き添いが母親ではなく、叔母ということに不思議そうな顔になったが、知佳の思いつめた顔へ問いかけた。


「清坂さん、大事な話ってなあに?」


 声も清楚な姿に相応しく、優しい。

 知佳は、固い声で切り出した。


「金子愛さんと、佐野理世さんとのことで、先生に正直にお話ししたいことがあるんです」


 和恵の目じりが、かすかに震える。

 話が前後し、言葉に詰まる部分もあったが、和恵と輝美の前で知佳は愛と小夜子と三人一緒になって、理世に行っていたいじめ行為を全て正直に話した。


「……清坂さんは、どうしてそれを今、私に話してくれる気になったの?」

「もしも、佐野さんが、本当に悪魔を呼び出していたら、どうしようって思っていました。本当のこと話したら、もう、愛は帰って来ないし、小夜子みたいに、私も死んじゃうって……それに、いじめって悪いことだし、正直にいうのが怖かったんです」


 黙って和恵は聞いている。知佳は言葉を押し出した。


「でも、やっぱりいなくなった二人は探さなきゃ。そのためには、何か手掛かりがいるでしょ? この話が、何かのヒントになるかもしれないって、思ったんです」


 心配で来たけれど、この場の手助けは知佳に必要ないことに輝美は安堵した。

 そして、ふと思う。

 三日後に結婚式を控えている和恵は、式の後には学校を去ると聞いていた。後任も決まっているというのに、なぜこの場に後任の教師がいないのだろうか。


「そうよね……手掛かりになれば、良いわね」

「あの二人が、一緒にいるとしたら……変じゃないですか。私にはよく分からないし、考えつかないけど、とても悪いことがあったかもしれない」


 そうよね、と和恵が嘆く。

 知佳は必死で言った。


「だから、このことを警察に言って下さい。私、佐野さんをいじめたことを、警察にも正直に話しますから、先生、お願いします」

「このこと、私以外の誰かに言った?」

「テルお姉ちゃんしか、知りません。お母さんは、私たちが今、こうしていることも知らないです」


 まあ、と嘆く和恵に、輝美が言い添えた。


「この子から相談を受けたのは私です。先生にお話しさせて頂いて、今後の方向性などきちんと決めてから、この子の母親にすべて話そうと思います」


 輝美は、和恵を見つめる。

 さっきから、和恵の表情が気になっていた。販売員をしていると、相手の皮膚の下にある感情を探るのに長けてくる。


 例えば客に商品説明を求められた時。どこまで話をすればいいのか、どこで切り上げればいいのか、商品の美点を上げて薦めるか、情報を与えて客に選ばせるか、押しと引きのタイミングを計る必要が出てくる。


 それは客の表情で判断するが、表面上に出ている感情と、皮膚の下の表情は違うことがたまにあり、それを読み違えると接客失敗につながる。

 接客に失敗して、商品を売り損なうならまだ良い。一番怖いのは、あの店員はいやだと、店に嫌悪感を持たれることだ。


 入社して二年も経てば、大抵の店員はその術を身に着ける。輝美も、先輩社員に教えられたりしてそれを身に着けた。

 輝美が知る限り、例外は大北店長一人である。


 ――おかしい。


 輝美は思う。自分のクラスで起きていたいじめの告白と、そして行方不明になった生徒二人の、捜索のヒントにつながる話を聞いているというのに、和恵から熱意を感じない。


 知佳はソファから身を乗り出して訴えているが、和恵の上体は棒のようだ。

 顔は神妙だが、その皮膚の下は冷えていて、苛立ちすら感じる。

 突然、頬に視線を感じた。

 窓を見た。外は中庭に面していて、窓のすぐ傍にオリーブの低木がある。


 その枝に、カラスが止まっていた。部屋の中を覗き込んでいる。

 知佳と目が合うと、小首を傾げてみせた。

 小気味悪いほど、人間じみた仕草だった。



 和恵が、この話を後任の教師に引き継ぐことを知佳に約束し、面談は一度終わった。

 警察に話して下さい、お願いします、と知佳は何度も頭を下げた。

 分かったわ、と和恵はその度に頷いてくれたので、輝美はさっきから気になる感覚をねじ伏せた。和恵は現在、行方不明の生徒二人の担任である。


 もう退職するとはいえ、自分たちの生徒なのだ。生徒たちの心配は、担任なら当然持ち合わせているに違いない。

 応接室から出て、知佳と二人でロビーへ向かいながら、輝美は和恵に話しかけた。


「ご結婚なさるそうですね、おめでとうございます」

「ええ、もう本当に色々バタバタしていて、明日は最後の式の打ち合わせだとか、エステだのなんだのって……式は国内ですが、そのあと彼の任地先へ一緒についていくんですけど、それが外国なもので、ホントに大変です。言葉は……曲がりなりにも英語教師ですから、大丈夫ですけど」


 相手は、親戚筋から来た見合いで決まったという。

 日本国外でも有名な商社に勤める相手で、双方ともに条件も容姿も申し分なく、話はトントン拍子に決まったと、左手の薬指に光る婚約指輪を眺めながら和恵は嬉しそうに話し、輝美も「この婚約指輪はハリーウィンストンだな」と思いながら聞いていた。


 和恵に見送られて、ロビーの外に出た。


「お姉ちゃん、友達と会っているんだってね。知佳、一緒に……」


 一緒に夕ご飯を食べて帰ろうと、知佳を誘おうとして口を閉じた。


「……先生、すごく厭な感じ」


 知佳は、怒りを滲ませていた。


「愛も佐野さんも、今どんな目に遭っているのか分からないんだよ? それなのに、婚約者がどうだとか、お互いの親がどうとか、新居はロンドンだとか、浮かれていてワケわかんない。もう学校辞めるから、あとは瀬尾先生に押し付ければいいって思っているんだ」


「たぶん……結婚式は日曜日でしょう。大イベントだから……」

「先生は愛のことも、お気に入りなんだって思っていた。佐野さんだって、先生の事を慕っていたんだよ。今まで、優しくて綺麗で、人気のある先生だって思っていたけど、全然二人を心配しているように見えないよ。最後に本性見たって感じ」


 輝美は、思わず天を仰いだ。

 知佳の言葉に付け加えて、あの和恵はいじめの事をもうすでに知っていたのではと思ったのだ。

 担任教師にとって、自分のクラスのいじめなど絶対に許せない問題で、その告白を受けたらひどくうろたえ、動揺するに違いない。


 ……その動揺が、見えなかった。静かに告白を聞いているように見えても、輝美から見れば、あれはポーカーフェイスだ。

 すでに太陽の光は力を失い、淡い青空に薄く月が見える。

 校舎の窓は全て締め切られて、校門前にはもう誰もいなかった。


 詰所も閉まっている。

 校門を出て、下り坂に出ようとしたとき、カア、と突然足元で鳴き声がする。

 輝美は驚いた。

 いつの間にか、カラスが横に並んで歩いている。


 立ち止まった輝美と知佳を見上げ、カラスは再び「カア」と鳴くと、回れ右してスタスタと歩き、また振り返って二人を見る。


「……ついて来いって感じね」


 その時だった。ふらりと知佳がカラスを追って歩き出す。帰り道とは別方向の、敷地を囲む塀に沿って歩き出す知佳へ、輝美は声を上げた。


「知佳、どうしたの?」


 知佳は答えもせずに歩いていく。カラスは飛ぼうとせず、歩いて先導している。


「知佳!」


 知佳を走って追う。歩いているはずの知佳と、カラスに追い付けない。

 学園の裏門に着いた。正門と違って、業者の出入りや荷物の搬入で使われるそこは、コンテナや機材が積まれて、華やかさは全くない、

 門の前につき、カラスが知佳を見上げて鳴き声を上げる。知佳は門の取っ手に手をかけて押した。


 信じられないことに、開いた。


「こんなところから入れるんだ。錠前が壊れて、鍵がかからないのね」


 しばし呆れていた輝美だったが、敷地の奥へ向かう知佳を慌てて追った。

 校内のどの辺りにいるのか、木が多い。まだ完全な夜ではないが、樹々の枝と葉で明るさは遮られて、目の前は淡い闇が覆いつつある。

 突然、知佳が腰をかがめた。


 何かを拾い上げた。

 ボールチェーンがついた、ディズニーキャラクターのマスコットだった。鎖部分が切れているそれを、手の中をしばらく見つめて、また歩き出す。

 木々を抜けた。

 目の前に、工事用のビニールであちこち覆われた建物が出現した。


「礼拝堂よ」


 ぼそっと知佳が言った。


「戦後すぐの建物で、もう使わないし古いから、取り壊しになるの」


 鉄骨に囲まれ、ビニールで覆われた小さな礼拝堂は、すでに一部壁が取り壊されて、まるで入口が一部吹き飛んだようだ。

 壁がない部分から、礼拝堂の奥が見えていた。立ち入り禁止のロープが張られ、手前にはカラーコーンがいくつも置かれている。


 カラスに先導されるように、知佳がゆらゆらと礼拝堂へ歩き出す。カラーコーンを無視し、ロープをくぐって中へ入っていく姪を、輝美は大声で呼んだ。


「知佳!」


 知佳を追いかけて中に入る。

 町中にある教会くらいの広さだった。

 奥の台座にあるはずのマリア像は無く、椅子から説教台、照明器具まで全て運び出された後の礼拝堂は、空虚な広い空間だった。


 お互いの顔は見えるが、もう天井や隅には闇が溜まりつつある。砂と埃、重機の油の匂いが鼻に滑り込む。

 神のいない礼拝堂の空間は、魔が住みついたように寒々しい。


「もうすぐ夜になるわよ。帰ろう」


 しかし、知佳は返事をせずに立っている。その知佳の視線の先を追った。

 知佳が見ているのは古い木製の床だった。

 なにこれ、と声がこぼれた。

 半分ほどかすれ、消えかけてはいたが、何かが描かれていた跡があった。図形や文字が床に残っている。


 魔法陣だ。

 まさか、と知佳が呻いた。


「……佐野さん?……」


 輝美は、印布の話を思い出す。

 佐野理世は知佳たちを恨んで、復讐のために悪魔を呼び出したと噂されていた。

 言われてみれば、知佳が悪魔召喚の儀式を行っていた一昨日の夜、床に描いていた文様に似ているが、それよりも形は複雑で、禍々しさはこちらの方がはるかに上だった。


 黒い文字に、見えない瘴気の残滓がこびりついている。かすれて、読めない文字や記号であるに関わらず、何かを呪い、破壊する意志が留まっている。

 輝美は佐野理世という少女を知らない。


 しかし、この魔法陣を見ただけで、彼女が何を想い、考えていたのか、憎悪の記憶が体の中に雪崩れ込んでくるのを感じる。


「知佳、帰ろう」


 身を震わせて、輝美は知佳を呼んだ。

 寒気がしたのは、気温が下がったせいじゃない、体の表面ではなく、内側を冷やす空気によってだった。

 だが、知佳は動かない。じっと床に残る魔法陣を見つめている。

 佐野理世が残した怨念を、自分たちの行いの愚かさを前にして、動けないでいる。


「……愛は、きっとここに来たんだ……」

「知佳?」


 これを見て、と知佳が輝美へ小さなものを差し出した。


「ここに来る途中に、さっき拾ったこれ、愛のマスコットに間違いないの。だって私と小夜子と、お揃いで持ってたんだもん」


 それに、と続けた。


「裏門から入れば、誰にも会わずに、ここに来られる……」


 刻が、夜に向かう。

 空洞となった礼拝堂に、闇のグラデーションが降り始める。

 カラスの鳴き声。

 知佳が面を上げた。さっきと同じカラスが、端の方でホッピングしている。


 カラスに誘われるように、知佳は端へと歩いてしゃがみ込み、両手を床に這わせるように、何かを探し始めた。


「もう帰ろう、知佳」


 闇が質量を伴って、圧迫してくる。その息苦しさに、輝美は知佳の肩に強く手をかけた。


「何を探しているのよ、知佳、もう出よう。後は先生方か、警察に任せよう」

「そういえば、地下室があったの」


 背中を向けたまま、知佳が答えた。


「この辺のどこかに、出入り口を開ける蓋の取っ手があったはずなの。まさか、もしかしたら……」

「手伝います」


 薄闇から、突然流れてきた声に輝美は仰天した。


「前田先生」

「そこじゃなくて、ここよ。ちょっと重いけど」


 思いがけない担任教師の出現に、知佳は目を丸くしていたが、和恵が床下の蓋の取っ手を探し当てた時、感謝の顔になった。


「開けるわよ」


 きしむ音と共に、床が持ち上がった。

 嗅いだこともない悪臭が鼻をぶった。

 眼球までを刺激する強烈さに、輝美は呻いて鼻を抑える。和恵は顔をしかめながら蓋を全開にして、地下室への入口を開放する。


 知佳が、鼻を片手で抑えるのが見えた。小さなものが羽音を立てながら顔にぶつかってくる。蠅だ。生理的嫌悪感が全身を飲み込んだ。

 狭くなった視界の中で、和恵が腕を大きく振り上げるのが見えた。


 何か手に持っていた。知佳の頭に振り下ろす。何が起きたのか分からなかった。それでも声がほとばしった。


「ちかあっ」


 知佳が前のめりになり、地下室の中へ落ちた。


「何するの!」


 和恵を突き飛ばし、四つん這いになって床下を覗き込む。真っ暗だった。


「ちか……っ」


 後頭部に激痛が襲った。殴られたこと、そして和恵が自分たちを襲ったことは分かったが、それまでだった。

 体が斜めになった。そのまま暗闇に続く階段を滑り落ちていった。



 ――意識が蘇っているのか、それともまだ夢なのか、目を開いたつもりだったが、目の前は黒一色だった。


 今、どこにいるのか、そしてどういう姿なのか、自分自身の存在、意識すら霞む、完全な闇の世界だった。身を動かした。本当に動かしたのか、動いている気になったのか、視覚が無いので分からない。

 声は出た。


「ちか」


 後頭部に痛みがあった。顔の周囲に何が飛び回り、鼻や額に止まろうとしている。肌のうえでざわめき、ウンウンと、耳元で羽音を立てる。

 空気は粘度をもち、呼吸するのが苦しい。それ以上に悪臭だった。吐き気を催す悪臭というより、嗅覚から侵入し、脳みそを腐食させる凶悪なガスだった。


「知佳! ちかあっ」


 姪を案じる自分で、輝美は生きていることにようやく実感した。

 黒い海の中で床を這い、手探りし、知佳を探した。ぐにゃりとしたものを掴んだ。


「ちか!」


 柔らかすぎるゴムの感触。指がめり込んだ。本能的な忌避に、輝美はそれから手を放す。

 そして、その形をなぞる。

 でこぼこした山。毒ガスの発生源だった。虫の層もこのあたりが濃く、蠢いている。ぶんぶん飛び回り、顔や腕にざわざわと止まる。


 固いものが指先に触れた。

 四角い固い物体。携帯電話と気が付き、歓喜がどっと沸く。使えるかどうかは分からないが、ワラではあった。

 手探りでボタンを探す。


 スイッチが入った。目が眩むほど嬉しかった。

 自分の落とし物ではなく、知佳のものでもない。

 ロックはかかっていない。直前まで見ていたらしい『メルヘン女』から受信したメールがそのまま目に入った。


『金子愛さま、あなたが実力テストでカンニングをしていたのを見ちゃいました。大好きな前田先生に言いつけられたくなかったら、今後わたしとアンリエッタ様とのことをバカにしたり、笑ったりするのをやめて、悔い改めて謝ってください。今からすぐ、学校の礼拝堂に来てください、待っています』


 日付は一週間前の一五時四八分。

 携帯画面の光が、一部を照らした。

 床に黒々とした物体。その先に白いソックスを履いたつま先。

 ごう、と毛穴が広がった。


 これは、金子愛だ。

 行方不明の彼女だった。ここで死んで死臭を発している。

 広がった毛穴の一つ一つに氷の針が刺さる。

 姪の名を絶叫した。闇に意識が吸われそうになった。


 今、何時だ。

 携帯に表示されている時間を見ようとした。その時、電源が落ちた。

 何度もスイッチを押したが、もう点かない。

 自分の持ち物を探すが、何一つ見えない。そもそも、和恵に奪われていて、ここにあるかどうかすら分からない。


「ああもう!」


 おねえちゃん、と溶けて消えそうな声がした。


「どこ……おねえちゃん」

「知佳、そこにいるの?」

「何も、見えないよお……」

「テル姉ちゃんはここにちゃんといる! 安心しなさい、どこか痛いところある? 動ける? 吐き気とかしない?」


「すごい匂いで気持ち悪い……頭、痛いし、足が痛い。床がべたべたして、顔にいっぱい何かくっついてくる……たくさん変な虫が飛んでるよお」


 そして、震える声がした。


「ねえ、テルお姉ちゃん……前田先生……どうして?」


 理由が分からない。だから言えない。しかし、この暗闇は地下室の中だと、記憶と思考回路がのろのろと戻ってきた。

 あの女教師がこの入口の蓋を開けて、知佳を殴って階段から落とし、そして自分までも放り入れた。


 怒りも過ぎると、感情は炎から氷に転ずる。しかし、体は熱く震える。

 金子愛がここにいた。和恵がどう関わっているのかは分からないが「ころしてやる」声に出さずに口が動いた。


 時間をかけて知佳の位置をようやく探し当て、抱きしめてやる事は出来たが、知佳は右足首が痛くて立てないと泣いた。

 右足の負傷の容態がどうなのか、手探りで触ったら腫れ上がり、熱があった。


「大丈夫だって、ちゃんと出られるから」


 さっき見えた金子愛の死体から、出来るだけ遠ざけるように、壁を見つけて知佳をそこにもたれさせた。

 そしてはいつくばって、手探りで階段を探しあてた。

 昇って蓋を押し上げた。


 何度も何度も押し上げた。腕が折れんばかりに、背骨を砕かんばかりに渾身の力を使った。

 拳で蓋を叩いた。指の関節が潰れるほどに。

 硬い岩盤のようだ。汗が吹き出す。死臭がまといつく。流しているのは涙なのか汗なのか、分からない。


「助けて、誰か来て!」


 何度も叫んだ。声が枯れて熱が出たが、それでも叫んだ。

 体が痛くなり、咽喉か擦り切れた。階段で休む。死臭に包まれ、息苦しさと疲労で意識が闇に吸われて、何度もまどろんだ。

 起きていても、目を閉じても黒色に圧し潰されて、自分と世界との境界線があいまいになりそうだった。


 目の前にある暗黒は、夢なのか、現実なのか、それすらも区別がつかなくなる。

 すでに知佳と一緒にここで死んでいて、意識だけがこうやって浮遊しているのかと想像し、気が狂いそうになるが、それでも意識を立て直す。

 知佳は、静かになっていた。


 眠っているのだと、輝美は考える。姪が死ぬはずがない。

 だが、喉が渇く。汗が粘りながら全身を伝う。大丈夫、死ぬはずがない。助かる。ここは工事中なのだ、朝になれば誰かが来るはずだ。

 正気は瓦解寸前だった。守るべき知佳の存在と、生還の希望でようやく保てているが、いつ狂気に沈んでもおかしくない状態だった。


 祈った。

 タスケテ、ダレカ。


「はーい」


 幻聴が聞こえた。


「……誰か、たすけ……」

「はい」


 闇の中で、確かに声がした。

 印布の声。


「どこにいるの!」


 突然、足元が発光した。

 足元で自分を見上げるネズミがいた。


「……印布……?」

「はい」


 光に包まれるネズミの出現に、急速に力が落ちていく。安堵なのか絶望なのか分からない。 

 口が動いた。


「これって……どうなっているの……」

「このような状態です」


 目の前が白くなり、光が網膜を突き刺した。目をかばった。そしてそろそろと目を開ける。

 照明が点いている。

 階段に座っていた。


 地下室は、蛆と蠅の帝国だった。空中は蠅で埋まっていた。床は蛆虫で埋まっていた。

 人ではなくなった形で、愛がいた。

 愛と重なるように、もう一人の少女が溶けていた。


 蛆は顔や手足の腐肉に出入りし、蠅は表面で遊んでいた。

 蛆は床に広がった体液の池で泳ぎ踊っていた。

 知佳が、高い声で絶叫した。

 知佳へ飛んでいき、姪を抱きしめて輝美は怒鳴る。


「明かりを消して!」


 再び暗闇が戻ったが、知佳の悲鳴は続いていた。


「いやだあああああっ、あい、あいじゃないよ、あれはあいじゃない!」

「知佳、落ち着きなさい!」

「やだ、ふたりとも、ちがう、ヤダヤダヤダアアアっ」

「知佳!」


 知佳の頭を抱きしめた。だが、自分の頭にも二人の少女の姿が焼き付いている。

 蠅の羽音と共に、たぶん、もう記憶から一生消えない。

 なんで、と呻いた。


「なんで、こんなことになっているの?」


 分からない。和恵が殺したのか、なぜ教え子二人を殺したのか、自分たちを地下室に放り入れたのか。


 ――佐野理世は、自殺ですよ。


 印布の声。

 なにそれ……それきり輝美は声を失う。


「死んでいるもう一人は、お気づきでしょうけど佐野理世です。この子、あなたの姪の三人組にいじめを受けているって、すでにあの担任教師に訴えていたんですよ。でも、あの感じじゃ取り合ってもらえなかったんでしょうね」

「なんで……? だって、担任の先生じゃない?」


「面倒くさかったんじゃないですか?」

「面倒くさいって……」


 震える知佳を腕に巻いて、輝美は呻く。


「で、佐野理世は復讐を企てたんですよ。それがさっき見た魔法陣ね。古い礼拝堂に忍び込んで、悪魔を呼び出す儀式を行い、生贄には二本脚の動物である鳩を捧げた。にっくきいじめグループリーダーと、自分を見捨てた担任教師をここに呼び出し、悪魔の手で無残な死を与えるためにね。付け加えるなら、この娘の方が、姪御よりも儀式は本格的でしたよ」


 まさか、と輝美は思い出した。


 ――つい最近似たような召喚があって、面倒だからって無視したら、悪魔が来ないのに絶望して、そいつ死んじゃいましたから。


「あんたが、召還を無視したせいで、死んだ人がいるって……」


 その通り、と声がした。


「この地下室の上で、佐野理世は自分で死んじゃった」


 もういやだ、と心が軋みを上げた。しかし、聞かずにはいられない。


「なんで佐野さんが、金子さんと一緒に地下室に捨てられているのよ!」

「ハイ、悪魔召喚失敗で、自殺した佐野理世を発見したのが、この礼拝堂に呼び出されてきた金子愛と、前田和恵でしょ。地下室に佐野理世を捨てたのは、そりゃあ、和恵にとっちゃ、いじめで自分の生徒が自殺だなんて、バレたら教師生命も何も、お終いだからじゃないですか? 下手すりゃ結婚もパア」


「……」

「自殺さえ隠してしまえば、いじめも何も、決定的な証拠は見つからない。金子愛は、まあ何でしょ、口封じじゃないですか?」

「待ってよ……でも……穴だらけよそれって……」


 酸素が薄く、息が苦しい。


「だって、地下室に放り込んだって……礼拝堂の工事中に、いつかは地下室で死体が発見されるし、そうなったら警察は必ず動く……」


「あの手の人間の思考回路を、まともに計っちゃいけませんよ。頭の中の画素数が荒いというか、あっちこっち考えが抜けているというか、目の前にある邪魔は、とりあえず前から無くなれば、それでイイと思っているんだから」


 小さく、知佳が呻き声を上げた。

 いやだ、もういやだと嘆いている。愛を呼び、小夜子を呼び、佐野理世へ許しを乞うている。輝美に謝っている。

 冷たい無力感が、輝美の首を絞めた。


 どれだけ時間が過ぎたのか、その感覚すらもうない。

 止まった時の中に取り残されたようで、気が狂いそうだった。印布との会話によって正気を保っているのが、皮肉でもあった。


「もし仰るなら、ここから、お二人を外に出してあげられますけど」


 善意も慈悲もない、暗闇と恐怖に弱り切った輝美を嬲り、弄んでいる。

 印布の声は、悪魔ということを思い出させるに十分な響きだった。

 負けちゃ駄目だ。

 輝美は己を立て直す。


 ここは工事中の礼拝堂だ。いつかは人が来る。大声で叫べば、きっと上に聞こえるに違いない。そうすれば助けてもらえる。

 そのあとに、警察に駆け込むことだって出来る。

 それに、すでに陽子は妹と娘の不在に気が付いているはずだ。


 悪魔の禍々しい手を借りずとも、いつかは出られる。

 それに、警察が和恵を見逃すはずがない。必ず、法によって裁かれる。


「そりゃあね、お考えの通り、いつかは地下室から出られますよ。そして和恵は裁かれるでしょうね。でも問題は、あなた方はその時、生きているか死んでいるかでしょ」


 知佳の泣き声が、小さな笑い声に変わっていることに、輝美は気が付いた。

 ふふふ、ふふ、ふふ。くふふっ

 狂った節の歪な笑いを上げながら、輝美の腕の中で知佳ががくがくと揺れている。


「姪御、もう精神保ちませんよ」


 その一言が、輝美を殴り飛ばした。 

 いつかは出られる、ではない。今すぐこの子は助からなくてはならない。手段を選んでいる場合はない。知佳が助かるなら、悪魔でも神でもいい。自分の魂だっていらない。


「ここから私たちを、すぐ外に出して!」


 はーい、と返事が聞こえた。



 結婚式場は、和恵がこだわりぬいて選び出した場所だった。雑誌の特集にもよく登場し、ドラマの撮影にも使われた人気の高い場所だった。

 こんな式場で、ウェディングドレスを着ることが夢だった。緑に囲まれたガラス張りのチャペルに、ヨーロッパを思わせる広い庭園は、和恵にとっての憧れの場所だった。


 明るい控室で、出席者に挨拶して回っている夫を見た。

 申し分ない男だった。

 容姿に経済力、経歴は、和恵のこれからの生活を豊かに彩ってくれる確信があったし、夫も和恵に対して同様の思いでいるはずだ。


「まああ、なんて綺麗な花嫁さん」

「素敵ねえ、そのドレス。お似合いのご夫婦ね」


 胸元から裾まで、白い花を流れるようにふんだんにあしらった、有名デザイナーのウェディングドレス姿に、招待客のため息や賛嘆の目が降り注がれる。

 この式で夫と愛を誓い、歩き出す将来は幸福のみが満ちていた。

 控室の花嫁に、招待客が挨拶に訪れる。


 当然、光星女子学院の同僚や上司の姿もあった。

 自分の後任である瀬尾さなえが、歩み寄ってきた。

 とってもきれいよ、と人の好いベテラン教師は涙を拭いた。


「こんな時だけど……自分のクラスの生徒が、三人も見つからないままで、この日を迎えてしまったけれど……今日は一日だけ忘れてしまいなさい。今日はあなたの素敵な日なんだから」

「有難うございます」


 頭を下げたが、内心はどうでもよかった。

 この日を迎えることが出来たと、ただ嬉しくて仕方がなかった。

 ……クラスの生徒、佐野理世に校内の礼拝堂に呼び出され、死体を発見した時は、文字通り正気が吹き飛んだ。


 前日に、理世からのいじめの訴えを退けていた。

 金子愛たちの三人グループに、いじめられていると理世は言った。

 それも仕方がない、おかしな子だった。


 悪魔を呼び出して使い魔にしているとか、自分の前世は中世のお姫様で、アンリエッタという名の前世の恋人が、生まれ変わった自分に会いに来たとか、バカバカしいことをクラスで吹聴し、しかも担任である自分まで、その話に巻き込もうとする子だった。


 それに、只でさえ忙しいクラス担任の仕事だけではなく、結婚が決まって準備や何かで、プライベートのスケジュールも殺人的だった。

 その上でクラスのいじめ問題? 自分のつまらない訴えで、教師がどれだけの仕事を抱え込む羽目になるのか、知っているのかこの生徒は?


 もしもいじめが発覚すれば、国のガイドラインに沿って学年主任に生徒指導に報告し、いちいち細かく指示を仰ぎながらクラスにアンケートをとっていじめの問題を調査し、当事者たちを呼んで事情を聴いて、その経過報告だの会議だのって……想像しただけで、頭が痛いどころか、手足までが千切れてしまう!


 和恵は、仕事が増えることを恐れた。

 だから、言ってやった。

 もう高校生にもなって、漫画の読みすぎみたいな、バカバカしいことを皆に言いふらしているから、金子さんたちに馬鹿にされるのよと、突き放したのだ。


 そうしたら、自殺した。


『先生のお気に入りの金子さんは、いじめとカンニングの常習者です。証拠を見せますから、礼拝堂に来てください』


 このメールで礼拝堂に呼び出され、死体を見せつけられた。

 愛がその場にいたことで、理世の目的を悟った。背中に氷の剣山が付きたてられた。

 これは、いじめの復讐だ。


 これが明るみになれば、自分の立場は崩壊だった。

 必ず新聞沙汰に、ニュースで報道されるだろう。いじめを見逃した教師として、ネットでとことん追い詰められる。素顔も経歴も住所も全て晒され、最低の教師は最低の人間だと、社会に糾弾される。

 せっかく決まった結婚も、ぶち壊した。


 職を失うばかりか、一生醜聞が付いて回る。結婚も恋愛も無理だ。

 その場にいた、元凶でもある金子愛に手伝わせ、当然後始末させた。

 元はといえば、いじめが悪い。第一、この生徒も気に入らない子だった。尊大で女王様みたいに振舞って、友達二人を崇拝者のように従えていた。その最悪な思い上がりが、この自分を巻き込んだのだ。


 死体を隠せば、次の邪魔は金子愛だった。

 自分は学校を辞めて、彼と共にロンドンだ。そのあと監視が出来ない。

 自分の目が行き届かない場所で、子供の感傷や罪悪感で、いじめと死体隠匿の告白を勝手にされてはたまらない。


 だから、殺して捨てた。腹が煮えくり返っていたから、同情もしないし可哀そうとも思わなかった。


 ――清坂知佳にしたって。


 いじめの告白も、何を今さら、だった。

 和恵にとっては、終わった事を蒸し返されるだけの話だった。

 悪魔がどうとか言っていたが、佐野理世も金子愛も、地下室で死んでいる人間はどうしたって生き返りやしない。


 死体を捨てたのが、礼拝堂の地下室だと、知佳がなぜ気が付いたかは分からない。

 だが、こうなっては仕方がないので、あの生徒も捨てた。叔母も一緒に。

 地下室の出入り口は、しっかりと錠前をかけた。あれなら出てくることは無い。

 清坂知佳の母親から、娘が金曜日から家に帰って来ないと土曜日の朝に学校に連絡があった。彼女の叔母とも連絡が取れない状態で、もしかしたら一緒かもしれないとも。


 自分の友達が次々と消えて、精神的に不安定な状態なこともあったから心配だ、どこかふらりと、仲の良い叔母と出かけているなら良いがと、彼女の母親は心配していたが、和恵は当然、居場所を教える気もない。

 閉じ込めた礼拝堂の地下室で、二人ともすでに窒息しているか、暗闇で気が狂っているか。


 工事が終わるまでに、いつかは地下室に手が入る。その時に死体が四つ見つかるわけだが、和恵にはどうでもよい事だった。

 目の前に嫌なことがあれば、その都度どこかにやってしまえばいい、放っておけば、その内に記憶は薄れて忘れてしまう。


 事実、厄介事も諍いも、今までそうやって曖昧にしてきた。時間がたてば物事は全て風化する。その内風が吹いて、散り散りに吹き飛ばされる。

 四つの死体が地下室で発見されても、その時はロンドンだった。手は遠い。


「ご新婦様はこちらへ」


 式場の係員が呼びに来た。

 美しいステンドグラスのドアの向こうは、光の世界だった。

 ガラス張りのチャペルは陽光を反射し、荘厳なパイプオルガンが、優美と祝福の音色を流す。荘厳と華麗が溶け合い、ダイヤのような光の粒が夫と和恵に降り注ぐ。

 神の前で永遠の愛を誓い、夫とキスを交わす。


 出席者たちの温かな目と、夫の愛情に満ちた目。善意と愛に包まれて、和恵は酔いしれた。

 チャペルのなかだけではなく、世界そのものが自分を愛し、祝福してくれる幸せに、和恵は涙を流す。

 夫と腕を組み、明るい外へ向かう。ライスシャワーと花々が降り注いだ。

 愛する家族や善良な人々の喜びの声を受け止めながら、白い階段を降りていく。


「綺麗よ、和恵!」

「おめでとう!」


 ブーケトス。花嫁から次の花嫁へ、つながる幸せのアイテムを待つ人々へ、和恵は顔を巡らせる。


 ふりまく笑顔が――凍り付いた。


 人々の中に、清坂知佳がいた。

 そして、その叔母が。


 新郎新婦が進む花道の脇に、参列者たちに交じって、地下室にいるはずの二人がいた。

 その姿は幽鬼だった。二人は呆然と周辺を見まわしている。そして……和恵を見た。


 目と目が合った。

 世界が暗転した。

 二人だけではなく、その横に愛もいた。そして、理世が立っていた。

 何故、と無声の悲鳴を上げた。


 間違いなく、殺したのに。

 あの、チャーチ椅子の固さが手に蘇り、愛の顔を砕いた感触が蘇る。

 首をくくっていた理恵の姿が蘇る。

 死んでいた、そして殺した。もう起き上がるはずがないものが、闇に封じ込めた死者が、陽光の中に躍り出て、和恵を食らおうと手を伸ばしている。


 絶叫を上げていた。

 参列者たちが動揺する。ブーケを振り回し、自分の前に現れた亡霊を追い払おうとする和恵へ、夫が手を伸ばし、誰かが和恵を羽交い絞めにした。


「はなせ、はなしてぇぇっ」


 愛と理世に向かって、消えろと叫んだ。知佳と叔母に向かい、来るなと怒鳴り、手を振り回す。


「かずえさんっどうしたの!」

「だれか、お医者さん呼んでぇ!」


 制止しようとする相手を振り払い、和恵は逃げた。

 ドレスの裾が脚に絡まった。ヒールを脱ぎ捨てて、恐怖だけを原動力にして駆ける。

 奇声を上げて、和恵は走った。ガーデンを抜ける。


 行き交う他の式の出席者が、見学者が、青ざめた顔で狂い走る花嫁を次々と避けた。

 理世が、愛が、自分を追ってくる。

 和恵は門から出た。


 目の前の車道を走ってきたダンプへ、和恵は躍り出た。

 世界が赤く潰れた。


 カラスが、街路樹の枝に止まっている。

 見下ろしているのは、下の車道だった。

 ダンプのタイヤに巻き込まれ、引き千切られた四肢が、泥と血に染まったウェディングドレスの布地にぶら下がるように揺れている。


 歩道は悲鳴と怒号で埋まっていた。

 突然、あの式場から飛び出してきて、走っているダンプに飛び込んだのだと、複数の目撃者たちが叫んでいる。


 ――呼び出されたいきさつはとにかく、悪くない収穫だとカラスは思った。

 そして式場の敷地で取り残され、呆然としている叔母と姪の二人の元へ飛んでいった。


 ――光星女子学院の礼拝堂の取り壊し工事中、行方不明になっていた女子生徒二人の遺体が地下室から発見されたのは、次の日の月曜日だった。

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