第83集:雨上がりのように

 ここは、とある豪華な屋敷の一角。

 辺りが夜になっても、執事室は日中と変わらず慌ただしいままである。


 だが——それは当然!

 お嬢様の執事たる私の仕事に、休息はありえないのである!


 はてさて。もうすぐで午後11時。

 そろそろ私を呼ぶお嬢様の声が、屋敷中に響く時間である。


「執事ー!ちょっと来てくれるかしらっ!」


「はっ。ただいま向かいますお嬢様」


 執事は足早にお嬢様の部屋へ向かう。すでに彼女は薄い桃色の頬を膨らませており、ベッドの横に佇んでいた。

 

 そして待ち侘びた様子で、


「執事。雨の日に家で過ごすことが好き過ぎて、寝られないわっ!」


 幼さの残る声色を跳ねながら言葉を紡いでいく。


「一体どうしてくれるのかしらっ!!」


 …はてさて。

 ここからが私の仕事である。


「申し訳ありませんお嬢様。ではお嬢様の願いとは?」


 するとお嬢様は意地悪気な笑顔を浮かべてみせた。どこか憎らしくも思えるが、年齢相応の無垢な少女の微笑みである。


 彼女はおもむろに執事を指差して、


「私を寝かしつけなさい。以上よっ!」


 不敵な笑みを浮かべており、まるで執事を試している様子だ。しかし言動は、やはり子供そのものである。


 雨の日に家で過ごすことが好き過ぎて寝られない――ふむ。まったく関係は無い。


 だが!

 ここでお嬢様の願いを叶えられないようでは、それは三流執事!


 残念ながら私は、一流執事なのでございます…。


「承知しました。それではここで一つ提案がございます」


 執事は下げていた頭をゆっくりと上げて、瞼を細めてお嬢様を見つめた。

 心做こころなしか彼女の瞳は、従順な仔犬のように期待に満ちているようだった。しかしこれもまた見慣れた日常の一幕である。


 その瞳に応えるように、執事は答える。


「私、実は詩を書くことが趣味でございまして…」


「ふふっ。今夜も待ってたわ執事」


 彼女は待ち侘びたように、乾いた唇を小さく舐めてみせた。





 ◇◆◇◆




【第83集:雨上がりのように】


 窓辺の向こう 雨粒の合唱に

 瞼を閉じて 静かに聞き入る午前

 しずくが糸となって 山路縫うように染み渡れば

 暖翠覗かせ潤す 春の雨


 傘を通して 伝わる振動が

 無垢な気持ちを掘り起こす

 買い立ての雨靴鳴らして 水溜まり弾く喜びを味わっていた


 子どもの頃の無邪気さは 雨上がりによく似ている

 人知れずはしゃいでは 誰かの行く手を邪魔する時もある

 しかし空が晴れた頃には 誰もがかつて自分も雨だったことを忘れている


 そんな雨上がりの日には 

 ほんの少しだけ 鼻先が痒くなります

 懐かしさのともしび 胸に焦がして

 そんな雨上がりの日には

 ほんの少しだけ 照れくさくなります

 過ぎる若葉の季節 雨の香りが交じってゆく



 布団包まって 雨粒の演奏を

 瞼を閉じて 静かに寝入る午後

 雫が針となって 時間忘れて聞き耳を立てていれば

 花冷え戻り冷える 春の雨


 吐息掛ければ 白く曇る窓に

 言いかけては飲み込む恋文の

 続きを記しては消して 心の水溜まりが積もっていた


 不意に思い出す恋心は 雨上がりによく似ている

 想いが膨れてゆくほど 傘で視界を遮ってしまう時もある

 しかし空が晴れた頃には それはよくある通り雨だったと気付かされる

 

 そんな雨上がりの日には 

 ほんの少しだけ 鼻唄を口遊くちずさみます

 もどかしさの裏側 胸は暖かく

 そんな雨上がりの日には

 ほんの少しだけ 足踏軽やかになります

 流れる芽吹きの季節 新たな始まり感じてゆく


 僕たちを例えるならば 

 それは 雨上がりのよう

 晴れた空には 虹が微笑んでいる

 

 そんな雨上がりの日には 

 ほんの少しだけ 鼻先が痒くなってしまう

 懐かしさのともしび 胸に焦がして

 そんな雨上がりの日には

 ほんの少しだけ 照れくさくなってしまう

 過ぎる若葉の季節 雨の香りが交じってゆく

 

 雨模様の最中

 心は踊っている



 ◇◆◇◆




「――さて如何でしょう?お嬢様」


「すー…すー…」


 おやおや…。

 どうやらお嬢様は、眠ってしまったようでございます。


 はてさて。もう夜も深い。

 それではあなた様も、どうか良い眠りを。


 え?

 私はいつ眠るのか、ですって?

 

 いやはや…お優しいお心遣いありがとうございます。


 しかし心配はご無用でございます。


 執事たる者。

 お嬢様のためならば休息など必要ございませんゆえ…。


 それにまたすぐに、お嬢様から呼ばれるかもしれませんから――ね。 

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