第4話 あの日の記憶

 体中傷の手当てが目立つ中、私は翌日も休むことなく学校に向かった。

 普段から任務の次の日は、何もなかったかのように学校に行っていたのだが、今日学校に行くのには一つ明確な理由があった。

 それは、押水に言われたことを実行するためである。

 月白ともう一度ゆっくり話すため、あえて放課後の時間を選択した私は、授業終わりに彼のいる教室へと向かった。

 教室の小窓からそっと覗くと、他の生徒たちが帰っていく中、一人で気にせず勉強している月白の姿を見つけた。

 私の視線に気づいた彼は、とても驚いた顔を浮かべた。その後周りを見渡し、彼は二度手招きした。

 気づけば他の生徒たちはみな帰ってしまっていたので、私は特に躊躇することなく教室に入る。


「どうしたの? 梅沢さん」


 彼は勉強を中断して、ちゃんと私の方を見て尋ねた。


「話したいことがあって」

「そっか」


 あの気まずい別れ以来の会のためか、ぎこちない会話だった。

 月白は突然、窓の外に視線を逸らしてボソッと呟いた。


「仕事、大変だったんだね」


 その言葉でハッとさせられた。彼が目を逸らしたのは、顔や手ににいくつも貼っている絆創膏を見たからだろう。

 暗殺課を辞めて欲しい彼にとって私のこの傷は見たくないものだから。


「昨日、ニュース見たよ。何万人もの命を救ったんだってね。すごいと思う」


 その言葉とは真逆の沈んだ声から、私は彼がそう感じているとは思えなかった。

 昨日の事件は大々的に報じられ、暗殺課によって死者を出さずに解決したことで、世間からは称賛の声が聞かれた。

 その『暗殺課』というのが、『私』を指していることを知っているのは月白だけ。だから、ニュースを見てマイナスな気持ちを抱いたのは、きっと月白だけだろう。


「でもこんな傷を負った。一歩間違えれば死んでたかもしれない」


 そのことには一切否定できなかった。なぜなら、押水がいなかったら、あの時の賭けに負けていたなら、こんな傷どころではなく今ここにいなかったからだ。


「あの日から、気持ちは変わってないよ。梅沢さんには暗殺課をやってほしくない」

「月白君の気持ちは知ってる」

「じゃあなんであんな危険なことを!」


 感情とともに大きくなった声。月白の目は潤んでいた。

 辞めて欲しい彼の前でこうして傷だらけの状態で立っていること。それは彼に対する裏切り行為であり、彼がこうやって感情を剝き出しにするのも無理はなかった。


「分かってるけど、私には私なりの理由がある。だから今は辞めるわけにはいかない」

「どうして……」


 それでも暗殺課として求められている限り、私は辞めるつもりはない。

 それは今後も月白の想いを裏切り続けることであり、だからこそ告白を受けたあの日、彼から離れるように去った。

 でも、それはもう間違っていると思うようになった。


「だからといって、私は月白君と縁を切ったりするつもりはないよ」

「え?」


 私は好きという感情が良く分からないし、彼の告白に応えることはできない。それでも、彼は、私が傷ついた時に最も心配してくれる大切な人だと思った。


「私が今日話に来たのは、私たちがどういう関係なのかはっきりさせたいと思ったから。こんな微妙な関係だと、どう接していいのかも分からないから……」

「過去の知り合い、なんて中途半端な言葉だけじゃ表しきれないほど、俺たちの関係って複雑だからね……」


 知り合いとは言え、ついこの間まで彼と出会った記憶がなかった。それに告白を受けて私が断ったのに、今こうして二人きりの時間を過ごしている。

 私たちはかなり特殊な関係で、一言ではとても表すことができない。


「そうだ。梅沢さんって、学校祭の日のことあんまり覚えていないって言ってたよね?」

「あ、うん……」


 告白を受けた日、少し記憶が戻ったが、その時の情景も細かい記憶も依然抜け落ちたままだった。


「せっかくだから梅沢さんの通っていた中学校、行ってみない? 何か思い出すことあるかもしれないし」

「それはそうかもしれないけど……」

「けど?」

「勉強はしなくていいの?」


 今日は昨日の任務で負った傷を癒すため、暗殺課の仕事は休み。そのためきょうの放課後にはこの予定以外はなかったのだが、先程まで勉強していた月白の時間を潰してしまうことになることが、少し心の中で引っかかっていた。


「うん。今は自己満足でやっているところだから、別に今やらなくてもいいんだよね。どうせ家に帰ってからもやるし、気にしないで」


 彼はそう言って微笑みながら、机の上の勉強道具をしまい始めた。


「それじゃあ行こうか」


 こうして私と月白は、初めて会った思い出の地に向かうことになった。



* * *



 今通っている高校からは少し離れた、私の母校の中学校までは徒歩二十分。


「そう言えば梅沢さん、群れたりするの嫌いだって言ってたよね?」

「うん」


 月白に告白された日、私がそう言っていたことを思い出す。


「実は俺も、あんまり群れたりするの好きじゃないんだよね」

「そうなの?」


 授業合間や昼休み。いつも彼の周りにはたくさんの人が集まっていた。

 そんな彼を知っているから、その言葉は意外だった。

 もしかしたらあれは、彼がそうしたいから集まっているのではなく、勝手に集まってきているだけなのかもしれない。


「自分と話が合ったり、一緒にいて心地よい人って小さな集団にはごく少数しかいないと思う。そのごく少数の人とだけ一緒にいたい俺にとっては、あんな風にグループをつくるのは性に合わないんだよね」


 月白の考え方は、私の考え方とピタリと重なっていた。


「私も同じ理由だよ。他人に合わせることで成り立つような関係性に、私は意味を感じない」

「当時、梅沢さんがそんな風に言ってたのを聞いて、ようやく一緒にいたいと思える人が見つかったから、すごく嬉しかったんだよ」


 月白は少し照れ臭そうにそう言った。

 彼が私に好意を持った大きな要因はきっとそこにあるのだろう。一緒にいて心地よいと思える数少ない存在。それが私だった。

 私と同じ価値観を持つ人が月白ただ一人だったように、世の中に価値観が綺麗に重なる人などほぼいないに等しい。再度認識させられるが、やはり群れるという行動は無意味だ。


「だけどあの日以来、何度か梅沢さんに会おうと思って学校を尋ねたけど、何回行ってももう帰ったって言われてさ」


 私たちが出会った学校祭の後に、暗殺課の仕事を始めることになった私は、いつもよりも急いで帰るようになっていた。そのため、月白が学校が終わってから私の中学校を尋ねても、そこに私が居ないのは必然だった。


「結局中学卒業まで一度も会うことができなくて、このまま二度と会うことができないと思ってた。でもそこで奇跡が起こったかのように同じ高校になった。あの時は本当に嬉しかったよ」

「ごめんね。中学の時は避けてたわけじゃなくて……」

「暗殺課の仕事でしょ? あの当時は知らなかったけど、今ならそうだと分かるよ」

「何回も来てたのは、周りの人が噂してたりしてたから知ってた。でも当時は入りたてってこともあって余裕がなかったんだ。今更謝っても遅いけど、本当にごめんなさい」


 少しずつ蘇る記憶の中に、その当時のものがあった。

 朽木の助言で学校に戻った私は、休み時間中は誰とも話すことなく読書をして時間を潰していた。

 ある日の休み時間、周りにいた女子グループの中で、私を尋ねてやってくる他校の男子生徒の話題が持ち上がっていた。本当にすぐ近くで話していて、一言一句聞き逃すことなく聞いていたので、他校の男子生徒が尋ねて来ていたことは知っていた。

 でもその時、私は暗殺課で訓練を重ねる日々。そのことを気にする余裕もなく、私は次第に他のことへ脳のリソースを割かないようになっていった。

 おそらく私が記憶を無くした直接的な原因はここにあったのだと、今は思う。


「梅沢さんの言う通り今更だよ? だから気にしないでよ」


 月白はニコッと笑って私を気を遣った。  

 私の通っていた中学から他の中学までは少し距離がある。そんな中で学校終わりに急いで駆けつけてくれていたのだ。

 それなのに目的を果たせず来た道を引き返していたのだと思うと、申し訳なさで頭が上がらなかった。



 気付けば、段々と中学校が近づいてきた。

 つい数か月前まで通っていたというのに、随分と懐かしく感じる校舎や周りの景色。

 でも、私と彼が初めて会ったのは二年も前のこと。実際に現場に来たからといって、すぐに思い出せるとは思えない、というのが正直なところだ。


「ここは俺にとっても思い出の場所だなぁ」


 月白も私と同じように過去の記憶に浸りながら周りを見渡した。

 二年前の学校祭。私はその頃の思い出を全て掘り起こすべく、必死に記憶を遡ることにした。



* * *



「いらっしゃいませー」


 二年前の十一月一日。

 私は校庭に並べられたテントの下で、与えられた仕事を始めた。

 メニューは出店と言えばの焼きそばやお好み焼きなどで、作る役割と売る役割に分かれて仕事をする予定になっていた。

 しかし、私の仕事をする時間帯に料理を担当するはずだった生徒は風邪のために欠席。代理を頼もうにもその当てがなかった私は、『どうせそんなに人は来ないだろう』と高をくくって一人でこなすことにした。

 学校祭が始まって三十分ほどは時間帯が朝ということもあって、予想していた通り客はまばら。問題なく客をさばくことができていたのだが、段々と注文する客が増えていき、作るスピードよりも客の増えるスピードの方が速くなってしまった。

 それでも幸いなことに、私が担当する時間は学校祭開始から一時間で、気付けば交代する時間に近づいていた。次の担当が来るまでは一切休まずに働こうと思い、できる限りの速度で働き続けた。

 次の担当を待つこと二十分。交代の時間になってからは十五分ほど経過している。

 もしかしたら、次の担当者が遅刻しているだけかもしれないと思って仕事を続けていたが、一つ思い当たる節があった。

 次の担当者がクラスの中で一番強いとみられるグループの人たちであることから、わざとサボっているのではないかと私は思ったのである。そしてその真偽は、思わぬ形で発覚してしまった。


「すいませ~ん。焼きそば五つくださ~い」


 間延びした声でそう言ったのはただの客ではなく、本来交代するはずのクラスメイトだった。それも終始にやけた様子で、私は意図的にやっているのだなとすぐに気づいた。


「……あの、交代の時間過ぎてますけど」


 何も言わずに我慢するのが最も穏便に済ませる方法だったが、わざわざ気分を害するような行動をとったことに腹が立ち、ボソッと口にしていた。

 するとさっきまでのにやけ面はスッと引いていき、見下すような目線でこう言った。


「どうせあんたはすることないんだから、そうやって店番してたらいいよ。私たちは回るところいっぱいあって忙しいからさ。そういうことだから、店番よろしく」


 そう言って代金を投げるようにしてばらまき、作り置きしていた焼きそばを勝手に掴んで持ち去っていった。

 この異様な光景が原因で、重苦しい空気が辺りを覆った。それでも私はこれ以上言及することもなく、すぐに冷静さを取り戻した。

 店にはたくさん客が並んでいたため、このまま仕事を止めているわけにもいかない。私は一度深呼吸をして、机に散乱したお金を拾い集めた。そして空気を切り裂くよう、


「いらっしゃいませ」


 と掛け声を放ち、仕事を再開した。

 そうして仕事を続けること約二時間が経過した。次の担当もその次の担当もさっきの女子生徒がいるグループの人間だったこともあり、私は依然として仕事を続けていた。

 次の担当からは全く関係のない別の人だからと、なんとか希望を持ち仕事を続けていた。だが、ずっと熱い鉄板の近くにいることもあり、疲労はピークに達しようとしていた。

 そんな時、ある一人の客がやってきた。

 すらっとした体形に、子供っぽいあどけなさと大人っぽさをかけ持った笑顔を浮かべたその学生客。来ている制服は別の中学のものだった。


「すいません、ちょっといいですか?」


 その学生客が……。



「月白君だったんだね……」


 私は目の前に広がる景色と過去の記憶を重ねることで、遂に過去に出会っていた男の子が彼だったことを思い出すことができた。


「うん、そうだよ。連れてきてよかった」


 月白はあの時と同じように優しく微笑んで見せた。



「君、ずっと一人でやってるけど大丈夫?」


 薄っすらと残ったお客さんの顔の記憶から、彼が開店直後に一度来てくれていたことを思い出す。


「大丈夫ですよ」


 私はお客さんに、それも他校生に心配されるようなことはしたくないという思いから、取り繕ってみせた。でもそんな表面だけの嘘は、彼に通じなかった。


「他の人たちは?」


 事情を雰囲気で察した彼は真面目なトーンで問う。


「私に仕事を押し付けて、遊びに行ってしまって……」


 ここで嘘をついても意味がないと悟った私は、嘘偽りなくありのままの事実を述べた。

 すると少し怒りの感情を垣間見せた彼だったが、すぐに平静を取り戻して笑顔を浮かべた。


「もしよかったら、手伝わせてもらってもいいかな?」


 その予想だにしない言葉に、私は言葉を失った。

 同じ学校の人、同じクラスの人ですら見て見ぬふりをしていたのに、他校生の彼がどうしてそんなことを言ってくれるのかと、不思議で仕方がなかった。


「でもせっかくうちの中学に遊びに来たんですし、楽しんできてください。そのお気持ちだけはありがたく受け取らせていただきますが、他校生に手伝わせるわけには……」


 体的にも精神的にも限界の近い中でも、私は彼に手伝わせるわけにはいかないという冷静な判断ができていた。

 その言葉を聞いた彼は、再び笑って言った。


「それなら安心してよ。一緒に来てたやつら、もう十分堪能したって言うから帰っちゃったんだよ。だから時間はたっぷりあるんだ」


 そこまで大きな規模で学校祭をやっているわけではない。あくまで中学校の学校祭だ。三時間ほどあれば十分に回り切れるだろう。

 でもそれなら、なぜ彼は一緒に帰らなかったのだろうか。


「それに他校生なんて関係ないよ。道端に困っている人が居たら、他人だから助けないって言ってるのと同じだよ?」


 その彼の言葉を聞いて、妙に納得してしまった。だから、制服の上着を脱ぎながらテントの下に入る彼を止めることができなかった。


「何すればいい?」

「それならレジの方を……」


 手伝ってくれるとしても、調理という重要な仕事を任せるわけにはいかない。だから私はそう言ったのだが、彼は頷かなかった。


「その手、火傷しているんじゃないか?」


 彼の目線の先には、私の右手があった。その右手は疲労が蓄積したことが原因で集中力を欠き、何度か鉄板に触れてしまったために赤くなっていた。火傷の処置をしようにも抜けられる状況ではなく、ヒリヒリと強い痛みが走りながらも我慢して仕事を続けていた。


「その火傷がある限りは、調理の方は任せられない。俺が調理をするから、君は客の方を頼むよ」

「……分かりました」


 私は渋々その指示を受け入れ、目の前に並ぶ客を捌くことに専念することにした。


「メニューだけ言ってもらっていいかな? あとはアドリブでなんとかするから」

「『アドリブで』って、それで任せてしまってもいいんですか?」

「うん。こう見えて料理するのは結構好きだし、ついこの前の文化祭でも担当だったからなんとかなるよ」

「分かりました。お願いします」

「うん。任せて!」


 こうして私たちは、二人で仕事を再開した。



* * *



 午後十二時前。最も忙しい時間だったが、彼がは入ってくれたおかげでなんとか客を捌くことができていた。そして時間的に、そろそろ次の担当が来るはずだ。

 最後の力を振り絞り、迎えた交代時刻三分前。次の担当の男子生徒が二人やってきた。


「交代の時間です」


 そのうちの一人が私のところにやってきてそう言った。


「ありがとうございま……」

「あのさ……」


 私は素直にお礼を言おうとした。ここまでの担当者には悉く仕事を押し付けられてきたので、取り決め通りに交代してくれるだけでも十分にありがたかった。

 でも、月白からはそんな気持ちなど微塵も感じない。


「どうして……。どうして女の子一人に四時間も仕事をさせたんだ!」


 容赦のない怒号がテント内に響き渡る。当然、この声で周りの人たちの視線は私たちのいるテントに集まった。


「それは……」

「どうせ見て見ぬふりをしていたんだろ? クラスメイトならどうして助けようとしないんだよ。女子だから? 関わりのない生徒だから? ふざけるな!」


 月白の言葉の一言一言に、強い感情がこめられているのが伝わってくる。当然、それは私だけでなく周りの人たちも同じだったのだろう。店の仕事が止まっているにも関わらず、誰一人として文句を言うものはいなかった。


「これだから……」


 月白はまだ何か言いたそうだったが、その言葉は言わずに押し留めた。

 そして仕事を手伝う前に脱いだ制服を手に持つと、もう片方の手で私の腕を掴んだ。


「行こう」


 彼はそう言って私をテントの下から連れ出した。


「行くってどこに?」

「その手の手当て」


 私は前を歩く彼に連れられ、この場を後にした。去り際、ちらっと見えた先ほどの男子生徒は申し訳なさそうに下を俯いていた。

 私は彼らが悪いとは思っていないし、月白も特別悪いと思っているわけではないと思う。でもこうして彼らに向かっていったのは、自分よりも少なからず近い存在であったにも関わらず、なぜ手を差し伸べなかったのか、という行き場のない怒りの感情があったからなのではないだろうか。真意は分からないが、そんな気がした。

 月白に連れられてやってきたのは学校の保健室だった。肝心の保健の先生はどうやら仕事に出ているようで、この場所には姿がなかった。

 彼は適当に辺りを見渡すと、冷蔵庫から飲み物を取り出す。


「これ、飲んで」

「え、でも……」

「ずっとあの環境で休憩もせずに働いてたよね。だから今はこれを飲んでよ」


 彼がこの飲み物を出したのは保健室の冷蔵庫からだ。所謂経口補水液と言われるものだが、

先生の許可を得ずに飲むのは気が引けた。


「説明とか責任とか、そういう細かいことは全部俺に任せてよ」

「……分かりました」


 私は彼の言う通りにして、飲み物を口にした。


「甘い……」

「やっぱりそうだったんだね」

「え?」

「経口補水液って、健康な人が飲むと少ししょっぱく感じるはずなんだ。それを甘く感じるってことは、度合いはともかく、脱水症状を起こしてたってことだよ。ここで少し休んだ方がいいよ」


 彼はそう言うと、乾いたタオルと冷凍庫から冷却枕を取り出して私に手渡した。


「あと、これで患部を冷やすと少しは痛みが和らぐと思う。もし冷たすぎたら、そのタオルの上から冷やすといいよ」

「ありがとうございます」


 私はお礼を言って、タオルと冷却枕を受け取り、すぐに患部に当てた。すると、冷たさによって、ズキズキとする痛みが緩和された。


「ほんとどうかしてるよ……」


 月白は窓の外で楽しそうにしている生徒たちを眺めながらそう呟く。


「あの……」

「どうしたの?」

「さっき、何か言おうとしてませんでしたか?」

「さっき? ……あぁ、あれか」


 何か言いたそうだったのに言わなかった先ほどの言葉の続きが、私はとても気になっていた。


「こういう学校とかで群れてるやつって、変なプライドあるのか知らないけど、他人より身内ばかり優先するんだ。俺はそんな奴が大っ嫌いだって言おうとしたけど、さすがにあの場で言うのは気が引けたんだよ」

「私もそういうのは嫌いです。私に仕事を押し付けてきた人たちは、クラス内で最もヒエラルキーの高い女子の集まりでした」

「……。ほんと、嫌になるよね……」


 月白は一度大きくため息をつくと、こちら側に振り向き壁に背中を預け、天井を見上げた。


「あのさ」

「はい」

「もしよかったら、昼から一緒に回ろうよ」

「えっ……」


 私は彼の言葉に困惑の色を隠せなかった。でもそれは、『回る』という言葉の意味が分からなかったからではない。


「ずっと仕事してたんだし、今から遊ぶ権利は十分にあるでしょ?」

「そうかもしれませんが、午前中の間に回り切ったんじゃ……」


 私を手伝いに来た時、彼は一緒に来ていた人たちと回り切ったと言っていたからだった。


「もう一回、回ってみたいなって。きっと君となら、あいつらと回るより何倍も何十倍も楽しいだろうし。もしかして、俺と回るのは嫌だった?」

「いえ、そんなことは……」


 私は手を振って否定した。

 私はあまり学校祭を回ったことがなかった。だから比較する対象はないけれど、何倍も何十倍も、いや何百何千倍も楽しめる。そんな予感がした。


「そういえば、もう敬語はやめてよ。あの出店、二年一組が担当しているってことは、君も二年生なんでしょ? それなら俺たち同い年だよ」

「そうだったんですね……。いや、そうだったんだ」


 随分大人の雰囲気を持っていたので、私は一つ年上だと思っていた。そのためなのか、急に敬語を止めたからなのか、違和感が拭えない。


「あと、名前聞いてなかった。俺は月白秋春。君は?」

「梅沢実莉」


 こうして同い年に名前を聞かれたのは初めてだったかもしれない。あまり興味を持たれないし、持たれても名前は大体分かっている状態で話すことが多かった。

 だから、ただの自己紹介なのになんだか新鮮な感じがした。


「梅沢さん。もうしばらく休んでてよ。暫くしてから迎えに来るから」

「いや、もう大丈夫」


 経口補水液のおかげなのか、先程まであった体の火照りはスッと消えてしまっていた。

 私は静かに立ち上がり、手に当てていた冷却枕を片付けようとする。


「火傷の方も大丈夫なの?」

「うん。心配してくれてありがとう」


 火傷の方も確かに少し良くはなったが、こうして冷却枕を患部から離すとまた痛みが出てくる。

 それでも冷やすのを止めたのは、これから学校祭を回る際には邪魔になると感じたからだった。出店で仕事中の時の痛みに比べたら今の痛みは平気だし、きっと回っている間はそのことすら忘れてしまいそうな気がする。


「自分から誘っておいてあれだけど、無理だけはしないでね」

「分かった。何かあったら言うようにする」


 こうして私は、月白と一緒に学校祭を回ることになった。



* * *



 気付けば私は、あの頃の記憶をほとんど取り戻していた。

 もしあの時月白が現れていなければ、どこかで倒れていたかもしれない。そうしたらきっと今こうして生きていなかったかもしれないし、彼と出会うこともなかっただろう。私にとって彼は恩人に等しい人物だった。

 どうしてこんなに大切なことを忘れていたのだろうか。どうして彼のことを忘れてしまったのだろうか。

『過去』は読んで字の如く過ぎ去ったこと。今更悔いても仕方ないとは分かっている。

 それでも私は自分自身を強く責めた。


「月白君」

「ん?」


 私に呼ばれて彼は私の方を見た。私はずっと学校の中を見つめたままだ。


「あの日、月白君は男の人たちと来ていたんだよね。どうしてみんな帰るときに一緒に帰らなかったの?」


 午前中に回り切った月白たちだったが、月白以外の人たちは帰り、月白だけが帰らずに私の元に来た。学校まで一緒に来たのなら一緒に帰るのが普通だろう。


「この前まで梅沢さんがやっていたことを当時やっていたんだよ」

「それって……」

「偽りの自分を立てて、集団の中に入り込んでいたんだ」


 彼の口からその事実を聞いたことで、私のさっきの疑問はすぐに解消された。

 他人に合わせながら回る学校祭はきっと退屈で疲れるものだったに違いない。そのことは同じことを経験しているが良く知っている。

 きっと、月白は本当の意味で学校祭を楽しみたかった。だから私を連れ出したのだと思う。


「あの日をきっかけに、彼らとは縁を切ったんだ」

「どうして?」

「実は梅沢さんが一人でずっと仕事をしていたことにいち早く気付いたのは、その時のツレだったんだ」


 月白は、当時私のクラスが出していた出店のテントがあった場所を見つめて、その頃のことを回想しているようだった。


「『なんか初めに言った店の生徒、一人でずっと働いてるけどいじめかなぁ』って、そいつが言ったんだよね。俺はその言葉聞いてカッとなっちゃって、そいつのこと殴っちゃったんだよね……」


 頭を掻きながら月白は苦笑いを浮かべた。

 暴力とはかけ離れた性格であることを私は知っているので、その時彼は思考が感情に支配されてしまっていたのだろう。


「それで『そう思ったんだったら何で助けようとしないんだよ』って俺が言ったら、そいつ『他校の生徒がどうこうするべき問題じゃないだろ。大体なんでそんなこと程度で怒ってんだ!』って逆ギレされてさ。思い返してみると、あの時の俺の判断は子供だったなって少し反省してる」


 その殴られた人は、人として決して間違ったことは言っていない。家庭の事情に他人が首を突っ込むなと言うが、あの時の件も同じようなことが言えた。

 だからこの事実を知ってもその人を責めようとは思わないし、少なからず心配してくれていたのだとしたら十分だと思う。

 でも月白は当時、その人を許そうとしなかったのだ。


「その後、そのツレたちは気分を台無しにされたって言って帰っていったんだよ。連れが帰った後、俺はすぐに最初に行った店に向かった。そして、梅沢さんが一人で頑張っている姿を見つけた。でも明らかに無理をしているのは分かっていたから、動かずにはいられなかった」


 全ての点が線となり、あの時の謎は全て解けた。

 どうして彼はこんなに優しいんだろう。

 そう思えるほど、あの時の彼のからはたくさんの優しさを感じた。

 あの日、私は一つ言いそびれてしまっていたことがあった。随分と遅れはしたが、今こそそれを言うべきだと思う。


「あの時、月白君が来てくれなかったら途中で倒れていたと思う。あの時の私には途中で投げ出す勇気も、助けを呼ぶ勇気もなかったから。もしそうなっていたら、周りの人に迷惑かけることになっていただろうし、何かしら命に関わっていたかもしれない。だから私は月白君があの時来てくれたことには本当に感謝してる。ありがとう」


 私が頭を下げると、月白は慌てていた。


「気持ちは嬉しいんだけど、実は一つ謝らないといけないと思ってたんだ……」

「月白君が謝ることなんて一つも……」


 思い返してみても、彼が謝るべきことなんて一つもないと思う。仮にあったとしても、それを許せるくらい彼には感謝している。


「火傷していたのに、そのまま仕事を続けさせたのは間違ってた。どのタイミングで火傷したかは分からなかったけど、後々痕が残るようなことになったら……」


 なんだそんなことか、と私は内心ほっとしていた。そんな細かいところまで気遣えるあたり、本当に彼はすごいなと思う。

 私は彼を安心させるべく、当時火傷をした右手の甲を突き出して見せた。


「ほら。傷なんてどこにもないよ。だから謝らないで」


 あの頃に追った火傷の傷は幸いなことに痕が残ることはなく、数日で腫れも収まっていた。見つけてすぐに処置をするべきだったと言っていたが、仕事後のあの処置がなければ今も痕が残っていたかもしれない。


「結果的にはそうかもしれないけど……」

「いいのいいの。とにかくこの話はこれでお互いチャラってことで」

「……うん」


 約二年前と比較的最近のこととは言え、この出来事はもう過去で済んだこと。今更どう言ったって過去の事実が変わることはない。

 でも、過去は変えられるものだとと思う。当時の失敗も、今ではいい思い出だと振り返るように、人の過去は未来の行動次第で捉え方が変わるのだ。

 過去が変えられても変えられなくても、私たちが今向くべきは前で、考えるべきは未来だ。


「今後だけどさ、私たち友達としてやっていかない? この距離感で話せるのに、知り合いってのは違うと思うし」


 私は自らそう提案した。この距離感で話せるのなら、私たちは世間で言う『友達』になれているのだと思ったからだ。


「それもそうだね。それじゃあなんか変な気分だけど、これからもよろしく。梅沢さん」

「こちらこそ」


 私は月白が差し出した右手を握って固い握手を交わし、互いの関係性を改めて確認した。


 あれからしっかりと目に中学校の光景を焼き付けた私たちは、すぐにその場で解散した。


「このこと、押水さんに報告しないと。それにお礼もしないとね」


 そんなことを考え、久しぶりの中学からの帰り道を再び懐かしみながら帰宅の途に就いた。

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