白と黒の境界線

霜弐谷鴇

第一章 雪降る街のカゲ

 

序章

「野仲! そっち行ったで!!」


 古びた校舎の廊下で声が反響する。その向かう先の少年——野仲恭平のなかきょうへいは響く声に反応し振り返ると、一瞬ぐっと身を固めてしまう。


 夜の闇の中、窓から差し込む月光を掻い潜るように、妖しく光る双眸が上下しながら迫ってきていたからだ。


 野仲はいまや見慣れたその姿に、なおも恐怖を感じてしまう。それほどの異形、怪奇な存在だった。


 月光に照らされて露わになったのは、鼠の頭部を持った化け物。猪ほどの体躯を四足で強く蹴り出し、飛び跳ねるように駆けてくる。一本一本が鋭利な、針のような灰色の毛をなびかせている。


窮鼠きゅうそ

 ——この化け物はそう呼ばれる、妖怪やモノノケなどと呼ばれる類の存在であり、一括りにあやかしと総称される。窮鼠はその中でも低級に分類される妖だ。古い家屋に住み着き、訪れた人間を喰らうといわれているが、真偽含めて明確な出自はわかっていない。


「止めろ、赤獅子あかじし!」


 こわばった身体に鞭を打つように野仲が叫ぶ、と同時に野仲の足元に炎が走った。炎は野仲の背後から一直線に窮鼠へ向かって突き進み飛びかかる。


 次の瞬間には、炎を纏った獅子が窮鼠の首元に食らいつき組み付いていた。大型犬ほどの大きさの獅子が、猪ほどの窮鼠を押さえ込んでいる。


『式神 ”赤獅子”』

 ——野仲が使役する式神の一体だ。その姿はまさしく獅子で、揺らめく赤色と橙色の炎をたてがみのように首周りに携え、尾の先にも同様の炎が灯る。サイズこそ獅子と比べると小さいが、白く鋭い牙や爪は遜色ない。


「そのまま食いちぎれ!!」


 野仲が拳を握りしめながら赤獅子に命じると、赤獅子は呼応するようにグルル

と唸り、歯をさらに剥き出しにした。窮鼠は何とか逃れようと暴れるが、組み付き四肢の爪を食い込ませた赤獅子が自由を許さない。


「ギュウウウウウウ!!!!!!」


 窮鼠は体を激しくバタつかせながら絶叫すると、そのままぐったりと力尽きた。赤獅子が食いついていた牙や爪を離し一歩後ろに下がると、ゆっくりと窮鼠の体が瓦解し始めた。


 窮鼠の体が徐々に透けて薄れ、やがてそこには黒い霧のようなモヤだけが残った。


 野仲はふぅと息を漏らすと、力を抜いてどすんとその場に座り込んだ。


「赤獅子、ご苦労様」


 野仲の言葉を聞いた赤獅子はグルと唸ると、その姿を変えて一枚の紙切れ——式札へと戻り、冷たい廊下の床にひらりと落ちた。


 野仲は式札を手に取ると、こわばった身体をほぐしながら先ほどの声の主である少女に向かって、「終わったよ、のどか」と声をかけた。


「おぉ~う、上出来や上出来や。少し期間空いとったから腕鈍ったかおもたけど、相変わらず普通にこなしよるなホンマ」


 暗くて顔も見えないのにニヤケ顔なのがわかるな、と思いながら野仲は近づいてくる少女——立花和たちばなのどかに無言で視線だけ向けた。和が一歩、また一歩と近づくと、やがて月明かりが彼女を照らした。


 日本人形を彷彿とさせるおかっぱ頭の黒髪が艶やかに光を反射している。黒髪の下の白い陶器のような顔には、ひときわ目を引く大きな瞳が輝いていた。彼女が転校してきた日の、男子生徒諸君のざわめきを野仲の耳はよく覚えている。


 まぁその後の自己紹介でとんでもない静寂に包まれたんだけどね、と野仲は下を向いて口角を上げた。野仲の思い出し笑いに気づくことなく、和は野仲の数歩手前でポケットから小瓶のような小さな壺を取り出した。


「ほな回収するで、お疲れさん」


 和が壺の栓を抜くと、キュポンという軽快な音が響いた。と同時に、漂っていた黒い霧のようなモヤが壺へと吸い込まれていく。野仲にとってはこの行為も、すっかり見慣れたものになった。


「今日は久々やったし、こんなもんでええやろ。ほな帰るで、いつまで座っとんねん。あぁ~ごっつさむ」


「あれ、まだそんなに祓ってないけどいいのか?」


「ええねん、今日は野仲を慣らすんが目的やからな。さっきの感じやったら十分慣れたやろ」


「いや妖を見慣れはしたけど、慣れはしないよ全くもってこれっぽっちも」


 野仲の反論は無視して、和は「さむ~」とぶつぶつ言いながら歩を進めた。


 和が慣れたと思ったのだったら、そう見えたのなら慣れたのだろう、そう思おう。諦め半分に思考を止めて野仲は冷たい廊下の床に手をつき立ち上がった。


 窓の外には月光を反射する白い雪が見える。季節外れの雪。五月中旬にもかかわらず降り始めた雪は、溶けることなく地面を隠していた。



 現実のものとは思えない異形、妖。その妖を祓うことを生業としている和たち陰陽師。その世界に足を踏み入れた日から、野仲の日常は普通ではなくなった。


 誰よりも普通で平均的という呪縛から逸することの出来ない、中の中のそのまた中の人間である野仲恭平は今、異常の中を生きていた。

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