第29集:もうひとつの故郷

 ここは、とある豪華な屋敷の一角。

 辺りが夜になっても、執事室は日中と変わらず慌ただしいままである。


 だが――それは当然!

 お嬢様の執事たる私の仕事に、休息はありえないのである!


 はてさて。もうすぐで午後11時。

 そろそろ私を呼ぶお嬢様の声が、屋敷中に響く時間である。


「執事ー!ちょっと来てくれるかしらっ!」


「はっ。ただいま向かいますお嬢様」


 執事は足早にお嬢様の部屋へ向かう。すでに彼女は薄い桃色の頬を膨らませており、ベッドの横に佇んでいた。

 

 そして待ち侘びた様子で、


「執事。故郷に帰りた過ぎて、寝られないわっ!」


 幼さの残る声色を跳ねながら言葉を紡いでいく。


「一体どうしてくれるのかしらっ!!」


 …はてさて。

 ここからが私の仕事である。


「申し訳ありませんお嬢様。ではお嬢様の願いとは?」


 するとお嬢様は意地悪気な笑顔を浮かべてみせた。どこか憎らしくも思えるが、年齢相応の無垢な少女の微笑みである。


 彼女はおもむろに執事を指差して、


「私を寝かしつけなさい。以上よっ!」


 不敵な笑みを浮かべており、まるで執事を試している様子だ。しかし言動は、やはり子供そのものである。


 故郷に帰りた過ぎて寝られない――ふむ。まったく関係は無い。


 だが!

 ここでお嬢様の願いを叶えられないようでは、それは三流執事!


 残念ながら私は、一流執事なのでございます…。


「承知しました。それではここで一つ提案がございます」


 執事は下げていた頭をゆっくりと上げて、瞼を細めてお嬢様を見つめた。

 心做こころなしか彼女の瞳は、従順な仔犬のように期待に満ちているようだった。しかしこれもまた見慣れた日常の一幕である。


 その瞳に応えるように、執事は答える。


「私、実は詩を書くことが趣味でございまして…」


「ふふっ。今夜も待ってたわ執事」


 彼女は待ち侘びたように、乾いた唇を小さく舐めてみせた。





 ◇◆◇◆




【第29集:もうひとつの故郷】


 胸には 誰にも譲れない綺麗な宝箱

 詰め込む 埃の思い出には 苦さや楽しさ

 孤独な夜に1人 

 時代に取り残されたビデオテープ

 巻き戻しては浸る 掛け替えのない記憶たち


 冬を知らせる風の中

 手合わせて 息を吹きかける姿が

 真白い風景 連れてくるよ


 いにしえより人は 駆ける切なさを

 無視するすべを見つけられない

 肩寄せて温め合う かつての君が呟く

 「私と一緒に居ても まだ切ない?」


 遥かな今日 遥かな明日

 果てしなき旅に準ずる

 この身は 愛する大地で始まった

 徒然に咲く人々の輪

 暖かな縁 抱き締めて今宵も眠る

 忘れ難き わが故郷よ



 手には 誰にも理解されない古びた宝石

 磨き上げる 錆びた思い出には 辛さや優しさ

 夜風に憂う1人

 去り行く人々の群れに馳せる想い

 この胸に宿る 獅子の叫びが聞こえるか


 春を鳴らす鐘の中

 繋ぎ合わす 花飾り乗せる姿が

 風を色付けて 隣で舞う


 いにしえより人は 想う愛しさを

 捨て去る術を見つけられない

 小指結んで見つめる かつての君が笑う

 「私はあなたと過ごす 私が好きよ」


 遥かな恋 遥かな愛

 出逢いという別れの軌跡

 振り向く その足跡は数え知れず

 幾重の片想いを越えた2人

 添う腕の中 故郷にも似た温かさ

 降り積もる 慕情の優しさよ



 故郷は 産まれた場所ではなく

 あなたが待つ場所 そのものでした


 遥かな過去 遥かな未来

 羽根に包まれた安らぎ

 穏やかさ 何事にも代えられない

 それぞれ異なる故郷の2人

 重なる視線 お互いがもうひとつの故郷

 育み合う 出逢いの尊さよ


 君こそが 僕の新たな故郷 




 ◇◆◇◆




「――さて如何でしょう?お嬢様」


「すー…すー…」


 おやおや…。

 どうやらお嬢様は、眠ってしまったようでございます。


 はてさて。もう夜も深い。

 それではあなた様も、どうか良い眠りを。


 え?

 私はいつ眠るのか、ですって?

 

 いやはや…お優しいお心遣いありがとうございます。


 しかし心配はご無用でございます。


 執事たる者。

 お嬢様のためならば休息など必要ございませんゆえ…。


 それにまたすぐに、お嬢様から呼ばれるかもしれませんから――ね。 


 静かに寝息を立てる彼女を横目に、執事は彼女のベッドへ腰掛けた。上質な肌さわりは臀部を跳ね返すように反発している。執事は深く座ってみせた。


 そして瞼を閉じて眠る彼女へ向かって、


「故郷へ行きたいですか?」


 いつも通り返事はない。しかし執事は彼女の寝顔を見つめたまま語りを紡いでいく。


「宜しければ、私の故郷に伺うのはどうでしょうか。御父上様には小旅行と称して」


 依然返事はない。令嬢として、就寝時間以降は起きてはならない規約だからだ。執事は、返事は来ないと知りつつも柔和な語り口を辞めなかった。


「私の故郷は、とても美しいところですよ。緑豊かで自然も多い。都会の喧騒から離れた静かな場所です」


 どこか懐かしむように、執事は天井を見上げて語る。子供の頃の思い出に心馳せているのかもしれない。薄暗い部屋の真ん中で、口角を上げて微笑んでみせた。


「おっと。今、お嬢様は眠っている時間帯のはずですから、お声は出せないですよね」


 執事が彼女の寝顔を覗き込むようにして近付く。そして部屋から漏れないような囁き声で、


「もしも私の提案に賛同頂けるようでしたら…」


 お嬢様の頬は薄暗い部屋でも分かるほどに、紅潮していた。そして家柄の規約を守ろうと瞼をギュッと固く閉じていた。


「そうですね。声を出さずに舌でも出してみましょうか」


 囁くように。そして確かめるように。

 執事は彼女へ投げ掛けた。すると「すー…すー…」という寝息と共に、小さく舌が顔を覗かせた。どこか照れ臭い様子であり、控えめな顔出しだった。


 執事は小さく微笑むと「お休みなさい」と一言呟いて部屋を後にした。聞き慣れた上質の革靴が部屋を遠ざかっていった。しかしどこか軽快な足音であったのは、屋敷中のすべての者が感じたという――。


 さてはて…今宵の夜は少し長くなりそうでございます。

 しかしこの執事。お仕えするお嬢様の願いとならば、休息など要りませぬゆえ…。


 夜も、より一層深くなって参りました。

 あなた様も、本日はここまでお付き合い下さり誠に感謝でございます。


 え?

 実際に故郷への旅行はするのは、いつですって?


 ふふふ。それはお嬢様の気分次第でございます。私に分かりますまい。

   

 ただ一つ分かることは――またすぐにお嬢様に呼ばれるということだけでございます。

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