星色恋歌

影梅宗

第1話 花見坂上沙耶の場合

朝目が覚めると、またあの人の事を考えられる。私はそんなささやかな事が、とても嬉しいのだ。



◆ ◆ ◆



理由は、特に無かったのかも知れない。

電車に乗って駅三つだし、その気になれば自転車でも通える。お母さんは『別に良いんじゃない?』と、何ともアッケラカンな返答だったし、お父さんに至っては『宝塚にでも入りたいのか?』と方向違いな期待をしていた。


だから、特に理由は無かったのだ。


挑戦する子はまだ少ないと言っても、中学受験はもう一般的だったし、どうせダメでも地元の中学に通えば良い。

私自身もそんな呑気な、言って仕舞えば場違いな考えで中学受験に挑む事にしたのだ。


理由は別に無かったんだけど……。


あぁ、理由か。


そういえば、何かの機会に一度行った事があって、その時の校門に続く桜並木が、とても綺麗だったのを今でも覚えている。


理由なんて、そんなもので良いと思うんだ。


頭の出来は中の中だけれど、受験するとなればそれは受かりたかったし、単純に受かってみたかった。桜が綺麗だったからなんて理由で受験するにしても、それはお金を払ってする事だし、そのお金を出すのは私のお父さんでありお母さんだからだ。だから勉強を沢山したし、過去の問題集も解いたし、担任の先生にも相談した。

そうした色んなものをある程度積み重ねて受験に挑み、新しい学園での生活を始められる事となった。

だから、四月の入学式の日に初めて生徒として歩いた校門までの桜の並木道は、何というか、どう言ったものか……。


兎に角、とても綺麗だったのだ。


白海坂女学園。

初めてその学園の制服に袖を通して鏡を見たとき、首元に結ばれた真っ白なリボンが、何だかとても気恥ずかしかった。



◆ ◆ ◆



奥海おううみ桜子さくらこです。『おうみ』じゃなくて『おううみ』です。新入生組です。宜しくお願いします」

耳に届いたその声にリンと鳴る風鈴の様な澄んだ音色を感じたから、私は少しだけ伏せっていた顔を上げて、視線を彼女の方、奥海さんの方へと向けた。


自分がエスカレーター組とはいっても、中等部から高等部へ、最低限の進学テストのようなものはあった。

流石にソレを落とすような在校生は居なかったけれど、気を張らなければいけない時期であった事は間違い無く、そうして無事進学出来たところで今度はまた新しい環境での生活が始まる。

部活の本気度も変わり、生徒会の形態も変わり、クラスや科目や学科も変わる。

そうした高校一年目という節目に、この白海坂女学園にも新しい風が舞い込んで来るのだ。


新入生。


持ち上がり組ではなく、高校期から受験で入学してくる生徒。


中等部が6クラスだったのに対し、高等部では11クラスになる。

生徒数も大体2倍。

だから、生徒の役半分が持ち上がり組で、もう半分が新入生組なのだ。


正直、新しく交友関係を築くのはあまり得意じゃ無い。基本受け身な方なので、中等部の時も初めは友達作りに苦労した。

だから、エスカレーター式の白海坂は友達や知人が多く残るので安心はしていたのだけれど、やはりというか何というか、新しいクラスの半数が新入生組ならば、自己紹介という時間が設けられるのも、それは頷けるというものだ。


……正直、新しく交友関係を築くのは、あまり得意じゃ無い。


自己紹介も、言わずもがなだ……。


幸い出席番号は中盤以降。

考える時間は十二分にあった。

……その筈だったのに。

耳に届いたその音色は心地よく、向けた視線の先に居たのは、猫目がちで、背がスラっと高く、肩口までの綺麗なクリーム色の髪に、少し紅み掛かった頰が可愛くて……。

要するに、彼女は綺麗な女の子だった。

彼女の背景には桜色の光が差し、私の世界は何故だか虹色に煌めき出した。


「花見しゃか、はか……、は、花見坂上はなみさかうえ……沙耶さやです。よ、宜しくお願いします」


誰の所為という訳でも無いのだけれど、私は自己紹介で自分の名前を二度も噛んだ……。



◆ ◆ ◆



二日あれば席の周りの子とは仲良くなり、五日もあればクラスの子みんなと一言二言は交わした事になり、十日もあればそれなりのグループ分けも出来てくる。

グループとはいっても、白海坂は所謂お嬢様学校なので、あまりにもな不良の様な子はいないし成績も突出して下に抜きん出ている子もいない。

だから、単に気が合うだとか、部活が一緒だとか、家が近いとか、寮生とか、そういう単純な、言って仕舞えば『今日のお昼何処で食べる?』みたいなグループだ。

斯く言う私も、結局のところは中等部から仲の良かった二人と居る事が多いし、お昼を一緒に食べる事も多い。


「それで、沙耶は結局保健委員?」

「そうだよ。風紀委員と残ってたけど、だったら保健委員かなって。私も、保健室でお世話になる事、多分多いし」

保健委員が保健室にお世話になる事が多くなっちゃってあんまり良く無いけどねぇ……。

そう言って、春真ちゃんは苦笑いしながら肩を竦めて見せた。

「で、桃が図書委員ねぇ……」

言って、春真ちゃんが横目で視線に流すと、「そうだよ!似合ってるでしょ!」と桃ちゃんは快活な笑顔でそう返した。お昼ご飯なのに手に持つサンドイッチがクリームと苺のデザート系なのがなんとも桃ちゃんらしくある。

「桃は本とか読んだりしないでしょ?」

「んー、そうだね。あんまり読まないなぁ。本読むなら曲聴いたりしてるかも」

音楽委員とかあったらそっちやってたかもね!

そう言って可笑しそうに笑う桃ちゃんを見て、春真ちゃんはやっぱり肩を竦めてみせた。


晴れの日は中庭の花壇を囲む様に備え付けられているベンチでお昼ご飯を食べる事が多い。

お昼休みは大体そんな風に他愛の無い話ばかりをしているし、そんな他愛の無い話がとても楽しいのが女学生の素晴らしいところだ。中等部以降学内に男の子が居た事が無いので、こういう時間に男の子がどういう話をしているのかがなんとも想像つかない。それに、小学生の頃、男の子とどういう話をしていたかもトンと覚えていない。


例えば、昨日観たドラマに出てる誰々くんがカッコいいとか、雑誌で誰々ちゃんの着てたワンピースが可愛いとか、歌手の誰々ちゃんが可愛いとかカッコいいとか。あとはテスト範囲の話とか、あのクラスのナントカちゃんに他校の彼氏が出来たとか。


「そういえばさ――」

お昼ご飯も食べ終わり、お昼休みも折り返しとなったくらいの時間帯で、春真ちゃんは私に向かってそう話を切り出してきた。

首を傾げ、クエスチョンマークを浮かべる事で返事を返した私に、春真ちゃんは先の言いを続ける。

「最近奥海さん、沙耶の事見てるよね」

『奥海さん』という単語にビクリと少し身体が跳ね、『沙耶の事見てる』というワードでほのかに体温が上がるのを感じた。

どちらも春真ちゃんと桃ちゃんには気付かれていないと思うけれど、それでも少しばかりの動揺が滲み出てしまう様な気がして何だか落ち着かなかった。

「あー、それ私も感じた。こっち見てるなーって思ったら、多分あれサヤちゃんの事見てるよねー」

「そ、そーかなー?」

「「そーだよ?」」

二人の言いが綺麗に重なる。

私はというと、なんというか、そしてなんとなく、視線を二人の方に向けられなかった。


奥海さんが頻繁に私の方を見ている。


そんな事、とうに気が付いていた。


なんとなくその視線に気が付き出したのは、入学式から数えて五日目くらいの事。

私が奥海さんの視線に気付いて目を向けると、奥海さんはサッと目を逸らして何食わぬ顔でお友達との会話に戻るのだ。また違う機会では、私が奥海さんに視線を向けていると、それに気付いた奥海さんの視線がこちらに向けられ、やはり私も顔を背ける。


最近奥海さんとやたら目が合うなとは思っていたのだ。

そして、私もまた、奥海さんを意識して視線を送っている事に、自分自身で気が付いていた……。

入学式後の自己紹介以降、気にはなっているのに声を掛けられず、目を合わせる事も話し掛ける事も出来ない……。

新しい交友関係を作るのが苦手ではあるけれど、こんなにどうしようもない程だっただろうか……?


「――っ私は特にそんな感じはしなかっけど、それだったら、今度お話ししてみようかな」

私は嘘を吐いた。――けれど、奥海さんと話をしてみたいと思っているのは本当だ。

意識するだけで、異様に胸がざわつく……。

私にとって奥海さんとは、一体何なのだろうか?

奥海さんにとって私とは、一体何なのだろうか……?



◆ ◆ ◆



五限目が体育で、内容が体力測定というのは、昼食後の御身にとってはとてもじゃないが厳しい条件だったけれど、一週間前から告知はされてたし、クラスのみんなも別に忘れていた訳じゃあない。そもそも朝のクラス会でその有無は全員に伝わっている訳だし。

要するに、ただただこの体力測定という年に一回の順位付けと、体育という科目自体を私があまり好んでいないというだけの事なのだ。

座学はそこそこ好きだけれど、体育はあまり好きじゃない。足は遅いしバネも無く、球技の勘も全くと言っていい程。

本当に、この一点だけが本当に幸いなのは、この三年間冷やかしの目を向ける男の子が居なかったという事だけだ。その冷ややかな視線が無いだけでどんなに体育の時間に救われていた事か。

ともあれ、体力測定。

始まって仕舞えば大体どの種目でも、私は殆ど下の方。

測定種目は八種目で、時限内で好きに回っていい事になってる。

だから、結局ここでも私は春真ちゃん桃ちゃんと一緒に順繰りしていて、毎年の事ながら二人の運動センスに脱帽しながら自分のセンスと体力の無さにほとほと呆れているのだ。


「ごめーん、花見坂上さん居るー?」


そうして、丁度私が左の握力測定9㎏という驚異的な数字を叩き出したところで、そうやって声を掛けられた。

話を聞くと、どうやら立ち幅跳びで足をくじいた子がいるという。

私はもうこの握力測定で種目全てを回り終えていたし、足をくじいた子のグループではまだ種目が二つ残っているとの事だったので、保健委員の私に保健室までの同行として役目が回ってきた。


立ち幅跳びで足をくじく……。


そういえば、私も中等部の時にソレやったなぁ……。

そうやって自身の中等部時代を想起する。

走るとかの前段階が無いから、油断してるとそういう簡単そうに見える種目で思い掛けず怪我しちゃったりするんだよね。


そんな事を考えながら連れてこられたその場所には、奥海桜子さんが居た訳で、そして彼女は足をくじいていた訳で……。



◆ ◆ ◆



「……ご、ごめんね。こんな事で手間掛けさせちゃって」

「ううん、気にしないでよ。私もあったよ、中等部の時。立ち幅跳びで足をくじいて、同じ様に保健室まで連れてかれたし」

この言葉が彼女からこの件の責を解いてあげられるとは少しも思っていない。

話し掛けられたから言いを返す。

私は今、ただそれだけで精一杯なのだ。


グラウンドから保健室への道中。

私は奥海さんに肩を貸すというただそれだけの事に、あり得ないくらい緊張していた。

私より10㎝以上も背が高いだろう奥海さんに肩を貸すという、なんとも不恰好な見栄え。

ただ、側から見たらどう映るのかとか、そんな事などどうでも良かった。


奥海さんはいい匂いがした。

身体は細いのに、奥海さんは柔らかかった。


何というか、私は興奮していたのだ……。


顔が上気し赤くなっているのを感じる。

私の顔の横に奥海さんの顔があるというこの状況に、私の心臓は限界を超えて早鐘を打っていた。


「花見坂上さんは、もう種目全部終わったの?」

「――へっ?う、うん!」

掛けられた言葉に、私は上手く返事が出来ているだろうか??

そんな事すら、今は全く、何も分からず意識出来ない。

心臓が速い。


「私はあと握力と垂直跳びだけだったんだけど、ちょっと失敗しちゃったね……」

「運が悪かっただけだよ」

「そうかな?」

「そうだよ」


一言一言、奥海さんと会話を交わすのが心地良かった。

そして、雨音の様に静かで、波紋の様に大きく響き渡る奥海さんの声が、私の内側をざわつかせるのだ……。

本当に、よくある少女漫画の様だと思った。

ベタな展開にテンプレートの様な進み方。

しかし、少女漫画だと出会うのは男の子と女の子なのだ。

ここは白海坂女学園で、私は女の子だし、奥海さんも女の子なのだ……。


保健室に着くと、中では保険医の先生が何やら電話対応中だった。

室内に入った私達二人に気付き、手で『座って待ってて』みたいなジェスチャーを送り、デスクのメモ帳にペンを走らせる。

中等部の保健室には何度もお世話になっていたけれど、高等部の保健室に来るのは初めてだった。内装なんかは殆ど変わらないのだけれど、何処と無く落ち着いた雰囲気や、カーテンやシーツなんかの白さを感じる。これは高等部に進学した私の贔屓目でもあるだろう。


「やあ、ごめんごめん。待たせて悪かったね」

言葉ではそう発するが、表情は特に悪びれた様子も無く、保険医の先生は手の平をヒラヒラと振って薄く笑んだ。

白衣の下は襟付きの白シャツで、下は黒のパンツスタイル。背中まで伸びる黒髪を一本に束ねた彼女には、アンダーリムの赤メガネが良く似合っていた。


「で、怪我人? 病人? はどっちさんかな?」


完全に保険医先生は私の方に視線を向けてそう言ったのだけれど、奥海さんがその問いに手を挙げて応じると、保険医先生は「ふぅん?」と不思議そうに首を傾げて、「うん、まぁいいや」といった具合に、奥海さんを手招きしてデスク前の丸椅子に座らせた。私もなんとなくそれについて行き、奥海さんの横に立ち位で話を聞いた。


「怪我人? 病人?」

「あー……、怪我人です」

「何処で如何してどういう怪我を?」

奥海さんが一連の経緯を説明すると、保険医先生はやはり「ふぅん」と首を傾げ、「それで、保健委員の貴女が一緒に来てくれたと?」と、今度は私に言いを向けて来る。

問われ、私は「そうです」と首肯した。

「まぁいいわ。若いんだから湿布でも貼っときゃ治るでしょ。問題無い問題無い」

言って、保険医先生は奥海さんの足首にペタっと湿布を貼り付けると、「ちょっと私来客があるからもう出なきゃいけないのよ」と白衣をハンガーに掛けて手早くロングの髪をアップに仕上げた。恐らく、さっきの電話の内容はその件についての事だったのだろう。


「休みたかったら休んでっても良いし、大丈夫なら戻っても良いからね」


保険医先生は奥海さんにそう言うと、私に向けて「そんじゃ、その娘よろしく」と足早に保健室を後にする。


残ったのは、私と奥海さんの二人だけ。


………………。


意識、するなとは少しばっかり無理があった……。


数瞬だけの沈黙が流れ、それに耐えられなくなったのは私の方。


「……足、大丈夫そう?」

「……うん、無理しなければ大丈夫そうだよ」


会話は続かなかった。

何を話題にして良いのかが分からない。

例えば、奥海さんは何が好きなんだろうか? 好きな教科は? 好きな歌は? 本は? 俳優は? アイドルは? そんなソレ等を知っていれば話題にも事欠かないのだろうけれど、今ソレを問うのがタイミングとして適切なのだろうか? きっと今後、私が奥海さんと話をするだろう機会があれば、きっとそういう話をするタイミングもある筈だ。だから、多分、今は恐らく、ソレをどうこうするタイミングでは無いと思う。仮にも授業中だし、奥海さんは怪我人だし、少しこの場で休ませてあげた方が、それで、私は授業に戻った方が――。


「……じ、じゃあ、私は授業に戻るね。奥海さんは少し休んで――」

言いながら私は保健室を出ようと、歩を進めようとするのだけれど……。

そこで、運動用のジャージの裾を掴まれた。


え……?


漏れ出たその声は、私のものだったと思う。


何で? 何で私を引き止めるの?

何で…………。



「……行っちゃうの?」



「…………え?」



行っちゃうの?

その奥海さんの言葉に、私は奥海さんの表情を見やった。

そう言えば、此処に来るまで私は奥海さんの顔を直視する事が出来ていなかった。

近いし、良い匂いがするし、私の顔が赤くなっているのを見られるのが恥ずかしかったから……。


奥海さん……。

何でそんな悲しそうな顔をするの……?

耳まで顔を赤くして、何で私にそんな事を言うの……?

長い睫毛。

大きな瞳。

綺麗な形の鼻。

紅い唇。



奥海さんの顔を見るただけで、自分の顔がますます赤くなっていくのが分かる。


……心臓が――。

……心臓が破裂してしまいそうな。



「……行っちゃうの?」

「……だって、だって授業が――」


授業なんていうのは所詮建前だ。

このまま此処にいたら、一歩二歩と何かを踏み出してしまいそうな気がしたから……。

それを望んでいるとか望んでいないとかではなく、私も奥海さんも去年まで中学生だった訳だし、まだ15歳な訳だし。早い遅いで言えばまだ早い訳で。


……ただ、早い遅いという表現こそある癖に、何故そういう事に関しては『丁度良い』というタイミングが無いのだろうかと思わなくも無い。

もし仮に、私が奥海さんに好きな教科とか本とか、歌とか俳優とかアイドルとか、そういう事を聞くのにさっきの場面が『丁度良い』タイミングだったとしたら……。




◆ ◆ ◆




私は奥海さんにキスされた。


『授業が――』と、そう言い淀んだ私は、スッと立ち上がった奥海さんに対峙されてキスされてしまった。

押し退けようと肩を押しても、両の手首を掴まれて力で制されてしまう。


何秒経ったか分からない。

10秒だったのか30秒だったのか、それとも1分くらいそうしていたのか。

程なくして唇が離されても、私は数瞬意識が飛んでいた。

思考が回ると、眼前には奥海さんが顔を真っ赤にして私に視線を合わせてくる。


「……なん、で……?」

「……嫌だった?」

気持ち悪い? 私の事嫌いになる?


そう問うてきた奥海さんが悲しそうな顔をする。私は今、どんな表情をしているのだろうか?

だから私は、その問いにどう返して良いか分からない……。


…………心臓、心臓が痛い。

早鐘を打ち過ぎて破裂しそうになってる。


悲しそうな奥海さん。

困った顔の奥海さん。

顔を赤くした奥海さん。

可愛い。

良い匂い。

抱き締めたい。

抱き締めたらどんな顔をするだろうか?

私からキスしたら、一体どんな表情を見せてくれるだろうか……?

私から…………。

私が…………。

…………。



「――だっ、ダメだよ。……こんなの、良く無いよ……、こんなの…………」


私は奥海さんから逃れようとした。

掴まれている手首を振り払う様に、少し強目の語調で……。

だけど、奥海さんは離してくれない。

強く手首を掴まれているけれど、痛くは無い。

そういう掴み方……。



「……嫌だった? 私の事嫌いになる?」


再びそう問われると、奥海さんの目には少しずつ涙がたまり始めた。あとどれ位で決壊するか計り知れない涙の粒。潤んだ瞳が私に向けられ、私はまた自身の心臓が早くなるのを自覚した。


「……嫌いには、ならないよ。……だけど、こういうのは良くないよ……。私達には、まだ早過ぎるよ……」


「じゃあいつなら良いの……?」


「……え?」


「いつなら丁度良いの……?」


「……そ、それはーー」


「早い遅いって、誰が決めてるのかな……?」


そこまで言われ、私は奥海さんに後方のベッドへと押し倒された。

力で敵うはずもない。されるがまま、私は押し倒されたベッドの上で両の手首を押さえ付けられて、自由を奪われる。

洗い立てのシーツの匂いがする。

あと、保健室独特の、薬品っぽい匂い。


それと、甘い、女の子の匂いが……。



「奥海さん、足、大丈夫なの?」


「……ごめんね、あれ嘘なんだ」



…………なぁんだ。


怪我した女の子は居なかったし、立ち幅跳びで足を捻ったのも私だけだ。


それなら良かった。


奥海さんに怪我が無くて、本当に良かった……。

奥海さんの足が傷付いていなくて良かった。


奥海さんの……。


奥海さんが……。


奥海さんに……。



今度は……。

今度は私から奥海さんにキスをした。


先程とは違う、唇が触れるか触れないか程度の、そんなほんの刹那的な口付け。


「奥海さんに、怪我が無くて良かった……。本当に……」


私の頬を伝ったのは、奥海さんの涙だった。

上方から溢れ出る奥海さんの涙が止めどなく私の頬を濡らしていく。


「私、花見坂上さんが好きなの。一緒にお話ししたい。一緒にデートしたい。抱き締めたい……。花見坂上さんに、キスしたいの……」



奥海桜子さん。

猫目がちで、背がスラっと高く、肩口までの綺麗なクリーム色の髪に、少し紅み掛かった頰の、とても綺麗で、可愛い女の子。


彼女は、私の事が好きだと言った。


……あぁ、なんて愛おしいんだろう。

今世界が滅んでも、私は奥海さんと二人で生きていられるなら、何も要らないとさえ思えてしまっている。


だからきっと、私もそうなのだろう。




そっか……。

そうなんだよね……。




「早い遅いは、もう自分で決めなきゃいけない歳だよね……」


それに――。

誰を好いているかも、自分で分かる歳なんだよね……。




私もきっと……。

私も、奥海さんが好き……。

私も奥海さんが好き。




「……私も、奥海さんが、好き」



笑って? 奥海さん。

私、貴女の笑顔が見たいよ。



「……だから、来て」



ここで、


私に、


キスして?




奥海さんの唇の柔らかさ。

今度はちゃんと分かる。

温かさが分かる。


……あぁ、好き。


奥海さんが好きだ。


「私、奥海さんが好きよ」

私の顔はきっと紅い。

それはもう見なくても分かる。


だって――。


「私も、花見坂上さんが好き」

そう言った奥海さんの顔が紅かったから。



五限目が終わるまであと何分?



十分? それとも、五分?



どちらでも良いし、残りが何分でも良い。




五限目の終礼が鳴るまで、私は奥海さんとここでこうしているだけだから。





花見坂上沙耶。


高等部に進学したその年の春、私は女の子に恋をした。


一目惚れだった。





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